「……お兄ちゃん、また徹夜したの?」
ベッドに横たわったまま、那由他は弱々しく笑った。
「してないよ。ちょっと考え事してただけ」
「うそ。目、真っ赤……」
窓の外では、十月の冷たい雨が静かに降り続いていた。
病室の白い照明に照らされた妹の顔は、夏の頃よりも明らかに痩せている。
「……ちゃんと寝ないと、倒れるよ?」
「倒れるわけないでしょ。僕はお兄ちゃんなんだから」
「そういうところ、昔から変わらないよね……」
那由他は小さく笑った。
けれど、その笑みにはもう力がなかった。
両親を失ったショックは、龍が思っていた以上に那由他の心を蝕んでいた。
元々、先天性魔法障害を抱えていた彼女は、精神状態の悪化がそのまま身体機能へ直結する。
食事量は減り、眠る時間は増え、起き上がるだけでも息を切らすようになっていた。
龍は必死だった。
少しでも食べられそうなものを探し、医師に頭を下げ、妹の負担を減らせそうな魔法式の案まで考えた。
夜中にうなされれば手を握り、眠れないと言われれば朝まで話し相手になった。
「ほら、今日はちゃんと食べられそうなもの買ってきたんだ」
龍は紙袋を掲げる。
那由他が昔好きだったプリンだった。
「……ありがとう」
けれど、那由他は数口食べただけで、すぐにスプーンを置いてしまった。
「ごめんね……」
「謝る必要はないって。今は食べられる分だけでいいから」
「でも、お兄ちゃん……」
その声は、ひどく掠れていた。
「私、何もできない……」
「そんなことない」
龍は即座に否定した。
「那由他が生きてるだけで、僕は――」
言葉が詰まる。
喉の奥が焼けるように痛かった。
「……僕は、救われてるから」
那由他は少しだけ目を見開き、そして泣きそうに微笑んだ。
◇
十一月に入る頃には、那由他は一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた。
目を覚ます時間は短い。
会話も途切れ途切れ。
それでも龍は、毎日彼女の傍にいた。
「お兄ちゃん……いる?」
「いるよ」
「……よかった」
それだけ言って、また眠ってしまう日もあった。
龍は怖かった。
目を離した瞬間、そのまま二度と起きなくなるのではないか。
そんな恐怖が、四六時中胸に張り付いて離れなかった。
だから彼は、一人になる時間を極端に嫌うようになった。
眠る時も、食事をする時も、できる限り那由他の傍を離れない。
まるで、離れたら消えてしまうものを繋ぎ止めるみたいに。
◇
そして――2094年12月30日、深夜。
外では雪が降っていた。
静かな夜だった。
音という音が、雪に吸い込まれていく。
病室の中には、微かな機械音だけが響いている。
「……お兄ちゃん」
か細い声だった。
椅子に座ったまま眠りかけていた龍は、弾かれたように顔を上げる。
「那由他?」
「起きて……」
「うん、いる。ここにいるよ」
龍は慌てて妹の手を握った。
冷たい。
ひどく冷たかった。
「……雪、降ってる?」
「降ってるよ」
「そっか……」
那由他は、どこか安心したように目を細めた。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「なに?」
「……私ね」
そこで一度、彼女は苦しそうに呼吸を止めた。
「ずっと……言えなかったこと、あるの……」
「無理して喋らなくていい」
「ううん……今、言いたい……」
龍は黙った。
嫌な予感がした。
けれど、その言葉を止めることができなかった。
那由他は震える唇を動かす。
「私……お兄ちゃんのこと……」
消え入りそうな声。
「兄妹としてじゃ、なくて……」
龍の瞳が揺れる。
「一人の男の人として……好き、だった……」
静寂。
時間が止まったようだった。
「……そっか」
龍が絞り出せた言葉は、それだけだった。
那由他は、泣きそうに微笑む。
「困らせちゃったね……」
「そんなこと――」
「でも、最後に……伝えられて、よかった……」
細い指が、龍の手をほんの少しだけ握り返す。
「……お兄ちゃん」
「うん」
「大好き……」
その言葉を最後に。
百済那由他は。
「――那由他?」
返事はない。
「……那由他」
もう一度呼ぶ。
それでも、返事は返ってこなかった。
龍は、しばらく動けなかった。
握った手の冷たさだけが、現実だった。
窓の外では、雪が降り続けている。
世界はあまりにも静かで。
まるで、少女の最期を悼むように――ただ白く、白く染まっていた。