劣等生と落伍者(Re:)   作:百済 影炎

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第八話 雪の夜に

「……お兄ちゃん、また徹夜したの?」

 

 ベッドに横たわったまま、那由他は弱々しく笑った。

 

「してないよ。ちょっと考え事してただけ」

 

「うそ。目、真っ赤……」

 

 窓の外では、十月の冷たい雨が静かに降り続いていた。

 病室の白い照明に照らされた妹の顔は、夏の頃よりも明らかに痩せている。

 

「……ちゃんと寝ないと、倒れるよ?」

 

「倒れるわけないでしょ。僕はお兄ちゃんなんだから」

 

「そういうところ、昔から変わらないよね……」

 

 那由他は小さく笑った。

 けれど、その笑みにはもう力がなかった。

 

 両親を失ったショックは、龍が思っていた以上に那由他の心を蝕んでいた。

 

 元々、先天性魔法障害を抱えていた彼女は、精神状態の悪化がそのまま身体機能へ直結する。

 食事量は減り、眠る時間は増え、起き上がるだけでも息を切らすようになっていた。

 

 龍は必死だった。

 

 少しでも食べられそうなものを探し、医師に頭を下げ、妹の負担を減らせそうな魔法式の案まで考えた。

 夜中にうなされれば手を握り、眠れないと言われれば朝まで話し相手になった。

 

「ほら、今日はちゃんと食べられそうなもの買ってきたんだ」

 

 龍は紙袋を掲げる。

 那由他が昔好きだったプリンだった。

 

「……ありがとう」

 

 けれど、那由他は数口食べただけで、すぐにスプーンを置いてしまった。

 

「ごめんね……」

 

「謝る必要はないって。今は食べられる分だけでいいから」

 

「でも、お兄ちゃん……」

 

 その声は、ひどく掠れていた。

 

「私、何もできない……」

 

「そんなことない」

 

 龍は即座に否定した。

 

「那由他が生きてるだけで、僕は――」

 

 言葉が詰まる。

 喉の奥が焼けるように痛かった。

 

「……僕は、救われてるから」

 

 那由他は少しだけ目を見開き、そして泣きそうに微笑んだ。

 

     ◇

 

 十一月に入る頃には、那由他は一日のほとんどを眠って過ごすようになっていた。

 

 目を覚ます時間は短い。

 会話も途切れ途切れ。

 それでも龍は、毎日彼女の傍にいた。

 

「お兄ちゃん……いる?」

 

「いるよ」

 

「……よかった」

 

 それだけ言って、また眠ってしまう日もあった。

 

 龍は怖かった。

 

 目を離した瞬間、そのまま二度と起きなくなるのではないか。

 そんな恐怖が、四六時中胸に張り付いて離れなかった。

 

 だから彼は、一人になる時間を極端に嫌うようになった。

 

 眠る時も、食事をする時も、できる限り那由他の傍を離れない。

 まるで、離れたら消えてしまうものを繋ぎ止めるみたいに。

 

     ◇

 

 そして――2094年12月30日、深夜。

 

 外では雪が降っていた。

 

 静かな夜だった。

 音という音が、雪に吸い込まれていく。

 

 病室の中には、微かな機械音だけが響いている。

 

「……お兄ちゃん」

 

 か細い声だった。

 

 椅子に座ったまま眠りかけていた龍は、弾かれたように顔を上げる。

 

「那由他?」

 

「起きて……」

 

「うん、いる。ここにいるよ」

 

 龍は慌てて妹の手を握った。

 冷たい。

 ひどく冷たかった。

 

「……雪、降ってる?」

 

「降ってるよ」

 

「そっか……」

 

 那由他は、どこか安心したように目を細めた。

 

「ねえ、お兄ちゃん……」

 

「なに?」

 

「……私ね」

 

 そこで一度、彼女は苦しそうに呼吸を止めた。

 

「ずっと……言えなかったこと、あるの……」

 

「無理して喋らなくていい」

 

「ううん……今、言いたい……」

 

 龍は黙った。

 嫌な予感がした。

 けれど、その言葉を止めることができなかった。

 

 那由他は震える唇を動かす。

 

「私……お兄ちゃんのこと……」

 

 消え入りそうな声。

 

「兄妹としてじゃ、なくて……」

 

 龍の瞳が揺れる。

 

「一人の男の人として……好き、だった……」

 

 静寂。

 

 時間が止まったようだった。

 

「……そっか」

 

 龍が絞り出せた言葉は、それだけだった。

 

 那由他は、泣きそうに微笑む。

 

「困らせちゃったね……」

 

「そんなこと――」

 

「でも、最後に……伝えられて、よかった……」

 

 細い指が、龍の手をほんの少しだけ握り返す。

 

「……お兄ちゃん」

 

「うん」

 

「大好き……」

 

 その言葉を最後に。

 

 百済那由他は。

 

 

 

「――那由他?」

 

 返事はない。

 

「……那由他」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 それでも、返事は返ってこなかった。

 

 龍は、しばらく動けなかった。

 

 握った手の冷たさだけが、現実だった。

 

 窓の外では、雪が降り続けている。

 

 世界はあまりにも静かで。

 

 まるで、少女の最期を悼むように――ただ白く、白く染まっていた。

 

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