ノーヘルの黒いバイクは、校舎裏の景色の中でもひときわ目立っていた。
森へ抜ける途中の中庭側。
そこを歩いていたユイが、ふと足を止める。
「……え」
手に持っていた紙パックジュースが、わずかに揺れた。
隣の関根も視線を上げる。
そして、そのまま固まった。
低いエンジン音。
黒い車体。
森へ向かって走るバイク。
前にいるのは乾巧。
その後ろに、当たり前のように乗っている岩沢。
「……は?」
関根が間の抜けた声を漏らす。
ユイの顔が一瞬で引きつった。
「い、岩沢さん!? なんでノーヘルでバイクに!?」
巧が少しだけ後ろを見る。
「知り合いか?」
「ガルデモ」
岩沢は淡々と返す。
だが、口元だけはほんの少し緩んでいた。
その瞬間だった。
「いやいやいやいや!!」
ユイの表情がさらに崩れる。
「今、授業中ですよね!? 午前中ですよね!? 校内ですよねぇぇぇ!?」
声が一段ずつ上がっていく。
そして、見てはいけないものを見てしまったように固まると――
「不良カップルじゃないですかぁぁぁぁ!!」
校舎裏に響き渡る叫び。
一瞬、風の音すら負けた。
関根は横でぼそっと言う。
「……いや、目立ちすぎだろ」
ユイは即座に振り返った。
「そこじゃないですよねぇぇぇ!!」
「学校の敷地内で!! ノーヘルで!! ツーリングしてる時点で全部アウトですよぉぉぉ!!」
「どこの不良カップルですかぁぁぁ!!」
その叫びだけが、午前の静かな校舎裏にやけに残った。
バイクはそのまま森へ抜けていく。
風が少し強くなる。
岩沢が後ろで小さく息を吐いた。
「さっきの、完全にカップルに見られてたな」
「……何言ってんだ」
「まぁ、アタシは別に嫌じゃなかったけど」
巧が一瞬だけ反応する。
「は?」
「誤解されるの」
「……好きに言わせとけ」
その言葉に、岩沢は少しだけ目を細めた。
「そういうとこだな、お前」
それ以上は続かない。
ただ、森の音だけが戻ってくる。
やがてバイクは減速し、停止した。
エンジン音が消えると、森の静けさが一気に戻ってきた。
「……意外と長く乗ってたな」
「そんなでもねぇだろ」
巧はエナメルバッグを肩に掛け直す。
二人はそのまま搬入口へ戻っていった。
チャーは工具箱に腰掛けたまま、顔を上げる。
「おう、不良カップル」
岩沢が一瞬止まった。
「……は?」
巧は無言で見る。
チャーは悪びれずに続けた。
「さっき中庭で騒いでたやついたろ。声デカかったな」
「まあ声量は合格だ」
岩沢は苦笑いしながら言う。
「余計な評価すんな」
巧がため息を吐く。
チャーは肩をすくめ、手元のアクセルウォッチを持ち上げた。
「で、本題な」
その一言で、空気が少し変わる。
巧の視線が自然とそこへ向いた。
「ゆり達にも言ってある。今回のは最後まで見せてもらう」
「直した以上、確認する権利はあるだろ」
「……好きにしろ」
巧はファイズフォンを取り出した。
画面を開き、操作する。
『Standing By』
電子音声が響いた。
巧はファイズフォンをベルトに装着する。
「変身」
ボタンを押す。
『Complete!』
赤い光が走り、装甲が一気に組み上がる。
ファイズがそこに立った。
その瞬間、空気が変わった。
岩沢は思わず半歩だけ下がる。
理由は分からない。
さっきまで普通に話していた巧が、今は目の前にいるのに、どこか遠い。
装甲に覆われた姿だけが違うわけではなかった。
立ち方も、周囲への意識の向け方も、別人のように感じる。
それでも、あの中にいるのは間違いなく巧だった。
チャーは一歩近づき、装甲の関節部に軽く触れる。
「……問題なし」
関節を確かめ、装甲の動きを目で追う。
「それにしても、本当にどうなってんだコレ」
軽く笑いながらも、目は真剣だった。
そして、チャーはアクセルウォッチを持ち上げる。
「次だ」
空気がさらに締まった。
ファイズは手首にアクセルウォッチを装着する。
通常のメモリを取り外し、アクセル用のメモリへ差し替えた。
『Complete!』
電子音声が響く。
胸部装甲が左右に開き、内部機構が露出した。
「おお……」
チャーが小さく声を漏らす。
巧は手首を持ち上げ、アクセルウォッチを操作した。
一瞬の静寂。
『Start Up!』
甲高い電子音が森に響き渡る。
ギュワァァァァンッ!!
全身を赤い光が駆け抜けた。
空気が震え、ファイズの輪郭が揺らいだように見える。
チャーが目を見開く。
「……おいおい、なんだ今の音」
ファイズが一歩踏み出した。
次の瞬間、身体が前へ飛び出す。
「うおっ!?」
巧の足が地面を蹴る。
景色が流れた。
木々の位置、地面の起伏、目の前に迫る枝。
それらが、目まぐるしく視界に飛び込んでくる。
それでも、巧の視線は障害物を捉えていた。
枝を避ける。
身体を傾ける。
足を踏み替える。
考えるより先に、身体が反応していた。
だが――
「……っ!」
避けた直後、足元の感覚がずれた。
体勢を立て直そうとする。
身体は反応している。
それなのに、動きが噛み合わない。
「うおっ、ヤベェっ!」
巧はとっさに身体をひねった。
地面に手をつく寸前、どうにか姿勢を変える。
だが、勢いまでは殺しきれなかった。
ズザーッ!!
地面を滑り、ようやく止まる。
少し離れた場所で、チャーが呆然と立っていた。
「……今、ヤベェって聞こえなかったか?」
「うるせぇ!」
巧は勢いよく立ち上がる。
ファイズの視線が、自分の手足へ向いた。
動ける。
周囲も見えている。
何をすればいいのかも、身体が勝手に反応していた。
だが、思ったとおりの動きにはならない。
「クソがっ……!」
巧は再び地面を蹴った。
今度は身体の動きに意識を合わせる。
迫る木を見極め、直前で進路を変える。
枝をかわし、傾いた身体を立て直す。
さっきよりは動けていた。
それでも、加速した身体は思いどおりに止まらない。
踏ん張った足が地面を滑る。
木々が目の前を流れていく。
巧は視線を走らせ、わずかな隙間を見つけて身体をねじ込んだ。
直後、背後で枝が弾ける。
自分が何をしたのか、頭で整理する暇はない。
身体が覚えている動きに、必死でついていく。
アクセルウォッチの表示が変わった。
『5』
ピピピピピピピピッ!!
あちこちで枝が折れる。
だが、折れた瞬間は見えない。
結果だけが、次々と視界の端に現れる。
『4』
ピピピピピピピピッ!!
高速で木が叩かれる音が響いた。
巧は枝を避け、木々の間を駆け抜ける。
視界に入った障害物を認識するのは早い。
しかし、それを避けたあとの姿勢制御が追いつかない。
『3』
ピピピピピピピピッ!!
木肌が裂ける。
ファイズの身体が大きく傾く。
巧は即座に足を踏み替え、倒れかけた身体を支えた。
どうにか転倒を免れる。
だが、そのまま走り続けるしかなかった。
『2』
ピピピピピピピピッ!!
一本の木が大きく傾いた。
「おいおい……!」
チャーが後ずさる。
ファイズが方向を変えた。
その動きに、チャーの顔が引きつる。
『1』
ピピピピピピピピッ!!
「馬鹿……こっち来んな!」
チャーが叫ぶ。
高速で戻ってこようとするファイズの姿が、視界の向こうから迫ってきた。
「おい、止まれ! そっちは――」
言い終わる前に、ファイズが足を滑らせた。
ズザーッ!!
地面を削りながら、チャーの目の前を通り過ぎる。
「うおっ!?」
チャーが慌てて飛び退く。
ドンッ!!
ようやく音が追いついた。
『Time Out!』
電子音声が響く。
全身を包んでいた赤い光が消え、森の時間が戻った。
折れた枝が地面に落ちる。
傾いた木が、ゆっくりと倒れていった。
静寂。
岩沢は息を一つ吐いた。
「……何これ、意味分かんない」
チャーは倒れた木を見て、それからファイズへ視線を戻す。
「お前……大丈夫か?」
ファイズは仰向けに大の字になって倒れていた。
しばらくして、ファイズが少しだけ上体を起こす。
「……クソッ」
腰のファイズフォンを引き抜く。
変身が解除され、巧の姿に戻った。
そのまま、再び地面に仰向けになる。
チャーは呆れたように息を吐いた。
「変身したとこは映像で見せてもらったが、生で見るとスゲェな……そっちは制御できてないが」
「なんでこんなもん入ってんだよ。誰が使えんだよ」
不機嫌そうに巧が言う。
「本当にな…」
岩沢が思わず口にする。
チャーはアクセルウォッチを見下ろした。
「前はその電話みたいなのが銃になるとこしか見てねぇからな……こんなもん隠しやがってたとは驚いた」
岩沢は視線を落としながら、小さく呟く。
「これ、ちゃんと使っていいやつなのか?」
巧は少しだけ間を置いてから答えた。
「俺も分かんねぇ」
「お前は本当になんなんだ?」
さっきまでの異常な速度の余韻だけが、まだ森に薄く残っていた。
チャーはアクセルウォッチを指で回しながら言う。
「性能の話なら、まあ規格外だな。身体には影響ねぇのか?」
「ああ、なんかスゲェ疲れた。フワッとして変な感覚だ」
「まあ、だろうな」
巧は自分の手を握り、開いた。
さっきまでの感覚が、まだ身体に残っている。
動こうとした時には、もう身体が反応していた。
それなのに、動きの終わりを思いどおりに決められない。
巧は眉をひそめた。
「……使いづらいな、これ」
「そりゃ、あんな動きしてりゃな」
「仕方ねぇだろ、お前らも使ってみろよ」
いつもの調子で返す巧。
「アタシらそれ使う前にベルトに吹っ飛ばされんだろ」
岩沢は数日前の事を思い出す。
「ソイツ以外が使ったら吹っ飛ばされんのか?」
チャーはずっとギルドに籠ってるから知らなかった。
「ゆりっぺが試して11回吹っ飛ばされてた」
岩沢はあの日の事を思い出し呆れながら話す。
「アイツらしいな…さすがリーダーだ」
その後岩沢は巧を見ていた。
知っているはずのものなのに、目の前のそれは別物みたいに見える。
あの上映会で見た時は、映像の中の出来事だった。
巧が変身し、天使と戦う。
それを見て、強い奴だと思った。
だが、今は違う。
目の前で起きたことは、ただ強いという言葉では片付けられなかった。
あの速度で走り、木々をなぎ倒し、それでも巧は自分の身体を完全には制御できていなかった。
それなのに、本人は大したことではないように振る舞っている。
岩沢は、少しだけ眉を寄せた。
「……なぁ」
ぽつりと声を落とす。
「なんか変だな」
巧が眉を動かす。
「何が」
「いや……」
岩沢は倒れた木を見る。
「さっきまで普通に喋ってたのに、変身すると、なんか急に遠く見える」
少しの沈黙。
森の風だけが通る。
巧は視線を逸らした。
「……気のせいだろ」
「そうか?」
岩沢は少しだけ首を傾げる。
巧の返事はいつも通りだった。
ぶっきらぼうで、何も気にしていないような声。
それが、かえって不思議だった。
あれほどの力を使って、制御もできずに転んで。
それでも、本人は平然としている。
岩沢は少しだけ考えた。
「……じゃあ、気のせいってことにしとく」
そう言って前を向く。
二人はチャーのところへ戻ろうと歩き出した。
数歩進んだところで、岩沢がまた足を止める。
今度は振り返らなかった。
「でも、いなくなるなら勝手に消えるなよ」
巧が眉をひそめる。
「……何だそれ」
「別に」
岩沢はそれ以上言わなかった。
ただ、歩き出す前に一度だけ、巧の方へ視線を向けた。
巧は何も答えず、その隣に並ぶ。
二人の足音が、静かな森の中に戻っていった。