「とりあえずそのケースの事は一旦置いとくか、行くぞ」
短いやり取りだったが、不思議と妙な距離感はなかった。
巧はふと周囲を見渡す。
整っているのに、どこか現実感の薄い空間。
長机が並ぶ食堂は、誰もが勝手に時間を使っているのに妙に秩序がある。
(……ここ、ほんとに死後の世界なのかよ)
思わず、声にならないほどの小さな呟きが漏れる。
岩沢はそれを気にした様子もなく、食券をトレーに置いていく。
「まぁ、最初はみんなそんな感じだよ」
「すぐ慣れる」
ひさ子は横で軽く笑う。
「慣れるっていうか、諦めるっていうか」
「どっちだよ」
そんな軽口のやり取りを聞きながら、巧も席につく。
トレーの上に並んだ三つの料理――ラーメン、カツ丼、そして鍋焼きうどん。
その中でもひときわ存在感を放っているのが、湯気を激しく立てるそれだった。
「……なんでこれなんだ」
見た瞬間、思わず呟く。
熱いというより“攻撃的”な湯気だった。
「それアンタの」
岩沢が何でもないように言う。
「この学校で一番熱い料理だから気を付けな」
「分かってるよ」
そう言いながら手を伸ばした瞬間、反射的に引っ込める。
「フーフー……フーフー……」
両手まで使って冷ますという謎の真剣さに入る巧。
その様子を見て、ひさ子が呆れたように息を吐く。
「アンタ、まだそれやってんの?」
「熱いんだよ」
「だからって長すぎだろ!」
軽いツッコミが飛ぶが、岩沢は少しだけ口元を緩めていた。
そのやり取りの間に、二人の皿はすでに半分を切っていた。
巧だけが、まだ手付かずの鍋焼きうどんと格闘していた。
「そういえばアンタ、新人って事は天使の事とかまだ知らないんだろ?」
ひさ子がふと思い出したように声をかける。
フーフーしながら答える巧の動きが、わずかに止まる。
「天使?」
その単語にだけ、空気の温度がほんの少しだけ変わる。
岩沢が淡々と説明する。
「この学校には“天使”って呼ばれてる生徒会長がいるんだ」
「昨日会ったやつか?」
「会ったのかよ!?」
ひさ子が思わず身を乗り出す。
岩沢は特に驚いた様子もなく、淡々と続ける。
「で、どうだった?」
「無言で刃物出してきた」
「いつも通りだな」
その軽さが、この世界の異常さを逆に強調していた。
巧は小さく息を吐く。
「ここ、ほんとにまともじゃねぇな」
そのときだった。
少し離れた席から、視線がひとつだけ差し込まれる。
白い髪の少女――立花奏。
一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を外す。
何事もなかったように食事へ戻っていく。
(……昨日のやつか)
巧はその一瞬だけ意識を向けるが、すぐに鍋へと戻す。
「なぁ新入り」
岩沢が声をかける。
「アンタ、名前なんて言ったっけ」
「乾巧」
「乾か」
短く頷く。
「長い付き合いになるかもな」
その言葉の意味を深く考える前に――
「岩沢さん、ひさ子さん」
割り込む声。
視線を向けると、一人の少女が立っていた。
長い薄紫色の髪。
頭には赤いリボン付きのカチューシャ。鋭さを感じさせる瞳と合わせて、どこか人を引っ張るような強い空気をまとっていた。
「この人が例の……天使の攻撃を防いだ新人?」
岩沢が軽く肩をすくめる。
「ゆりっぺ。コイツそんなスゲーやつなのか?」
だが巧は、会話には一切入っていない。
「フーフーフーフー……」
ひたすら鍋焼きうどんと戦っている。
その異様な集中力に、ゆりっぺと呼ばれていた少女、ゆりは眉をひそめる。
「ちょっと、いつまで冷ましてんのよ。人の話聞きなさいよ!そのケースの事とか聞きたいことあるんだから!」
気づけば、岩沢とひさ子はすでに食べ終わっていた。
「アタシら同時に食べ始めたはずなのにな」
「ってことは、コイツずっとこれやってんの?」
ゆりは一度だけ息を吐き、巧を見た。
そして、少しだけ目を細める。
「……まあいいわ」
「食事が終わったら、その人をオペレーションルームに連れてきて」