EP6-3
直井の事件が起きてから、雨はずっと降り続いていた。
空は厚い雲に覆われ、絶え間ない雨音が辺りに響いている。
巧の髪も制服も、降り続く雨に濡れていた。
目の前には、先日、巧に一目惚れしたと言ってきた端正でクールな顔立ちの少女――椎名が立っていた。
「椎名、そういえば俺と戦いたいんだったか?」
不意に声を掛けられ、椎名は顔を上げた。
目の前に立っていたのは、乾巧だった。
「……ああ」
以前、自分から頼んだことだ。忘れるはずもない。
「……本当か?」
思わず聞き返していた。
巧は短く頷く。
「ああ」
「……そうか!」
気づけば、声が弾んでいた。
自分でも驚くほど、素直に嬉しかった。
これまで何度も戦いを申し込もうと思っていた。だが、巧には巧の事情がある。無理に頼み続けるのも違うと思い、機会を待つことにしていたのだ。
それが、まさか向こうから誘ってくれるとは。
「……ふっ、そうか。お前から誘ってくれるとは思わなかった」
「そんなに嬉しいのか?」
「悪いか?」
「いや、別に」
巧はいつもの調子で答えた。
椎名は、ほんの少し口元を緩めた。
戦うこと自体が楽しみなのはもちろんだ。
だが、それだけではなかった。
以前、岩沢と話していた巧の姿が、ふと脳裏をよぎる。
戦っている時とは違う、どこか気の抜けた表情。岩沢の言葉に面倒そうに返事をしながらも、結局は話に付き合っている姿。
あの時から、椎名は巧という人間に少しずつ興味を持ち始めていた。
戦闘中の強さだけでは分からないものがある。
だからこそ、一度、本気で向き合ってみたかった。
「……では、頼む」
「ああ。場所は……まあ、適当でいいか」
巧はそう言って歩き出した。
椎名もその後に続く。
だが、しばらく歩いたところで、椎名はふと違和感を覚えた。
……何だ?
巧の様子が、いつもと違う気がした。
言葉遣いも態度も、特別変わったわけではない。
それでも、どこか気になる。
「……どうした?」
「いや、何でもない」
巧は振り返ることなく答えた。
「……そうか」
椎名は、それ以上尋ねなかった。
自分はまだ、この男のことをよく知らない。
気のせいかもしれない。今の時点で、何かを決めつける理由はなかった。
せっかく、向こうから誘ってくれたのだ。
今は余計なことを考えず、この時間を楽しもう。
そう思い直し、椎名は再び歩き出した。
だが、その時の椎名はまだ知らなかった。
巧が自分から戦いを申し出た理由が、彼女の期待していたものとは、まるで違っていたことを。
二人が向かい合う。
雨に濡れた地面に、二人の足音が響く。
周囲には、誰もいなかった。
学校からも離れた、人通りのない場所。
椎名は周囲を見渡してから、巧に視線を戻した。
「……随分と離れた場所まで来たな」
「ああ。これくらいの方が、好きに動けるだろ」
「……それもそうだな」
椎名は納得したように頷いた。
確かに、戦うのであれば広い場所の方が都合がいい。余計な邪魔が入る心配もない。
一方、巧は懐からファイズフォンを取り出した。
椎名の視線が、自然とそこへ向かう。
「……それが、ふぁいずの力か」
「ああ」
巧はファイズフォンを開き、コードを入力する。
『Standing by』
電子音が響いた。
「変身」
赤い光が巧の身体を包み、装甲が次々と形成されていく。
やがて、そこに立っていたのは仮面ライダーファイズだった。
『Complete』
「……やはり、その姿は格好いいな」
思わず、椎名の口から本音が漏れた。
映像で見た時も印象的だったが、実際に目の前にすると、その存在感はまるで違っていた。
これほどの力を持ちながら、巧は普段、どこか気だるげに振る舞っている。その落差もまた、椎名には興味深かった。
「……そうかよ」
しかし、返ってきた声は素っ気なかった。
椎名は一瞬だけ首を傾げたものの、短刀と小太刀を構えた。
「……では、行くぞ」
「ああ」
椎名が踏み込む。
小太刀を振るい、続けて短刀を繰り出す。
巧はそれを受け流し、距離を取った。
動きに無駄はない。防御も正確だ。
だが、攻撃してこない。
椎名が何度仕掛けても、巧は防ぐか、避けるだけだった。
「……どうした?」
椎名は構えを崩さずに尋ねた。
「何がだよ」
「お前も攻撃してこい」
巧は一瞬だけ黙った。
「……俺はコレが全力だ。攻撃する余裕ねぇんだよ」
「……嘘をつくな」
椎名は即座に言い返した。
「嘘じゃねぇ! あまり買い被んな!」
巧の声が、わずかに荒くなった。
しかし、そこに本気で戦っている者の気迫は感じられなかった。
椎名は巧を見つめた。
そんなはずはない。
天使と戦っていた時のファイズは、こんなものではなかった。
映像越しでも分かるほどの力強さがあった。敵の攻撃を受けても怯まず、必要とあらば自ら踏み込んでいた。
今の動きからは、その片鱗すら感じられない。
いや、正確には違う。
動きそのものが鈍いわけではない。防御も、間合いの取り方も、決して素人のものではなかった。
それなのに、巧は攻めようとしない。
まるで、戦いを終わらせることそのものを拒んでいるかのようだった。
「……そんなはずはない」
「そう思いたいなら、そう思ってればいいだろ」
巧の声には、苛立ちすらなかった。
まるで、どうでもいい話を早く終わらせたいと言わんばかりだった。
椎名は、小太刀を握る手に力を込めた。
「……お前は、私を相手にする気がないのか?」
「……好きに解釈しろよ」
その言葉を聞いた瞬間、椎名の胸に冷たいものが落ちた。
戦いを楽しみにしていた。
巧がどれほど強いのか、自分の力がどこまで通じるのか。それを確かめたかった。
だが、それ以上に、真正面から向き合ってほしかったのだ。
勝っても負けてもいい。
少なくとも、互いに本気でぶつかり合ったのなら、そこから分かるものがあるはずだった。
それなのに、巧は最初からこちらを見ていない。
目の前にいるはずなのに、まるで遠くにいる誰かと話しているようだった。
「……なら、無理にでも本気を出させてやる」
椎名は踏み込んだ。
短刀と小太刀が連続して閃く。
巧は防御を続けたが、反撃はしなかった。
いや、できないのではない。
できるはずなのに、しようとしない。
時折、避けられるはずの攻撃にさえ、反応が遅れる。
椎名はそのたびに違和感を覚えた。
……なぜだ?
戦う意思がないのなら、最初から断ればよかった。
それなのに、自分から誘っておいて、どうしてこんな戦い方をする?
「……お前は、私との戦いに何の意味も感じていないのか?」
問い掛けても、返事はなかった。
その沈黙が、何よりも答えに思えた。
椎名の胸にあった期待が、少しずつ別の感情に変わっていく。
悔しさ。
失望。
そして、目の前の男が何を考えているのか分からないことへの苛立ち。
椎名は一度距離を取り、構え直した。
「……もう一度聞く。お前は、本当にそれが全力なのか?」
「ああ」
「……そうか」
短い返事だった。
それでも、椎名には分かった。
巧は何かを隠している。
それが何なのかは分からない。
ただ、目の前の男が自分とまともに向き合おうとしていないことだけは、嫌というほど伝わってきた。
「……ならば、私が本気を出させてやる」
椎名は再び踏み込んだ。
巧は攻撃を受け流そうとしたが、最後の一撃を捌ききれず、体勢を崩した。
椎名はその隙を逃さなかった。
巧を地面へと倒す。
勝負は決まった。
だが、勝ったという実感は、どこにもなかった。
巧は地面に倒れたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと上体を起こす。
ファイズフォンに手を伸ばし、自ら取り外した。
変身が解除され、そこにいたのは、いつもの乾巧だった。
椎名は、そんな彼を見下ろしていた。
「……私の勝ちだ」
「ああ」
巧は短く答えた。
その顔には、悔しさも、敗北への不満も見当たらない。
まるで、勝敗など最初からどうでもよかったかのようだった。
「……貴様、私を馬鹿にしているのか?」
「してねぇよ」
「ならば、なぜ本気を出さなかった!」
「……お前が俺を買い被りすぎなんだよ」
「まだそんなことを言うのか!」
椎名の声が鋭くなる。
「私は、お前の強さを確かめたかっただけではない!」
巧は答えなかった。
「お前が何を考えているのか、少しでも知りたかった。だからこそ、戦ってみたいと思ったのだ!」
一度は、惚れたと伝えた相手だった。
その気持ちに、今さら何かを期待していたわけではない。
それでも、巧という人間をもっと知りたいと思った。
戦っている時の強さだけではない。普段の気だるげな態度も、岩沢と話している時の表情も。その奥に何があるのか、知りたかった。
だが、目の前の男はどうだ。
自分から戦いを申し込んでおきながら、まともに相手をしようともしない。
それどころか、まるで何もかも諦めたような顔をしている。
「……どうしてだ?」
「……何がだよ」
「どうして、そんな顔をしている?」
巧の目が、わずかに椎名へ向いた。
「……別に、普通だろ」
「嘘をつくな」
椎名は即座に言い返した。
「お前は、最初からおかしかった。私の攻撃を避けられるはずなのに、反応が遅れることもあった。反撃できるはずなのに、何もしなかった」
小太刀を握る手に力がこもる。
「それでも私は、何か理由があるのだと思っていた。だから、何度も問い掛けた。だが、お前は何も答えなかった!」
巧は視線を落とした。
「……話すことなんかねぇよ」
「本当にそう思っているのか?」
「……ああ」
その返事を聞いた瞬間、椎名の胸の奥で、何かが軋んだ。
話すことがない。
自分には、何も話すことがないというのか。
「……そうか」
椎名は、静かに息を吐いた。
「ならば、もういい」
踵を返しかけた椎名に、巧が声を掛ける。
「……おい」
椎名は足を止めた。
「何だ?」
「……そんなに怒ってんなら、トドメ刺せばいいだろ」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
椎名は振り返り、巧の顔を見つめた。
冗談を言っているようには見えない。
こちらを挑発しているわけでもない。
ただ、どうでもいいことを口にしたかのような顔だった。
「……貴様は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「ああ」
「本気で言っているのか?」
「……何度も聞くなよ」
その声に、苛立ちはあった。
だが、それは椎名に向けられたものではないように思えた。
まるで、自分自身の何かに耐えかねているような。
「……っ」
椎名は唇を噛んだ。
どうして、そこまで投げやりになれる。
自分の命さえ、どうでもいいというのか。
何があったのかは知らない。
何を抱えているのかも分からない。
だが、だからこそ聞いているのだ。
自分は、お前のことを知りたいと思った。
一度は、惚れたと伝えた。
それなのに、お前は何も話さない。
こちらがどれほど問い掛けても、何も返してくれない。
その挙げ句が、これなのか。
「……私は、お前に本気で向き合ってほしかった」
椎名の声が、わずかに低くなる。
「それだけだったのだ」
巧は何も答えなかった。
「なのに、お前は……!」
言葉が詰まる。
目の前の男に何を言っても、届かない。
そんな気がした。
「……もう貴様の事は好きじゃない」
吐き捨てるように言った。
自分でも、本当にそう思っているのか分からなかった。
ただ、今の巧を見ていると、胸の奥がどうしようもなく苦しくなった。
好きになった相手が、こんなにも自分自身を粗末に扱っている。
その理由も分からない。
問い掛けても、答えてくれない。
ならば、もう知らない。
そう言い切ってしまえば、少しは楽になると思った。
だが、巧の表情は変わらなかった。
「……そうかよ」
それだけだった。
まるで、嫌われることすら、どうでもいいと言わんばかりに。
椎名は小太刀を握り直した。
これまでにも、人を殺したことはある。
地下迷宮では、野田を殺した。
事故やトラップ、天使との戦闘で、仲間が命を落とすところも見てきた。
この世界では、命を落とすことも、再び戻ってくることも、決して珍しいことではない。
だが、今回は違った。
映像で見たファイズの戦いに惹かれ、その強さを自分の目で確かめたいと思った。
そして、気づけば、変身者である乾巧自身にも惹かれていた。
初めて、一人の相手に恋愛感情を抱いた。
その相手が今、自分の目の前にいる。
それなのに、巧は自分と向き合おうとせず、自分自身のことさえどうでもいいと言わんばかりの態度を取っている。
何を考えているのか分からない。
どうして、そこまで自分を投げ出そうとするのかも分からない。
ただ、これ以上、何もかも諦めたような顔を見ていたくなかった。
「……後悔するなよ」
今なら、まだ引き返せる。
そう思う自分がいた。
だが同時に、これ以上、何もかも諦めたような巧の顔を見ていたくなかった。
怒りも、悲しみも、どうしようもないもどかしさも、胸の中で絡み合う。
巧は、顔を上げた。
「ああ……」
それだけだった。
逃げようともしない。
抵抗しようともしない。
椎名の目には、彼が自分の命すら差し出して、すべてを終わらせようとしているように映った。
「……っ」
椎名は歯を食いしばった。
「……馬鹿者が」
小さく吐き捨て、椎名は踏み込んだ。
小太刀を振り下ろす。
小太刀が巧の胸を貫く。
椎名はそのまま刃を押し込み、雨で柔らかくなった地面にまで突き立てた。
刃は地面深くに沈み、巧の身体は小太刀によって地面に縫い止められた。
「…………」
椎名は、小太刀の柄を握ったまま動けなかった。
目の前の光景が、すぐには現実のものと思えない。
自分が、やったのだ。
本当に、刃を突き立ててしまった。
「……乾?」
返事はない。
椎名は手を離し、恐る恐る顔を覗き込んだ。
巧の目は開いていた。
けれど、その視線はどこにも定まっていなかった。
「……おい」
呼び掛けても、反応はない。
「……何か、言え」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
先ほどまで、何かを話してほしいと願っていた。
何を考えているのか、どうしてそんな顔をしているのか、教えてほしかった。
なのに、今は。
「……乾。聞こえているのか?」
声がかすれる。
「……どうして……」
どうして、何も言わない。
どうして、そこまで自分を粗末に扱える。
問い掛けたいことはいくらでもあった。
だが、そのどれも口にできなかった。
巧の瞼が、ゆっくりと閉じていく。
「……乾!」
思わず声を上げた。
それでも、返事はなかった。
椎名は、ただ立ち尽くした。
自分が何を望んでいたのか、今なら分かる気がした。
勝負に勝つことだけではなかった。
強さを確かめることだけでもなかった。
ただ、目の前にいるこの男に、自分と同じように向き合ってほしかった。
それなのに。
「…………私は……」
言葉が続かない。
椎名は小太刀へと視線を落とした。
このままではいけない。
せめて、刃を抜かなければ。
椎名は柄を握り直し、慎重に小太刀を引こうとした。
だが、簡単には抜けなかった。
刃が巧の身体を貫き、そのまま地面にまで深く突き刺さっている。無理に引き抜こうとすれば、巧の身体をさらに傷つけてしまう。
「……っ、乾……」
椎名が力を込めた、その時だった。
巧の手が、柄を押さえた。
「……何をしている?」
返事はない。
巧は目を閉じたまま、小太刀の柄を握り締めていた。
そして、椎名が引き抜こうとするのを拒むように、さらに深く押し込んだ。
「……っ!?」
椎名の手が止まる。
「……おい、乾! 何をしている!」
声を荒らげても、巧は答えない。
ただ、小太刀を抜かせまいとするように、柄を押さえ続けていた。
やがて、巧の口元から血がにじんだ。
椎名は息を呑んだ。
「……乾……?」
それでも巧は答えない。
ただ、彼女が小太刀を抜くことを拒むように、手を離そうとしなかった。
椎名は、どうすればいいのか分からなくなった。
なぜだ。
なぜ、そこまでする?
自分が何をしたのか、分かっているはずだ。
このままでは、取り返しのつかないことになる。
それなのに、どうして自分から小太刀を押さえ、抜けないようにするのだ。
「……何故だ……?」
声が震えた。
「何故、そんなことをする……!」
巧は答えない。
椎名は小太刀から手を離した。
自分が刺した。
それは間違いない。
だが、今の巧の行動は、自分の理解を超えていた。
彼は、自分が傷つけたことを受け入れているだけではない。
自分から、その状態を続けようとしている。
まるで、それこそが望んでいたことだとでもいうように。
「……ふざけるな……」
椎名は呟いた。
怒っているのか、怯えているのか、自分でも分からなかった。
ただ、巧が何を考え、何を望んでいるのか、まったく分からないことが恐ろしかった。
戦う前から、様子がおかしかった。
反撃できるはずなのに、しなかった。
自分の命が惜しくないかのような言葉を口にした。
そして今は、自分が小太刀を抜くことさえ拒んでいる。
なぜ、そこまで自分を罰しようとするのか。
何を償おうとしているのか。
それとも、自分に嫌われることまで望んでいたのか。
……分からない。
何一つ、分からなかった。
椎名は、再び巧の顔を見た。
「……乾。お前は、一体……」
言葉が続かなかった。
問い掛けたところで、返事があるとは思えなかった。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
「……私は、どうすればいい?」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
先ほどまで、あれほど怒っていたのに。
本気で向き合ってほしいと願っていたのに。
今は、どうすればいいのかさえ分からない。
小太刀を抜くべきなのか。
誰かを呼ぶべきなのか。
それとも、巧の望むままにしておくべきなのか。
目の前の男が何を望んでいるのか分からないのに、自分が何をすべきかだけを考えている。
自分は、彼のことを知りたかったはずなのに。
「……くそっ……」
椎名は唇を噛んだ。
どうして、こんなことになった。
ただ、戦いたかっただけだ。
強さを確かめたかった。
もっと、彼のことを知りたかった。
それだけだったはずなのに。
気づけば、自分は彼を傷つけていた。
そして今、彼が何を望んでいるのかさえ分からず、目の前で立ち尽くしている。
「…………」
椎名は、ゆっくりと後ずさった。
助けなければ。
そう思った。
だが、何をすればいいのか分からない。
小太刀を抜こうとしても、巧はそれを拒んでいるように見える。
かといって、このままにしておくことが正しいとも思えなかった。
何もかもが、分からなかった。
冷たい雨粒が、椎名の頬を濡らす。
椎名は、巧を見つめたまま動けずにいた。
「……乾……」
もう一度、呼び掛けた。
返事はない。
その手は、今も小太刀の柄を押さえていた。
椎名は、ゆっくりと目を伏せた。
自分が何をしたのか。
巧が何を望んでいるのか。
そして、どうして自分は、彼が望んでいるように見えることを止められないのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
「…………私は……」
言葉が続かなかった。
椎名は顔を背けた。
ここにいても、何も分からない。
それでも、立ち去っていいはずがない。
頭では分かっていた。
分かっていたのに、足は一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。
最後にもう一度、巧を見た。
何かを言おうとした。
だが、何も言葉にならなかった。
やがて椎名は、逃げるようにその場を後にした。
背後を振り返ることは、できなかった。
椎名がその場を去ってから、どれほどの時間が経ったのか。
雨は、相変わらず降り続いていた。
誰もいない場所に、雨音だけが響いている。
巧は地面に倒れたまま、動かなかった。
胸に突き刺さった小太刀が、雨に濡れて鈍く光っている。
やがて、巧の指先がわずかに動いた。
「……っ」
薄く目を開ける。
視界に映ったのは、灰色の空と、雨に濡れた地面だった。
身体を動かそうとした瞬間、胸に走る痛みに顔が歪む。
「……ぐっ……!」
思わず息が漏れた。
何とか上体を起こそうとするが、身体に力が入らない。
それでも、巧は胸元へ手を伸ばした。
小太刀の柄に触れる。
しばらく、そのまま握っていた。
抜けばいい。
そうすれば、少なくとも今の状態からは抜け出せる。
頭では分かっていた。
だが、巧は小太刀を抜こうとはしなかった。
「……俺は……」
声がかすれる。
何かを言おうとして、やめた。
今さら、何を言えばいい。
自分が何者なのかも分からない。
記憶の中に浮かんだ光景が、本当に自分の過去なのかさえ確かではない。
それでも、自分が何か取り返しのつかないことをしたのではないかという疑いだけは、消えてくれなかった。
「……これで、いい……」
誰に聞かせるでもなく、巧は呟いた。
やがて、意識が遠のいていく。
再び、身体から力が抜けた。
正直これ書くのはキツかったです。