EP6-4
翌日。
雨は、まだ降り続いていた。
あの日から、椎名の頭から乾巧のことが離れなかった。
自分が小太刀を突き立てたこと。倒れた巧を見下ろし、何もできずにその場を去ったこと。
そして何より、助けようとした自分の手を、巧が拒んだこと。
小太刀を抜こうとしたとき、巧は残された力を振り絞り、柄を押し込んだ。
まるで、助かることそのものを拒むかのように。
「……私は、何をやっているんだ」
椎名は小さく呟いた。
自分が望んだ戦いだった。
巧の強さを確かめたい。そう思って、自分から頼んだ。
それなのに、巧の様子がおかしいことに気づきながら、怒りに任せて刃を振り下ろしてしまった。
本当に戦いたかったのなら、別の方法もあったはずだ。
話を聞くことだってできた。
それでも、自分はそうしなかった。
今さら後悔しても、何も変わらない。
そう分かっていても、椎名の足は自然と、あの場所へ向かっていた。
人目につかない場所。
雨に濡れた地面には、巧が倒れたときの跡が残っていた。
胸に突き立った小太刀も、あの日から抜かれないままだった。
「……乾」
椎名は、ゆっくりと膝をついた。
返事はない。
「……すまない」
謝罪の言葉が、雨音に消えていく。
何度謝っても、巧には届かない。
それでも、椎名は小太刀の柄に手を伸ばした。
このままにしておくわけにはいかない。
そう思い、慎重に引き抜こうとする。
「……っ」
その瞬間、巧の手が動いた。
柄を握り、椎名の手を押し返す。
「……やめろ」
かすれた声だった。
椎名は息を呑んだ。
意識が戻ったのか。
そう思って顔を覗き込むが、巧の目はほとんど開いていなかった。
「……なぜだ?」
巧は答えない。
「このままでは……」
「……いいから……抜くな」
それだけ告げると、巧の手から力が抜けた。
再び意識を失ったらしい。
椎名は、その場に立ち尽くした。
助けようとした。
ただ、それだけだった。
なのに、巧は拒んだ。
自分が憎いからなのか。
それとも、本当に自分がどうなっても構わないと思っているのか。
「……分からない…」
椎名は小さく首を振った。
目の前の男が何を考えているのか、少しも分からなかった。
小太刀を抜けば、巧は自由になる。
意識を失っている今なら、拒まれることもない。
実際、先ほども眠っている間に抜こうとしたのだ。
次に意識を失ったときこそ、抜いてしまえばいい。
そうすれば、これ以上傷つけたままにせずに済む。
……それなのに。
椎名の手は、小太刀の柄へ伸びかけたところで止まった。
小太刀を抜いたあと、巧はどうするだろう。
自分たちの前から姿を消すのではないか。
自分が何者なのかも分からず、誰にも見つからない場所へ逃げてしまうのではないか。
そして、次に会える保証など、どこにもない。
今度こそ、本当にいなくなってしまうかもしれない。
「…………」
椎名は、巧の顔を見つめた。
助けたい。
その気持ちは本当だった。
けれど、助けたあとに巧がいなくなってしまうことが、どうしようもなく怖かった。
今なら、まだここにいる。
声を掛けても返事はほとんどなく、手を伸ばせば拒まれる。
それでも、自分の目の届く場所にいることだけは分かる。
そんな考えが浮かんだ自分に、椎名は愕然とした。
「……私は……」
助けたいはずなのに。
いなくなってほしくないと思っているのに。
そのために、彼をここへ留めておきたいと考えてしまった。
巧が小太刀を抜くなと言ったことを、これ以上無理に助けるべきではないという理由にして。
本当は、自分が彼を失うのを恐れているだけなのに。
「……最低だな、私は」
椎名は俯いた。
巧を傷つけたのは自分だ。
助けられる機会があったのに、決断できなかったのも自分だ。
それでも、どうすればいいのか分からなかった。
椎名は、その場に残り、巧の様子を見守り続けた。
翌日も、その次の日も。
巧は時折意識を取り戻したが、やはり小太刀を抜かせてくれなかった。
声を掛けても、こちらを見ようともしない。
何か尋ねても、返ってくるのは短い返事ばかりだった。
椎名は、そのたびに考えた。
どうして、あのとき本気で戦わなかったのか。
どうして、自分の身を守ろうとしなかったのか。
どうして、助けようとする自分を拒むのか。
そして、自分はどうすればよかったのか。
答えは出なかった。
ただ、あのときの巧の目だけが、何度も脳裏に浮かんだ。
何もかも諦めたような、あの目。
あの目を見たとき、自分は怒りを覚えた。
けれど今は、それだけではなかった。
「……乾」
椎名は目を閉じた。
「……私は、どうすればいい?」
返事はなかった。
雨だけが、静かに降り続いていた。
それから、さらに二日が過ぎた。
椎名が廊下を歩いていると、向こうから岩沢がやって来た。
いつもなら、すれ違いざまに軽口の一つでも交わすところだ。
しかし、今日の岩沢は違った。
周囲を気にするように視線を動かし、誰かを探している。
「……岩沢?」
声を掛けると、岩沢はすぐに振り返った。
「……あ、椎名」
いつもの笑顔を浮かべようとしたものの、どこかぎこちない。
「なあ、乾を見なかったか?」
椎名の足が止まった。
また、その名前だ。
巧が姿を消してから、何日も経っている。
岩沢が心配していることは分かっていた。
それでも、椎名はすぐに答えられなかった。
「……いや。見ていない」
口をついて出たのは、嘘だった。
岩沢は少しだけ視線を落とした。
「……そっか」
それだけ言って、また歩き出そうとする。
椎名は、その背中を見つめた。
岩沢は、教室にも食堂にも、いつもの場所にもいない巧を、今も探し続けているのだろう。
その姿を見ていると、胸の奥が重くなった。
自分が何をしたのかを話すのが怖かった。
岩沢がどんな顔をするのか。何を言われるのか。
それを考えると、言葉が出てこなかった。
「……あいつさ」
岩沢が、ぽつりと呟いた。
椎名は顔を上げた。
「前に、自分は化け物かもしれないって言ってたんだよ」
椎名の表情が変わった。
岩沢は続けた。
「直井の催眠術を受けた後だった。急に自分の手を見つめてさ……まるで、自分の身体が自分のものじゃないみたいに怯えてた」
あのときの光景を思い出したのか、岩沢の表情が曇る。
「大勢の人間を襲ったかもしれないって……そんなことも言ってた」
「…………!」
椎名は息を呑んだ。
――まさか。
あのときの巧は、自分が何者なのか分からず、苦しんでいたのではないか。
自分が誰かを傷つけたのかもしれない。
そんな疑念を抱え、自分自身を責めていたのだとしたら。
あの目も、自分の身を顧みなかった態度も、違う意味を持ってくる。
そんな巧に腹を立て、怒りに任せて小太刀を突き立てた自分は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
今も、あの場所で苦しんでいる。
助けを拒んでいるからといって、本当に助けを必要としていないとは限らない。
それなのに、自分は彼が拒むことを理由にして、助ける決断を先延ばしにしていた。
「……椎名?」
岩沢に呼ばれ、椎名は我に返った。
「……どうしたんだ?」
椎名は、しばらく言葉を探していた。
もう、嘘をつき続けるわけにはいかない。
自分が責められることになっても構わない。
今は、巧を助けに行かなければ。
椎名は岩沢の顔を見た。
「……すまない、嘘をついた。乾の居場所は知っている」
「……え?」
岩沢の表情が変わった。
椎名は一度、目を伏せた。
「……言い訳になるかもしれないが、少し話を聞いてくれないだろうか?」
「……分かった。聞かせてくれ」
椎名は、ゆっくりと頷いた。
そして、あの日のことを話し始めた。
・
・
・
・
・
話している間、岩沢は口を挟まなかった。
ただ、椎名の言葉を聞いていた。
椎名は、最後まで話し終えると俯いた。
「……私は、あいつを傷つけた。すぐに後悔したが……小太刀を抜こうとしても、乾は拒んだ」
「……何て言ってた?」
「……『いいから……抜くな』と」
岩沢は黙り込んだ。
巧がそんな状態で、今も一人でいる。
その事実を考えると、じっとしてはいられなかった。
けれど、岩沢の頭に浮かんだのは、椎名への怒りではなかった。
「……なあ、椎名」
「……何だ?」
「この世界じゃ、喧嘩で相手を傷つけることくらい珍しくない。野田なんか、音無にしょっちゅう突っかかってるだろ?」
「……ああ」
ゆりに心酔する野田は、何かと音無に対抗心を燃やしている。
時には武器を手にして襲い掛かることさえあるが、それもこの世界では、日常の騒動の一つとして受け止められていた。
岩沢は、少しだけ視線を落とした。
「だから、椎名が乾を傷つけたことだけを責めたいわけじゃないんだ」
「……岩沢」
「でもさ……何日も小太刀が刺さったままなんて、流石にこの世界でも普通じゃないだろ?」
椎名は俯いた。
「……分かっている」
「うん。お前が後悔してるのも、話を聞けば分かるよ」
岩沢は、そっと息を吐いた。
「……ただ、乾はそこまで思い詰めてたのかなってさ」
椎名は顔を上げた。
「アイツは、自分が誰かを傷つけたかもしれないって……そんなことを考えてたんだろうな…」
「……ああ」
「だったら……自分が傷つくことなんて、どうでもよくなってたのかもしれない。勿論それはアタシらの推測だけどさ」
岩沢は言葉を切った。
巧が何を思い、何を恐れていたのか。それは本人にしか分からない。
「……でも、小太刀抜くのさえ拒むなんてさ」
岩沢は視線を伏せた。
「……あいつ、いったい何を抱えてたんだろうな」
その声には、責めるような響きはなかった。
知らないところで、そこまで苦しんでいたのかもしれない。
そう思うと、胸が重くなった。
椎名は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、あいつが意識を失っている間にも、小太刀を抜こうとした」
岩沢が顔を上げる。
「……でも、抜けなかった」
「……どうして?」
椎名は、すぐには答えられなかった。
自分でも、ずっと考えていたことだった。
「……怖かったんだ」
「怖かった?」
椎名は俯いたまま、言葉を続けた。
「小太刀を抜けば、乾は自由になる。そうなれば、次は私たちの前から姿を消すかもしれない」
岩沢は黙って聞いていた。
「……乾の話が本当なのかは私にも分からない。だが、自分が化け物で誰かを傷つけたかもしれないと考えているのなら、私たちに見つからない場所へ逃げてしまうことだってある」
椎名は、ぎゅっと拳を握った。
「誰にも頼らず、一人で過ごすようになるかもしれない。自分が何者なのか分からないまま、ずっと……」
言葉が途切れた。
それを口にすると、考えたくなかった可能性まで、現実味を帯びてしまう気がした。
「……そうなったら、本当に会えなくなると思ったんだ」
岩沢の表情が、わずかに変わった。
「小太刀を抜いて、乾がここから立ち去ったら……今度はどこへ行くのかも分からない。私たちが探しても、見つけられないかもしれない」
「…………」
「……今なら、まだここにいる。私が様子を見に来れば、あいつがここにいることは分かる。声を掛ければ、返事をしてくれることもある」
椎名は唇を噛んだ。
「……そんなことを考えてしまったんだ。助けたいと思っていたはずなのに、助けたあとにいなくなることが怖くて……小太刀を抜く決心がつかなかった」
岩沢は、何も言わなかった。
椎名は自分の手を見つめた。
「……本当は、あいつを助けなければならなかった。意識を失っている間に抜けばよかったんだ。拒まれたからといって、そのままにしていい理由にはならない」
「……椎名」
「それでも、私は……」
椎名の声が震えた。
「……あいつがいなくなることを恐れていた。もう二度と会えなくなるかもしれないと思ったら、どうしても動けなかったんだ」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
椎名は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私は、あいつを助けたいのか、それとも自分の目の届くところに留めておきたいのか……分からなくなっていた」
その言葉を口にして、椎名は自分の身勝手さを改めて思い知らされた。
助けたいという気持ちは、嘘ではない。
けれど、巧を失いたくないという思いが、その決断を邪魔していた。
「……すまない。こんなことを言っても、言い訳にしかならないな」
椎名は俯いた。
「私は、乾を傷つけた。それなのに、助けることさえためらっていたんだ」
岩沢は、しばらく椎名を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
その声には、複雑な感情が混ざっていた。
椎名が何を恐れていたのかは、少しだけ分かった気がした。
けれど、それ以上に岩沢の心に残っていたのは、巧のことだった。
自分が化け物かもしれない。
誰かを傷つけたかもしれない。
そんな恐怖を抱えていたのなら、あのときの巧の態度にも説明がつくのかもしれない。
それでも、どうして自分の身を守ろうとしなかったのか。
どうして助けられることまで拒んだのか。
考えても、答えは出なかった。
ふと、以前のことを思い出す。
昼休み、中庭のベンチで巧と話していたときのことだ。
あの日、椎名は突然、巧に一目惚れしたと告白した。
強い人が好きだ。
天使と戦う巧の姿を見て、好きになったのだと。
あまりにも真っ直ぐな告白に、岩沢は驚いた。
そして、椎名から自分の気持ちを尋ねられた。
――私がこいつを好きだと言ったら、お前は嫌か?
あのとき、岩沢はすぐに答えられなかった。
自分でも、巧に対する気持ちをはっきりと言葉にできていなかったからだ。
それでも、椎名が巧を好きなのは分かっていた。
だからこそ、今の話を聞いて、胸が痛んだ。
椎名は、好きな相手と本気で戦いたかったのだろう。
巧の強さを知りたかった。もっと彼のことを知りたかった。
それなのに、事情も分からないまま、目の前の巧は自分のことなどどうでもいいと言わんばかりの態度を取った。
そして、怒りに任せて傷つけてしまった後、椎名は一人で後悔し続けていた。
……そりゃ、つらいよな。
岩沢は、そっと息を吐いた。
「……椎名」
「……あたしは、お前を責めたいわけじゃないよ」
椎名が顔を上げる。
「もちろん、乾が傷ついたことは気になる。でも……お前も、あいつが何を抱えていたのか知らなかったんだろ?」
「……ああ」
椎名は俯いた。
「……私は、あいつが何を考えているのか、何も知らなかった」
「……そっか」
岩沢は、それ以上、無理に言葉を重ねなかった。
けれど、ふと別の考えが頭をよぎった。
この世界では、誰かを傷つけたからといって、それだけで命を奪うことにはならない。
自分たちがどれだけ傷つこうと、死ぬことはない。
それに、ゆりっぺたちもいる。
もし本当に手に負えないほど危険な存在だったとしても、SSSの仲間たちがいる。
敵対しているとはいえ、天使だっているのだ。
もちろん、だからといって、誰かを傷つけていいわけではない。
けれど、巧はそんなことすら考えられないほど、自分自身を責めていたのだろうか。
「……でもさ……」
岩沢は、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、馬鹿だよな……」
椎名が顔を上げる。
「……え?」
「仮に本当にその化け物だったとして、あたしらを傷つけたとしても……この世界じゃ死なないのにさ」
岩沢は、少しだけ眉を下げた。
「それに、ゆりっぺたちだっているし……敵だけど、天使だっているじゃん」
「……岩沢」
「本当に危険な奴だったら、あたしらだって黙ってやられるつもりはないよ」
そう言ってから、岩沢は視線を落とした。
「……なのに、あいつは自分が何者なのかも分からないまま、自分のことばっかり責めてさ」
小さく息を吐く。
「……一人で抱え込んで、何とかしようとしてたのかな」
その声には、呆れたような響きがわずかに混じっていた。
けれど、それ以上に強かったのは、巧への心配だった。
危険があれば、仲間に相談することだってできる。
それなのに巧は、誰にも頼ろうとせず、一人で答えを出そうとしている。
自分が何者なのかも分からないまま。
誰かを傷つけたのかどうかも分からないまま。
岩沢には、そんな巧の気持ちを理解しきることはできなかった。
それでも、放っておいていいとは思えなかった。
「……だからさ」
岩沢は顔を上げた。
「今度は、乾本人から話を聞こう。あいつが何を思い出したのか、何を怖がってるのか。勝手に決めつけずにさ」
椎名は、しばらく岩沢を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……ああ」
「……椎名」
岩沢は、もう一度口を開いた。
「お前も、ちゃんと話していいんだからな。乾に何を思っていたのかも、何を後悔しているのかも」
椎名は目を見開いた。
「……岩沢」
「ま、あたしが言える立場かは分からないけどさ」
岩沢は、少しだけ困ったように笑った。
「一人で抱え込んだって、答えが出るとは限らないだろ?」
椎名は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
岩沢は窓の外へ目を向けた。
雨は、まだ降り続いている。
巧が何を考えているのか。なぜ、自分の身さえ顧みないような態度を取ったのか。
それは、本人に聞かなければ分からない。
「……案内してくれ」
「ああ……分かった」
椎名は歩き出した。
岩沢も、その隣に並ぶ。
二人の間に会話はなかった。
椎名は、巧を傷つけたことへの後悔を抱えている。
岩沢もまた、巧が何を抱え、何を恐れているのかを知らない。
けれど、今度は違う。
椎名は、もう一人で抱え込むつもりはなかった。
岩沢も、何も知らないまま巧を責めたり、勝手に答えを決めたりするつもりはなかった。
だからこそ、二人で巧のもとへ向かう。
あいつが何をしてしまったと思っているのか。
何を恐れているのか。
そして、本当はどうしたいのか。
その答えを決めつけるのは、話を聞いてからでいい。
雨は、まだ降り続いていた。
それでも二人は、足を止めなかった。