野田を失った一行は、そのまま通路の奥へ進んでいた。誰も先ほどのことには触れない。
どうせ後で復活するとは分かっていても、目の前で巨大なハンマーに潰される光景を見せられた直後では冗談を言う気にもなれなかった。
湿ったコンクリートの匂いが鼻につく。靴音だけがやけに大きく反響し、その音が逆に周囲の静けさを際立たせていた。
通路の先は暗く、どこまで進んでも同じ景色が続いているように見える。
武器庫へ向かっているはずなのに、乾巧には巨大な処刑場の中を歩かされているようにしか思えなかった。
先頭を歩くゆりも普段より口数が少ない。後ろの日向や音無も無駄話をせず、ガルデモのメンバー達も周囲を警戒しながら進んでいた。
誰もが次の罠を意識している。それほどまでに、このギルドという場所は悪意に満ちていた。
そんな中、どこからか低い音が聞こえ始めた。
最初は誰も気に留めなかった。地下施設では機械音くらい鳴るだろうと考えたからだ。
しかし音は消えない。それどころか少しずつ大きくなり、足元にまで微かな振動を伝え始める。
ゴロ……ゴロゴロ……
その音を聞いた瞬間、ゆりが足を止めた。
嫌な予感がしたのだろう。振り返った彼女の表情が一瞬で険しくなる。
「後ろ!!」
鋭い声が通路に響いた。
全員が反射的に振り返る。
暗闇の向こうから現れたのは巨大な鉄球だった。人の背丈を遥かに超える鉄塊が、通路を埋め尽くす勢いで転がってくる。壁を削り、床を震わせながら迫ってくるその姿は、もはや兵器というより災害に近かった。
「走れ!!」
日向の叫びと同時に全員が前へ飛び出した。
誰も振り返らない。振り返ったところで鉄球が消えてくれるわけではなく、立ち止まればそのまま潰されるだけだと全員が理解していたからだ。
轟音は刻一刻と近付いており、背中越しでも巨大な質量が迫っていることが分かる。
乾巧も走りながら周囲を見ていた。逃げ道を探しているわけではない。
この通路では逃げ切れないと直感していたからだ。必要なのは別の生存手段だった。
その時、視界の端で岩沢の動きが止まる。
床のわずかな段差に足を取られたのだろう。体勢が崩れ、速度が落ちる。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬が致命的だった。
鉄球はもう近い。
岩沢自身もそれを理解したのか、顔から血の気が引いている。
乾巧は考えるより先に動いていた。
壁際へ視線を走らせる。
そこには鉄球と壁の間に生まれる僅かな隙間があった。人が立ったまま入れる幅ではない。しかし伏せれば生き残れる可能性がある。
可能性はそれしかなかった。
巧は岩沢の腕を掴むと、そのまま強引に自分の方へ引き寄せた。
「っ!?」
岩沢が声を上げる間もない。
二人の身体が床へ投げ出される。
その直後だった。
巨大な鉄球がすぐ横を通過する。
轟音が耳を埋め尽くした。
鉄とコンクリートが擦れ合う音が響き、風圧だけで髪が激しく揺れる。ほんの数センチ上を死が通り過ぎていく感覚だった。
もし少しでも身体を起こしていたら、間違いなく押し潰されていた。
やがて轟音は遠ざかり、通路には静寂だけが残った。
岩沢はしばらくその場から動けなかった。心臓が異常なほど速く脈打っており、呼吸も上手く整わない。
自分が本当に助かったのか、それともまだ夢を見ているのか分からなくなるほどだった。
ようやく身体を起こした時、まず目に入ったのは何事もなかったように立ち上がる乾巧の姿だった。
そして次に周囲を見渡し、違和感に気付く。
人数が減っていた。
さっきまで後ろにいたガルデモのメンバーが何人も見当たらない。入江も関根もいない。他にも数人の姿が消えていた。
鉄球に巻き込まれたのか、それとも途中で脱落したのかは分からない。ただ一つだけ確かなのは、自分も本来ならその中に含まれていたということだった。
岩沢は無意識に拳を握る。
視線の先では巧が何事もなかったように前を向いている。
自分だけ助けられた。
その事実が妙に胸に残った。
「……ありがと」
ようやく絞り出した声に、巧は振り返りもせず短く答える。
「たまたまだ」
その言葉を信じるほど、岩沢は馬鹿ではなかった。
巨大な鉄球の罠を抜けた後も、一行の足取りは重かった。どうせ後で復活する。それは全員が知っている。
だが、それで何も感じなくなるわけではない。
ついさっきまで隣を走っていた仲間が消え、自分達だけが先へ進んでいる。
その事実は地下通路の湿った空気以上に重く、一行の上にのしかかっていた。
通路には靴音だけが響いている。普段なら騒がしい戦線メンバーも今は無駄口を叩かず、誰もが次の罠を警戒していた。
そんな中、岩沢もまた黙ったまま前を歩いていたが、その頭の中では先ほどの光景が何度も繰り返されていた。
迫ってくる巨大な鉄球の轟音、飲み込まれていく仲間達、そして自分もあと少し遅れていれば間違いなくあの中にいたという事実。
その記憶は思った以上に重く、気付けば呼吸まで少し浅くなっている。
ふと違和感を覚えて視線を落とすと、指先が小さく震えていた。無意識だった。慌てて拳を握り締めるが、一度気付いてしまえば誤魔化せない。怖かった。
何度も死を見てきたはずなのに、怖いものは怖い。仲間が潰される光景も、自分が死にかけた瞬間も、慣れられるようなものではなかった。
「おい」
不意に隣から声が飛んできた。
顔を上げると、巧がこちらを見ていた。
「ん?」
「大丈夫か?」
短い言葉だった。
何を言われたのか分からず一瞬だけ首を傾げる。しかし巧の視線が自分の手元へ向いていることに気付き、岩沢は慌てて拳を握り直した。
「……別に」
反射的にそう答えたものの、巧は納得しなかった。
「別にじゃねぇだろ」
即座に返ってくる。
「手、震えてるぞ」
図星だった。
言い返そうとしても言葉が出ない。しばらく黙り込んだ後、岩沢は小さく息を吐いた。
「……情けないよな」
苦笑混じりの声だった。
「何回も見てるはずなんだけどさ」
そう言いながら自分の手を見る。
震えはまだ完全には止まっていない。
「やっぱ怖いもんは怖い」
地下通路に静かな声が落ちる。
巧は少しだけ考えるように黙ったが、気の利いた慰めを言うタイプではなかった。
「普通だろ」
返ってきたのはそれだけだった。
岩沢が顔を上げる。
「え?」
「怖くねぇ方が変だ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、不思議と馬鹿にしている感じはしない。ただ事実を言っているだけだった。
岩沢は思わず小さく笑った。
「なんだよそれ」
「事実だろ」
相変わらず愛想のない返事だった。
それでも、さっきまで胸の奥を締め付けていた重さが少しだけ軽くなった気がした。
そんな二人の様子を見ていた日向が、前を歩きながら振り返る。
「お前らいつからそんな話す仲になったんだ?」
その顔にはいつものニヤニヤした笑みが浮かんでいた。
「うるせぇ」
巧が即答する。
「別にそんなんじゃない」
岩沢も同時に返した。
「ほら見ろ、息ぴったりじゃねぇか」
余計な一言だった。
高松が呆れたようにため息を吐く。
「日向、今はそういう状況ではないだろう」
「だから空気重いんだって」
そんなやり取りが交わされる中、一行はさらに奥へ進んでいく。
そしてやがて、今までとは明らかに雰囲気の違う広い空間へと辿り着いた。
天井は高く、横幅も広い。向こう側には出口らしき扉まで見えている。
しかし罠だらけのギルドをここまで進んできた今、その光景を素直に信用する者は誰もいなかった。
何もない。だからこそ怪しい。
全員が自然と足を緩める中、一人だけ堂々と部屋の中央へ歩いていく男がいた。
松下五段だった。
腕を組み、自信満々に周囲を見回しながら口を開く。
「ふむ――」
その瞬間、日向が頭を抱えた。
嫌な予感しかしない。
高松も何かを察したように目を閉じている。音無は苦笑し、ゆりは警戒を解いていない。
そして当の松下五段だけが、自分の周囲に集まる不安げな視線に全く気付いていなかった。
壁の一部が赤く光る。
ゆりの目が鋭く細まった。
「伏せなさい!!」
叫び声と同時に、一筋の赤い光が部屋を横切る。
全員が反射的に床へ飛び込んだ。
頭上をレーザーが通過していく。
赤い線は反対側の壁へ到達すると、そのまま何事もなかったかのように消えた。
数秒。
静寂。
誰も被弾していない。
日向が恐る恐る顔を上げる。
「……あれ?」
安堵しかけた空気を遮るように、再び壁が赤く光った。
今度は腰の高さ。
「跳べ!!」
ゆりの声に全員が反応する。
レーザーは足元を通り抜け、そのまま壁へ消えていった。
再び回避成功。
「なんだよ、避けられるじゃ――」
日向の言葉が途中で止まる。
壁全体が赤く発光したからだ。
今までとは明らかに違う。
一本ではない。二本でもない。
縦横無尽に走る赤い光が、部屋全体に格子を描いていく。
まるで巨大な檻だった。誰も声を出せない。避けられない。
その事実だけは、一瞬で理解できた。
松下五段の顔からも余裕が消える。
「……ふむ」
「だからその"ふむ"は何なんだよ!!」
日向の叫びが響く。
そして次の瞬間、格子状のレーザーが部屋を横断した。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
地下施設に絶叫が響き渡る。
あまりにも短い悲鳴だった。
レーザーが消える。
静寂が戻る。
ほんの数秒前までそこにいたはずの松下五段の姿は、どこにもなかった。
誰もすぐには動けない。
岩沢もまた息を呑みながら、その方向へ視線を向けようとした。何が起きたのか。どうなったのか。
見てはいけない気もする。それでも目を逸らせない。
そんな岩沢の視界が、不意に暗くなった。温かい手の感触。
驚いて身体を強張らせる。
「見るな」
低い声が耳元で聞こえた。巧だった。
ぶっきらぼうな声だったが、その手は離れない。
岩沢は何も言えなかった。見なくても分かる。悲鳴だけで十分だった。
今さら確認する必要なんてない。
しばらくして、ゆりが慎重に部屋の安全を確認する。
壁の赤い光は消えていた。
「……もう大丈夫よ」
その言葉で、ようやく全員が動き出す。
巧の手が離れる。
岩沢はゆっくりと前を向いた。
結局、最後まで松下五段のいた場所は見なかった。
ただ、背後から聞こえてきた日向の叫びだけは嫌でも耳に残った。
「五段ーーーーーーーっ!!」
その声は広い部屋に反響し、やけに長く響き続けた。
誰も返事をしない。
返事が返ってくるはずもない。
そうして一行は再び歩き始める。
だが、今度はさっきまで以上に口数が少なかった。
鉄球の時とは違う。
あまりにも近くで、あまりにも一瞬だった。
重い沈黙を引きずったまま部屋を抜けると、再び細長い通路が続いていた。湿った空気は変わらない。だが先ほどまでの会話は消え、足音だけが静かに響いている。
そして、その沈黙を破るように――
前方で、微かな金属音が鳴った。