乾いた金属音が通路に残響する中、巧の身体はその場に崩れ落ちたままだった。
何本もの槍が深く突き刺さり、動く気配はない。さっきまで普通に歩いていた人間が、まるでその瞬間だけ世界から切り取られたように静止している。
岩沢は、気づいた時には駆け出していた。
理屈じゃない。身体が先に動いていた。
「おい……!」
肩を掴む。揺さぶる。呼びかける。
返事はない。
顔を覗き込んでも、瞼は閉じたまま。呼吸の気配すら曖昧だった。
「……乾」
声が掠れる。
胸の奥が嫌な重さで満たされていく。
ここでは死なない。分かっているはずなのに、それでも目の前の“動かない誰か”は現実として重すぎた。
遅れて、ゆり達が合流する。
誰もすぐには言葉を出さない。ただ状況を確認する視線だけが交差していた。
やがてゆりが口を開く。
「先に進むわよ。ここに留まる方が危険だわ」
正しい判断だった。
ここはまだギルドの内部。次の仕掛けがいつ動くか分からない。
だが岩沢は動けなかった。
膝をついたまま、巧の肩から手を離せない。
「岩沢さん……大丈夫?」
ゆりの声は命令じゃない。ただの確認だった。
岩沢はすぐに答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
やっとのことで首を振る。
「……すまん。足が動かない」
短い沈黙。
ゆりは一度だけ息を吐いた。
責めるでもなく、ただ状況を切るための呼吸。
「なら残ってて」
そして視線を倒れた巧へ向ける。
「ケースは回収するわ」
日向が軽く頷いた。
「了解だな」
銀色のケースが持ち上げられる。
それ以上の迷いはない。
ゆりは最後にもう一度だけ振り返った。
「……本当に大丈夫?」
今度は確認ではなく最終判断だった。
岩沢は、小さく頷く。
「……すまない、行ってくれ」
その一言で決まる。
ゆりは目を伏せたあと、短く答えた。
「分かった」
足音が遠ざかっていく。
やがて通路から完全に消えた。
残されたのは、岩沢と、動かない巧だけだった。
静けさが一気に落ちてくる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠い。
「……アタシなんかのために、無茶しやがって」
呟きは怒りでも感謝でもない。
ただ、整理できない感情の漏れだった。
岩沢は息を整え、まず一本目の槍に手を伸ばした。
金属は冷たい。重さがやけに現実的だった。
「……いくぞ」
自分に言い聞かせるように引き抜く。
鈍い抵抗のあと、肉から離れる感触。
次の一本。
また一本。
そのたびに胸の奥のざわつきが形を変えていく。
最後の一本が抜ける。
巧の身体が、わずかに変わった。
完全な静止ではなくなる。
浅く、途切れそうな呼吸。
それでも確かに“生きている側”の気配。
「……何度か見てるけど、本当不思議な光景だな」
この世界では、致命傷を負っても「いつの間にか」元の姿に戻っているのが普通だった。だが、こうして間近でその過程を見るのは初めてだった。
槍が抜けた痕。
ぽっかりと空いていたはずの傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように収縮していく。
血が止まり、肉が盛り上がり、皮膚がひとりでに塞がっていく。じわじわと、だが確実に肉体が形を取り戻していくその様子は、神聖というよりはどこか、生き物としての本能的な恐ろしさすら感じさせた。
やがて、浅かった呼吸が徐々に深く、規則正しいものへと変わっていく。
冷え切っていたはずの巧の肌に、微かな熱が戻ってくるのを、触れていた指先が感じ取った。
岩沢は肩を支え直し、壁際へ寄せる。
そのときだった。
――意識が、ふっと落ちた。
音が消える。
空気が消える。
感覚が、底のない場所へ沈んでいく。
暗い空間。
そこには“装置”だけがあった。
理由は分からない。
だが、身体だけが正しい動きを知っている。
指が触れる。
迷いはない。
「5」
「5」
「5」
Enter。
『STANDBY』
無機質な音。
空気が変わる。
何かが組み上がっていく圧力。
まだ“人間”だったものが、少しずつ別の形へずれていく。
『COMPLETE』
赤い光。
視界が反転する。
装甲が重なる。
自分の輪郭が書き換えられていく。
戦うための身体。
守るための力。
そこで、途切れた。
冷たい感触。
音。
呼吸。
「……ここは?」
かすれた声。
地下通路。
現実。
『おいっ!』
遠くから声がする。
その声に引き戻されるように意識が浮上する。
巧のまぶたがわずかに動いた。
ゆっくりと、目が開く。
焦点はまだ曖昧だが、状況は理解し始めている。
「……どこだ?」
「ギルド。罠だらけのとこ」
岩沢の即答。
巧は短く息を吐いた。
「……ああ」
それだけ。
巧はまだ重い体を無理やり動かそうとするが、膝に力が入らず床へ手をついた。破れた制服の下の肉体は完全に塞がっている。だが、何本もの槍に貫かれた激痛の残滓と精神的な疲労は、そう簡単には消えてくれなかった。
「おい、無理すんなって」
岩沢がため息混じりに声をかけ、巧のすぐ横に屈む。
そして躊躇うことなく、巧の太い腕を自分の華奢な肩へと回した。
「……おい、何してんだよ」
「見れば分かるだろ。介護だよ。ほら、掴まって」
「いい、一人で歩ける――」
「歩けてないから言ってんだろ。大人しくしとけ」
岩沢の口調は強引だったが、巧を支える手には確かな優しさがあった。
岩沢の肩に体重を預けながら、巧はなんとか立ち上がる。密着した体から、岩沢の生身の体温が伝わってきた。
「歩けるか?」
横から覗き込むような岩沢の視線に、巧は気まずそうに顔を背けた。
「……あぁ、ギリな」
「じゃあ、帰るよ。ゆりっぺ達は先に行っちゃったし、この体じゃ追いつけない。一回外に出よう」
まだ全部は戻っていない。ただ“続きにいる”という感覚だけが戻る。
一歩、一歩と、二人の足音が静かな地下通路に重なる。
岩沢は前を見たまま、小さく笑った。
「無茶すんなよ、ほんと」
巧は少しだけ困ったように目を伏せる。
「……悪かったな」
その瞬間、岩沢の歩みがわずかに揺れた。
「……なんでアンタが謝るんだよ」
責めていない。ただ、腑に落ちないだけだった。庇われたのは自分なのに、この男はどこまで不器用なのだろう。
言葉は続かない。
代わりに、岩沢は巧の腰を支える手に少しだけ力を込めた。
「……調子狂うんだよ、ほんと」
そう言って、二人は来た道を戻り始めた。
崩落した天井や大岩の罠を避けながら、暗く湿った通路をゆっくりと、地上へ向かって進んでいく。
やがて、遠くに鉄扉の隙間から差し込む、淡い外の光が見えてきた。
冷たいギルドの空気から、徐々に普通の夜の空気が混じり始める。
肩を組み合った二人の足音だけが、静かな森の入り口へ向かって、長く響き続けていた。