自分用   作:raian sinra

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24話

### 第一章:静寂の目覚めと、消えゆく残光

——世界が、静かに色を失っていく。

黒崎一護が空座町の自宅のベッドで目を覚ましたとき、最初に感じたのは、耳が痛くなるほどの「静寂」だった。

窓から差し込む朝の光は、いつもと変わらない現世の穏やかな陽光のはずだった。しかし、昨日まで皮膚をチリチリと刺していた大気中の霊子の脈動が、跡形もなく消え去っている。

「……ぁ」

喉の奥から掠れた声が出る。

一護は重い体を無理やり起こし、自身の右手を見つめた。藍染惣右介との死闘の最中、斬魄刀と完全に融合し、漆黒の破壊そのものと化していたその腕は、今やどこにでもある、ただの高校生の腕に戻っていた。

胸の奥を弄る。

底がない。

かつて死神の力、虚(ホロウ)の力、そして滅却師(クインシー)の力が複雑に渦巻き、爆発的な霊圧を産み出し続けていた彼の魂の中心は、今や完全に冷え切った、空っぽの虚無の空洞へと変わっていた。

『最後の月牙天衝』。

己自身が月牙となる代償は、死神としての存在そのものの剥奪であった。

「……おい……一護……」

微かに、本当に微かに、部屋の隅から声が聞こえた。

一護が弾かれたように視線を向けると、そこには死覇装を纏った朽木ルキアと、真紅の海賊コートを羽織った宝鐘マリンが立っていた。

だが、その姿は、まるで陽炎のように激しく揺らぎ、半透明に透けている。

「ルキア……マリン……」

一護がベッドから飛び降り、二人の元へと駆け寄ろうとする。

だが、彼が踏み出した一歩は、死神の瞬歩でも虚の響転(ソニード)でもない、ただの重い人間の足取りだった。畳を蹴る感覚が、恐ろしいほどに生々しく肉体に伝わる。

「……あかんな。もう、君の眼は僕たちを捉えきれんようになってる」

部屋の壁をすり抜けるようにして、市丸ギンの幻影——いや、マリンの魂の中に遺された彼の霊子の残滓が、寂しげに目を細めて呟いた。

「待てよ……! まだ、見える! まだお前たちの声が聞こえる!!」

一護が叫ぶ。だが、ルキアの顔に浮かぶ悲痛な表情も、マリンのオッドアイに溜まる涙も、ノイズの混じった古いテレビ画面のように、激しくブレ始めていた。

その時だった。

キィイイイイイイイイイインッ!!!!!

空座町の住宅街の上空から、鼓膜を劈くような『空間が引き裂かれる音』が響き渡った。

それは、黒腔(ガルガンタ)が無理やりこじ開けられた音。

藍染惣右介が封印されたとはいえ、彼が虚圏(ウェコムンド)から呼び寄せ、現世へと解き放っていた「実験体の残党」や、主を失って暴走した巨大な大虚(メノスグランデ)の群れが、防衛線の薄くなった本物の空座町を喰らい尽くそうと、最後の悪あがきとして湧き出してきたのだ。

「残党め……! 往生際が悪いな!」

ルキアが斬魄刀『袖白雪(そでしのゆき)』の柄に手をかける。

しかし、彼女の肉体もまた、先の決戦でボロボロに傷ついていた。

「ルキア、下がりな」

マリンが、修復されたばかりの左腕でルキアの前に進み出た。

彼女の腰には、刀神・二枚屋王悦によって打ち直され、先の戦いで砕け散ったはずの魂の半身——『真・紅海月(くれないくらげ)』が、静かに佩けられていた。

「一護……アンタはそこにいな。……アンタが命を懸けて護ったこの街の海(そら)は、この船長(アタシ)が絶対に汚させないワゾ!!」

マリンは真紅のコートの裾を翻し、窓を蹴破って、大虚の群れが渦巻く空へと跳躍した。

一護は、自身の内側から完全に消失していく霊力の残光を必死にかき集め、折れた心に火を灯すように、マリンの後を追って走り出した。これが、彼が「世界の裏側」を見る、最後の死闘の始まりだった。

### 第二章:最後の共闘、錆びゆく刃と群青の海

ドンッ!!!!

空座町の上空に展開された、巨大な黒腔の亀裂。

そこから、数十体もの最級大虚(ヴァストローデ)一歩手前の異形の実験体たちが、真っ黒な瘴気を撒き散らしながら地上へと降下してくる。彼らの貌は藍染の崩玉実験によって歪められ、理性を失ったただの『殺戮の獣』と化していた。

「オオオオオオオオオオッ!!!!」

先頭の巨大な実験体が、その異形の爪を振り下ろし、住宅街の建物を一挙に押し潰そうとする。

「——『毒海流(ホロウ・ストリーム)』・『一の波』ッ!!!!」

空中から放たれた、黒紫色に濁った高水圧の斬撃が、実験体の巨大な腕を正面から迎え撃った。

ズガァアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!!!!

凄まじい衝撃波が空座町の空に円形の雲を作り出す。

マリンの放った劇毒の水刃は、実験体の肉体に触れた瞬間、その霊子結合を内側からジュウウウウッという異音を立てて腐食させ、一瞬にしてその巨腕を塵へと変えてみせた。

「ハァッ……ハァッ……!!」

空中に霊子の足場を作り、真・紅海月を構えるマリン。

霊王宮の試練を越え、藍染との決戦で魂を極限まで過負荷(オーバーロード)させた彼女の霊圧は、かつてないほど深く、そして獰猛な『深海の輝き』を放っていた。だが、その肉体は未だ悲鳴を上げている。左腕は修復されたばかりで完全に力が入らず、右目のオッドアイからは、過剰に引き出された虚の毒血が、一筋の紅い涙となって頬を伝い落ちていた。

「ギョオオオオオオオオッ!!!」

一体が倒されたのを見て、残りの数十体の実験体たちが、一斉にマリンに向けて『虚閃(セロ)』の光を充填し始める。全方位からの、破滅的な紅い光の集中砲火。

「チッ……数が多すぎる……!」

マリンが響転(ソニード)で回避を試みようとした、その瞬間。

「——月牙(げつが)ァッ……天衝(てんしょう)ォオオオオッ!!!!」

下界から、気迫に満ちた絶叫と共に、一筋の、だが酷く細く脆い『青白い斬撃』が放たれ、実験体の一体の頭部を直撃した。

ズガァアアンッ!!

「ガアッ!?」

不意を突かれた実験体の虚閃が不発に終わり、全体の連携が僅かに崩れる。

「一護……!?」

マリンが驚愕して下を見下ろすと、そこには、普通の高校生の制服のまま、現世に遺されていた古ぼけた木刀(あるいは、浦原から一時的に与えられた霊力を絞り出すための代行証)を両手で握りしめ、地面に深く足を踏み締める一護の姿があった。

彼の放った月牙天衝は、かつての黒い無月はおろか、通常の卍解のそれと比べても、あまりにも小さく、弱々しかった。

大気の霊子を利用できず、自身の魂の底に残された『死神の力の残りカス』を、命を削るようにして強引に撃ち出した、文字通りの絶技。一護の右手からは、反動によって激しく血が噴き出していた。

「何やってんだよ、一護!! アンタはもう、戦っちゃダメだ!! 霊圧が完全に消えちまうぞ!!」

マリンが空から叫ぶ。

「うるせェ……!!」

一護は、血まみれの右手を握り直し、鋭い眼光で空の化け物たちを睨みつけた。

「この街は……俺が護ると決めた街だ! 俺の眼が、まだあいつらを捉えてるなら……俺の腕が、まだ動くなら……一歩だって退けるかよォオオオオッ!!」

一護の魂の再点火。

それは、死神の力を失うという絶望の未来を前にした、彼の最後の『反逆』であった。

「……ハッ。相変わらず、バカみたいに熱いヤツだね」

マリンの口元に、獰猛にして美しい、海賊船長の笑みが戻った。

「いいだろう! これがアンタとの『最後の航海(ケンカ)』だ! アタシの海の底に、あいつらを一匹残らず沈めてやるワゾ!!」

### 第三節:深海のワルツ、劇毒の錨(いかり)と消えゆく刃

マリンが真・紅海月を天へと突き立てた。

「——卍解」

「『覇海・宝鐘紅海月(はかい・ほうしょうくれないくらげ)』ッ!!!!」

ゴバァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!

空座町の上空数千メートルに、空間を強引に上書きする形で『黒紫色の深海の固有結界』が展開された。

一護や地上への影響を最小限に抑えるため、マリンはその結界の範囲を上空の実験体たちの周囲だけに極限まで圧縮・限定していた。

「オオオオオッ!?」

空間ごと深海一万メートルの絶対水圧に閉じ込められた実験体たちが、その巨体を軋ませて動きを鈍らせる。水の一滴一滴が、触れた霊子を破壊する虚の劇毒。

「行くよ、一護!!」

マリンの姿が響転によって掻き消え、実験体の群れのど真ん中へと出現した。

片腕のハンディキャップを補うのは、大気中の魂の使役(フルブリング)による超高速の軌道制御。

ガギィイイイインッ!!

マリンの一振りが、実験体の強固な仮面を易々と両断する。

「二の波・渦潮(うずしお)!!」

刀を回すと、周囲の劇毒の海が巨大な水流の螺旋となり、十数体の実験体をまとめて巻き込み、その肉体を内側からドロドロに溶かしていく。

下界からそれを見上げる一護の視界は、すでに限界を迎えていた。

マリンの展開した群青の海が、まるで水に溶けた絵の具のように、視界の端から徐々に『無色の空気』へと薄れ始めているのだ。

(クソッ……もう、霊圧の輪郭がボヤけてやがる……! あいつがどこで戦ってるのか、感触(センス)が掴めねェ……!)

だが、一護は立ち止まらなかった。

心の眼で、マリンの放つ『劇毒のノイズ』を感じ取る。

あいつは今、あそこで戦っている。あいつの放つ群青の波が、ここで弾けている。

「おおおおおオオオオオオッ!!!!」

一護は木刀を構え、大虚の群れから零れ落ち、地上へと降下してきた一体の実験体に向かって、猛然と突撃した。

霊圧はない。身体能力も、ただの高校生のそれに戻りつつある。

だが、彼には千回の戦いで培った『戦術(コンバット)』と、絶対に負けないという『意志の質量』があった。

実験体の巨爪が、一護の頭上から振り下ろされる。

一護は、直撃の寸前で泥泥の地面を滑り込むようにして回避し、実験体の懐へと潜り込んだ。

「これで……最後だァアアアアアッ!!!!」

一護は、自身の魂の底の底、残された死神の力の『最後の核』を、木刀の先端に完全に集中させた。

刀身が、彼の命の輝きそのもののように、一瞬だけ、眩いばかりの黄金色に発光する。

「——『月牙天衝』ッ!!!!」

ゼロ距離からの極大の一撃。

ズガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!!!

実験体の胸部に埋め込まれていた崩玉の模造品が、一護の魂の一撃によって粉々に粉砕され、その巨体は光の粒子となって霧散していった。

「ハァッ……、ハァッ……、ハァッ……!!」

一護は木刀を地面に突き立て、激しく血を吐きながら膝をついた。

彼の手にある木刀は、限界を超えた霊圧の放出に耐えきれず、サラサラとした灰となって風に消えていった。

死神としての力が、今、完全に死に絶えた。

上空では、マリンが最後の実験体を真・紅海月で一刀両断し、卍解の海を解除していた。

「……終わった、よ……」

マリンが空からゆっくりと降りてくる。

だが、その姿は、一護の瞳にはもう——。

### 第四節:見えなくなる世界、引き裂かれる境界線

「……マリン」

一護が、掠れた声で呼びかける。

彼の前に着地した宝鐘マリン。真紅のコートを羽織り、オッドアイを輝かせているはずの彼女の姿は、今の一護の眼には、まるで霧の向こう側に立つ幻影のように、完全に透けてしまっていた。

背景にある空座町の電柱や建物が、彼女の体を透過してはっきりと見える。

音も、遠い。彼女が目の前で口を動かしているのは分かるが、その声は、水の中に深く沈められたかのように、くぐもって聞こえなかった。

「……一護……あんた……アタシのことが、もう……」

マリンの声が、ノイズの隙間から微かに一護の脳内に届く。

彼女のオッドアイから、大粒の涙がこぼれ落ち、地面の泥を濡らす。だが、その涙が地面を叩く音すら、一護にはもう聞こえない。

一護は、半透明になったマリンの頬に向けて、右手をそっと伸ばした。

だが、彼の指先は、マリンの肌に触れる前に、ただの空気を掴むようにして、彼女の体をすーっと『すり抜けて』しまった。

霊的因縁の完全な遮断。

次元が、物理的に切り離されたのだ。

「……見えねェよ。マリン」

一護は、力なく右手を下ろし、自嘲気味に笑った。

「声も……聞こえねェ。……お前が今、泣いてんのか、笑ってんのかも……もう、分かんねェや」

一護の瞳から、死神代行として世界を視ていた『光』が、完全に消失した。

彼の眼に映っているのは、ただの、何の変化もない、平和で退屈な現世の「空座町の日常」だけだった。

すぐ目の前に、血を流して泣き崩れるマリンが立っているというのに。その存在を、彼の五感は、魂は、二度と感知することができなくなってしまったのだ。

「……でもさ」

一護は、誰もいないはずの虚空に向かって、真っ直ぐに語りかけた。

「お前がそこにいるのは、分かる。……俺が護ったこの街で、お前が、ルキアたちが、まだ生きて戦ってるのは……魂で分かってるからさ」

一護は、自身の胸の空頭に手を当て、ニッと笑ってみせた。

「……じゃあな、マリン。……あとは、任せたぞ」

一護は振り返り、夕暮れに染まる現世の道を、一人の普通の人間として、ゆっくりと歩き始めた。

彼の背中は、どこまでも小さく、そして、どこまでも頼もしかった。

「——一護ォオオオオオオオオオオオオッ!!!!」

一護の後ろ姿に向かって、マリンは、届かないと知りながらも、喉がちぎれるほどの声で絶叫した。

「任せなさいよ、バカ一護……!! アンタが護ったこの世界は……アタシが、この宝鐘マリンが、何があっても絶対に繋ぎ止めてみせるから……!! だから……安心して、普通の高校生に戻りなよ……!!」

マリンは、血塗れの地面に両膝をつき、声を上げて泣きじゃくった。

ルキアがその肩を静かに抱きしめる。

沈みゆく夕日が、二人の死神(海賊)の姿を、長く、切なくアスファルトの上に伸ばしていた。

一つの偉大な物語(ヒーロー)が終わり、現世の守護者としての、新たなる『錨』が、この地に深く下ろされた瞬間であった。

### 第五節:受け継がれる錨、宝鐘海賊団の航路

それから、数日後。

空座町を見下ろす、いつもの高台。

決戦の激動が嘘のように、現世の街は穏やかな日常を営んでいた。

女子高生たちが笑い合い、サラリーマンが足早に歩みを進める。その雑踏の中に、オレンジ色の髪をした一人の少年が、友人たちとバカ騒ぎをしながら歩いている姿があった。

彼は、もう空を見上げることはない。

彼の肩をすり抜けていく虚の気配に、怯えることもない。

完全なる、平穏。

「……本当に行ってしまうのですね、宝鐘サン」

高台の風の中で、浦原喜助が帽子を深く被り直し、隣に立つマリンを見つめていた。

マリンの左腕は完全に修復され、その手には、市丸ギンの『神殺鎗』の残滓である霊子の塵を、自らの『真・紅海月』の刀身の中に完璧に溶け込ませた、新たなる刃が握られていた。

漆黒の刀身の奥で、銀色の不気味な光が、ノイズのように絶えず明滅している。

「ああ。現世のパトロールは、浦原のおじさんや、仮面の軍勢(ヴァイザード)の連中に任せるよ」

マリンは、真紅の海賊コートの襟を立て、眼帯型のバイザーを指先で弾いた。

「アタシはね……この刀(紅海月)と一緒に、もっと色んな海を渡らなきゃならないんだ。……尸魂界の復興も手伝わなきゃいけないし、虚圏(ウェコムンド)の残党どもの舵取りもしなきゃならない。……船長(アタシ)は、一箇所に留まってるガラじゃないからね」

マリンは、腰の刀を強く叩いた。

彼女の魂の中には、一護が遺していった『世界を護るという意志』と、市丸ギンから託された『百年の執念の劇毒』が、極太の『錨(いかり)』となって、深く、深く突き刺さっていた。

「……黒崎サンには、何も言わずにいくッスか?」

「言ったって、あいつにはもう、アタシの姿は見えないし、声も聞こえないさ」

マリンはフッと寂しげに笑い、だがすぐに、いつもの強欲で不敵な海賊の顔に戻った。

「でも、あいつがいつか……またアタシたちの世界(海)に戻ってきたとき、世界が真っ黒に滅んでたら、船長として面目が立たないだろ?」

マリンは、高台から一護がいるであろう街の方向を真っ直ぐに見据えた。

「だから、アタシが世界を繋ぎ止める『錨』になってやるのさ。……どんな理不尽な嵐が来ようが、どんな神様が世界を壊そうとしようが……アタシの船(せかい)を、勝手に沈めさせるわけにはいかないワゾ!」

マリンは背を向け、浦原が開いた『穿界門』の光の渦に向かって、力強い一歩を踏み出した。

「じゃあな、浦原のおじさん! 現世の留守は頼んだよ!」

「ええ。……良き航海を、宝鐘船長(キャプテン)」

浦原が、静かに帽子を取って頭を下げる。

光の渦の中に、マリンの真紅のコートが吸い込まれていく。

その姿は、かつて自身の出自に怯え、失敗作だと嗤われて涙を流していた少女のものではなかった。

全ての因縁を、毒を、絆をその身に宿し、世界の崩壊を止めるための果てしない航海へと旅立つ、真の海賊船長の姿。

空座町の空は、どこまでも澄み渡り、青かった。

一人の少年が護り抜いた平和な海の向こう側で、受け継がれた劇毒の錨を携えた海賊船の、新たなる壮大な航路(千年血戦篇への序曲)が、今、高らかな波音と共に幕を開けたのである。

(現世決戦篇・完)

 

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