ヤチヨが彩葉と出会うまでの前日譚   作:リミナル

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2026/05/25

色々なことが一段落した今日、今までの事をこのノートに書くことにしようと思う。
十二年前から、今日に至るまで、俺の人生を変えてくれたあるお姫様のお話を。




CIAの彼

 

 

 

 

 あの頃の俺には金が無くて、激動のこんな時代には似つかわしくない木造建築のアパートの一室に住みながら、アルバイトや日雇いで食いつなぐ日々が続いていた。

 住んでいる部屋は、夏はサウナに、冬は冷凍室に様変わりするもんで、よく近くにある公園のベンチに腰掛けながら川を眺めるのが好きだった。

 今日も今日とて、暑さから逃げるように公園へ来ている。

 

「おはようございます。今日は何を考えながら腰掛けているので?」

 

 朝焼けが広がり始めた早朝、ふと俺に向けられた声が聞こえる。

 川とベンチの間の通り道をジョギングする人を尻目に、俺は声のする方を向く。

 立っているのは、()()()()()彼。いや、昨日だけじゃない。一昨日も、そのまた前の日も。

 ベージュのスーツを着こなす、黒縁のメガネを掛けたセンターパートの西洋人。190cmはあるだろう。

 名前は知らない。素性なども一切不明。

 整った顔立ちの彼が、今日"も"話しかけてきた。

 

「…………特に何も。あるとしたら、明日生きているのかどうかですかね」

 

 彼と初めて出会ったのは二ヶ月前。その日からこの公園へ赴けば、必ず顔を合わせている。

 どうしていつもそんな堅苦しいスーツを着こなしているのか、どうして毎日ここにいるのか、どうして俺に話しかけてくるのか。

 会う度、見る度に疑問を持っては聞きそびれてしまう。飄々とした立ち居振る舞いからは、何故かそれらを聞くことが野暮に感じられた。

 

「そうですか」

 

 彼はそういったっきり、それ以上は何も言ってこない。

 彼はそういう人間だ。他愛ない挨拶をして、俺の隣に腰を掛ける。そして、何を言う訳でもなく一緒に静かに時が経つのを眺めている。

 

 

 

 いつも"は"そうだった。

 

 

 

 この日は、いつもと少し違った。

 そろそろ今日の仕事の時間だと、重い腰を上げようとしたその時。

 二度と開くことはないと思われた彼の口が、再び開いた。

 

「私がCIAの人間だと言ったら、どうしますか」

 

 いつも俺の話を聞くだけだった彼が、初めて、自分の話を始めた。初めてする話にしては重すぎる内容を添えて。

 その突拍子もない言葉は、不思議と俺を驚かせることはなかった。

 むしろ、とても納得できたし、とても腑に落ちた気がした。

 

「どうしたんですか、突然」

 

 自分とは思えない冷静な言葉が出た。

 

「貴方に頼みたいことがありまして」

「俺に? 何を、どうして?」

「…………どうして、ですか」

 

 一息置いたあと、彼は己の記憶を辿るように淡々と話し始める。

 

「最初に話しかけたのは、単なる気まぐれでした。ただ座って物思いにふけっている貴方に興味が湧いてしまって。私がやるべきことをやるための、そのつかの間の暇つぶし。

 私には、日本に訪れてから出来た、ある一人の友人がいます。すぐそこのバーで知り合ったんですがね、どうしてか彼女のことは無視できなかったんです。

 貴方には、彼女の事を頼みに来ました」

 

 それは彼女との思い出の日々だった。曰く、任務による傷心の日々を、癒してくれたのだと。

 

「─────そして私達は、ある一つのことをやってのけたんです。それはそれはすごいことを。

 その瞬間、彼女は自由になったんですよ」

 

 話し方こそ俺に伝える形になっていても、掴みどころのない、雑然とした内容が続いた。しかし、何故か引き込まれる。二人して夢でも見ているようだった。

 

「思い出話はこんなものでいいでしょう。

 言った通り、私の仕事は既に終わっています。

 もう母国へ帰らなければなりません。

 でも、他に頼る宛もない彼女のことを置いていくのも憚られた私の誘いを、彼女は断りました。

『約束があるの』、だそうです。

 彼女が生きていけるように、私がしてあげられることは全てやりました。…………それでもなお私には一抹の不安がずっと付き纏っているんです。

 だから、ここへ、こうして話しに来ました。唯一信頼出来る貴方に」

 

「俺に信頼? ハッ」

 

 自嘲気味に笑いながら答える。

 

「CIAなのにやたら甘いんですね。

 俺と貴方は毎日顔を合わせるだけの赤の他人。大切な友人を素性もよく知らない俺に任せていい訳ない。俺ならそう思いますが」

 

「……正直言って時間がなかった。ですからこれは、貴方の言うとおり正しい選択では無いのでしょう。

 でも、間違った選択でもないと思います。

 毎日見ていた貴方の話す姿は……それほど悪い人には思えなかった。だからきっと、これはそういう"運命"なんです」

 

「"運命"?」

「詳しいことは彼女が教えてくれるでしょう」

 

 そこまで話すと、彼は満足したように立ち上がった。

 

「……いやいやちょっと待て、聞きたいことがまだいっぱいある! 第一、母国に帰るって……」

「沢山の面白い土産話のお返しに、これを差し上げます」

 

 手渡されたのは、ワイヤレスイヤホンのケースのようなプラスチックの塊。

 

「楽しい日々をありがとう、日本は最高の国だ」

 

 俺が贈り物を確かに受けとったことを確認すると、彼はそう言いながら、右手の二本指をこめかみの当たりからピッと動かして、笑顔で去っていった。

 

「……」

 

 初めて心の底から笑っていたように見えた。

 恐らく、追いかけて無理やりにでも引き留めようとすれば色々聞き出せたのだろうが、彼の屈託のない笑顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

(運命……)

 

 去りゆく背中を眺めながらその二文字を反芻する。

 気がつけば空はもうすっかり青くなっていた。

 こうして俺は、二ヶ月間だけ知り合った、名前すら知らない彼と今生の別れを告げた。

 

 

 

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