異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
春の朝は、思ったより重かった。
胸の上に黒い毛の山がある。
正確には、黒い神狼が丸くなっている。名を、くろすけという。
子狼だった頃は両手で抱えられるほどだった。俺が布団に入れば、懐に潜り込んで、湯たんぽのように温かい腹を押しつけてきた。
それが今では、ラブラドールほどの大きさである。
こいつは、いまだに自分を昔の重さだと思っているらしい。
「……くろすけ。俺の腹がつぶれる...」
くろすけは片耳だけをぴくりと動かした。
起きる気配はない。
黒い毛は冬を越したばかりで厚く、布団の上からでも熱がこもる。鼻先を俺の首元に押しつけ、ふう、と息を吐いた。その息が少し獣の匂いと、昨日食べた焼き魚の名残を含んでいる。
布を指に巻き付けての歯磨きでそこまでの獣臭さはないが。
俺はゆっくり片腕を抜こうとした。
くろすけの前足が、すかさず俺の袖を押さえる。
爪は立てない。だが重い。とても重い。
障子の向こうが白く明るい。
雪はもう消えたはずなのに、朝の空気にはまだ冬の端が残っている。布団から出た指先に、薄く冷えが触れた。
春だ。
ただ、米井村の春は、都の春とはたぶん別の生き物である。
山の陰にはまだ雪が残り、夜明けの土間は足裏から体温を奪っていく。
その土間の方から、鍋の蓋が小さく鳴る音がした。
続いて、味噌の香りが細く流れてくる。
ふきのとうを刻んだ苦い香り。煮えた粥の甘い湯気。炙った味噌の香ばしさ。
俺の腹が、本人の
くろすけの耳が今度は両方立った。
鼻が、ぴくぴくと動く。
「若様。お目覚めでしたら、さっさと起きてくだされ」
台所から、お妙婆の声が飛んできた。
低くも高くもないが、鍋の底まで届く声である。
「まだ目覚めてはいない。俺は今、神の使いに圧縮されている」
「くろすけ様は、若様が布団を離れぬから乗っておられるのでございましょう」
「因果が逆だ」
「朝飯が冷めます」
この家で一番強い言葉は、領主家の命令でも神獣の唸りでもない。飯の合図である。
お妙婆は六十を越えた世話役だ。俺が屋敷から山裾の別宅に移る時、当然のような顔でついてきた。
本人いわく、若様ひとりでは飯も洗濯も畑も三日で投げますから、とのこと。
失礼な話だ。
五日は粘る。
俺はくろすけの肩を押した。
黒い毛の下には、ずしりとした筋肉がある。普段は大きな犬のように寝転がっているが、本気になれば畳一枚ほどの神狼になる。村の者は神の使いと呼び、初めて見る者は腰を抜かす。
その神の使いが、今は粥の匂いに鼻をひくつかせ、俺の上で寝返りを打とうとしている。
「待て、待て、待て。そこで回るな。俺の体がぺしゃんこになる」
くろすけは薄く目を開けた。
琥珀色の目が俺を見て、次に台所の方を見た。
それから、のそりと体を起こす。
助かった、と思った瞬間、太い尻尾が布団を叩いた。
体を起こしたのを確認すると、くろすけは戸口へ向かった。
まだ寝ぼけているのか、腰の高さにある尻尾が、ぱたん、ぱたん、と柱を叩く。
台所から、お妙婆の鋭い声がまた飛んだ。
「くろすけ様、台所では尻尾を振らんでくだされ。味噌壺が倒れます」
くろすけの尻尾が、ぴたりと止まった。
神の使いもうまい飯には勝てないらしい。
俺は布団から這い出し、冷たい床板に足を下ろした。春の朝の床は容赦がない。足裏から、冷気と引き換えに眠気が抜かれていく。
陶器の湯たんぽの入った布団に戻りたくなる。
寝間着の上に羽織を引っかけ、手櫛で髪をどうにか人間の形に寄せた。
土間へ下りると、かまどの火が赤く残っていた。
鍋からは白い湯気が立ち、粥がとろりと泡を浮かべている。隣の小さな皿には、緑がかった味噌がこんもりとのっていた。
ふきのとう味噌だ。春の苦みを味噌と油で丸くした、飯をもう一口欲しくなる危険物である。
お妙婆は、割烹着代わりの前掛けを締め、菜箸を持って鍋を見ていた。
白髪を後ろでひとつにまとめ、背は少し曲がっているが、動きは速い。菜箸の先がこちらを向く。
「若様、顔を洗ってきなされ」
「俺は今、朝飯に感動しているところだ」
「寝言は寝て言ってくだされ」
返す言葉が少し減った。
俺は桶の水に手を入れ、思った以上の冷たさに指を引っ込めた。沢から引いた水は、雪解けの名残をまだ抱えている。
「……今年、少し寒くないか」
「山国の春でございますよ。寒い寒いと騒ぐほどでもありませぬ」
お妙婆はそう言って鍋の火を見た。
桶の水で顔を洗う。
冷たさが頬を刺し、眠気が逃げた。
くろすけはすでに台所の入口で伏せ、前足をそろえて待っていた。尻尾だけが床板の上で、静かに左右へ揺れている。
お妙婆に叱られたので、壺には当てない範囲で振っているらしい。
「くろすけの方が、俺より台所に適応している」
「若様は飯の時でも理屈をこねますからな」
刺さった。
俺はかまどの横にしゃがみ、食べ終わった後の鍋や椀を洗う準備をした。
指先に生活魔法を通す。
水が細く揺れ、桶の中で薄い膜のように広がる。灰と油を浮かせ、汚れをはがしやすくする程度の魔法だ。
「先に食べてからでよいですぞ」
「後回しにすると、俺の中の怠惰が勝つ」
「それを分かっているなら、まだ救いがございます」
お妙婆は笑いもせず、椀に粥をよそった。
粥は白米だけではなく、少し雑穀が混じっている。ぷつぷつした歯触りが残るよう、煮えすぎないところで止めてある。
椀の縁から立つ湯気に、炙ったふきのとう味噌の香ばしさが混じる。
くろすけの前にも、別の器が置かれる。
粥ではなく、昨日の焼き魚のほぐし身を混ぜたものだ。骨は丁寧に取ってある。お妙婆の仕事である。
くろすけは器へ鼻を近づけたが、すぐには食べず、ちらりと俺を見る。
「待ては言っていないぞ」
俺がそう言うと、くろすけは前足で器をほんの少し引き寄せた。
それから、静かに食べ始める。
がつがつとはしない。だが一口が大きい。焼き魚の香りがほぐれ、鼻先に白い湯気が絡む。
黒い毛の上に、かまどの火が赤く映っていた。
俺も椀を持つ。
まずは粥だけを一口。
熱い。
舌の上で米の甘みがほどけ、雑穀の小さな粒がぷちりと歯に当たる。腹の底に温かさが広がった。
そこへ、ふきのとう味噌を箸先に少し。
苦い。
その苦みの後から、味噌の塩気と油の丸みが来る。春の山を飯の友にしたような味だ。
二口目からは、粥が進む。
危険物だ。
「お妙婆、これは飯を増やさせる味だ」
「春の苦みは体を起こしますでな」
「体が起きると仕事も起きる。そこが問題だ」
土間の脇の低い台で、俺とお妙婆が並んで座る。くろすけは入口近くで伏せ、器を空にしてから口元を舐めている。
山裾の別宅は屋敷に比べれば狭いが、かまどの火と味噌の香りと、黒い毛の塊と、口うるさい婆さんがいるだけで、朝はそれなりに満ちている。
俺は一人と一匹で暮らしているつもりだった。だが実際には、飯も薪も洗濯物も、俺が見ないふりをした畑の草も、お妙婆の手でかなり支えられている。
「若様」
「はい」
「今日は、食べたら畑の端を見ますぞ」
「まだ寒いから二度寝を...」
「昨日、見ないふりをなさいました」
「見ないふりではない。視界に入れない工夫だ」
「同じでございます」
お妙婆は粥をすすり、当然のように言う。家の脇には、二人で管理するには少し大きめの畑がある。
米は別だ。
うちには田の土地があるが、米作りは田吾作爺に任せている。田のことは田を知っている者がやるのが一番いい。
素人が思いつきで口を出すと、現場の手が増える。前世の工場のように...
ただ、今年の春はいつもより少しだけ寒い気がする。
だが、米だけに腹を預けるのは、少し怖い。
俺は前世で、無茶な目標とコンプライアンス違反が平気で横を歩く部署にいた。心が先に折れ、休職して、山を歩いている時に足を滑らせた。次に目を開けた時には、魔法も神狼もいる、けれど地形や雰囲気だけはやけに前世の日本に似た土地で、米井実親として生きていた。
このあたりは、どうにも東北の山沿いに近い。雪が深く、春が遅く、沢の水がいつまでも冷たい。前世の知識が全部役に立つとは思わないが、東北で夏に冷えが続くと、米がうまく育たない年がある、という話くらいは覚えている。
今から飢饉だ不作だと騒ぐ気はない。けれど、夏まで水が冷たいままだったら、田吾作爺の田も楽ではないかもしれない。
「畑、あとで区画だけ見ておくか」
お妙婆の箸が止まり、こちらを見る目が少しだけ細くなる。
「若様が自分から畑と言うとは、今日は山が鳴りますかな」
「働くだけで地滑りの前兆か...」
くろすけが器から顔を上げた。
口元に白い粥粒ではなく、魚の小さなかけらがついている。
俺が指で示すと、くろすけは舌でぺろりと拭った。
それから立ち上がり、俺のそばへ来る。
まだ食べ終わっていない俺の袖を、軽く咥えた。
「待て。俺はまだ粥が残っている」
くろすけは袖を引く。強くはない。外を見ろと言っている時の引き方だ。
台詞も念話もない。それでも、長く一緒にいると分かることはある。
戸の隙間から、春の匂いが入っていた。
濡れた土。雪解け水。まだ硬い草。どこかで芽を出した山菜の青い匂い。
お妙婆が、椀にもう少し粥を足した。
「外へ出るなら、腹へ入れてからになされ。春の風は、見た目より冷えます」
「承知。人間は燃料がないと動かない」
「くろすけ様もでございます」
くろすけの耳がぴくりと動いた。
お妙婆は小皿に、焼き魚の端をもう一切れ置く。
くろすけは尻尾を振りかけ、途中で台所の壺を見てやめた。
俺は笑って、ふきのとう味噌を粥に少し溶いた。
苦みと湯気が、朝の冷えを押し返していく。
面倒な一日が始まる。けれど、腹は温かい。袖を引く黒い家族もいる。台所には、逃げ道を塞ぐ婆さんがいる。
ならまあ、布団に戻る言い訳は少し弱い。
椀を空にして立ち上がると、くろすけが戸口で待っていた。
黒い背中の向こうに、山裾の春が白く光っている。
外へ出れば、冷たい土と、畑と、たぶん見ないふりを許されない仕事がある。
俺は羽織を直し、息を吐いた。
「行くか。まずは、春の匂いだけだ。仕事をするとは言っていない」
くろすけは答えず、鼻先で戸を押した。
開いた隙間から、冷たい風と、ふきのとうに似た青い匂いが流れ込んだ。
お妙婆の声が、背中を押す。
「鍬は、納屋の右手に出してあります」