異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第10話 春の川魚焼き

翌朝、くろすけは戸口で待っていた。

昨日の夕方から沢の方を見ていたので、待ちきれないらしい。

 

「もう少し待ってくれ」

 

俺が言うと、くろすけは袖を咥えた。

返事としては強い。

 

台所では、お妙婆が竹籠と小さな網を出していた。昨日、乾燥棚に並べた山菜は朝の風に揺れている。縮んだ葉から、まだ青い匂いが少し立っていた。

 

もこは小屋の入口から顔を出し、干し草を噛みながらこちらを見ていた。昨日と同じ顔だ。お前は留守番でいい。魚を見てもたぶん困るだけだ。

 

「若草を足しておきますから、もこは小屋の周りでようございます」

 

お妙婆がそう言うと、もこはめえと鳴いた。

納得したのか、若草という言葉だけ分かったのかは知らない。

 

俺は網と籠を持ち、くろすけの後について沢へ向かった。

山裾の道は、朝の湿りをまだ残していた。草の先に露がつき、足袋の先がじわりと冷える。昨日倒した竹の芽が道の脇で少ししおれていて、春の仕事が一つ終わった顔をしている。

 

沢へ近づくと、水音が先に聞こえてきた。

雪はもう見えないが、山の奥にはまだ白いものが残っているのだろう。流れの音が、冬の残りを細かく砕いて運んでいるようだった。

 

「水に入らずに魚だけ魔法で狩って来てくれないか」

 

くろすけは振り返らない。

分かっていたが、薄情である。

 

沢の縁にしゃがみ、手を入れた。

 

「冷たい」

 

思わず言葉が出た。

長く使っているとしびれそうだ。

 

くろすけは前足を水際に置き、すぐに引いた。

そして俺を見た。

 

「お前も冷たいんじゃないか」

 

くろすけは耳を少しだけ伏せた。

そうだろう。神狼でも冷たいものは冷たい。

 

沢の浅いところには、小さな影が走っていた。

岩の陰から岩の陰へ、銀色の筋が一瞬だけ光る。岩魚だ。

 

くろすけは水面を見たまま、尻尾を一度だけ動かした。

早く食べたいらしい。

俺も岩魚は好きだ。早く食べたい。

 

俺は浅瀬の下手に回り、網を構えた。

くろすけは上手側へ静かに入る。水に入った瞬間、黒い毛が少し膨らみ、前足が流れを割った。

くろすけは少し得意げな顔をしている。

 

「おい、冷たくない顔をするな。さっき冷たかっただろ」

 

くろすけは聞こえないふりをした。

鼻先を下げ、岩の陰へ影を自在に落とす。水の中の魚が驚き、流れに沿ってこちらへ走った。

 

俺は投げ網を入れた。

一匹目は逃げた。

二匹目も逃げた。

三匹目で、網の底に銀色が跳ねた。

 

「よし」

 

声を出した瞬間、沢で水にぬれないように乗せていた足元の石が少し動いた。

俺は片膝をつきかけ、どうにか踏みとどまる。沢水が足首まで入ってきた。

 

「冷たい。長靴なしはきついなぁ...」

 

くろすけは魚の方を見ていた。

俺の足首より、籠の中の魚である。

 

それから、二人でしばらく魚を追った。

くろすけが岩の陰を示し、俺が下流で網を構える。うまくいく時もあれば、魚が俺の横をすり抜ける時もある。

大きいものは少ない。まだ春の沢だ。

籠の中には、手のひらより少し長い魚が五匹入ったところでやめた。

 

「これ以上は採りすぎだな」

 

くろすけは少し不満そうに籠を見た。

 

「お前の腹基準で沢を空にするな」

 

尻尾が一度だけ揺れた。

 

帰り道、足袋の先は冷たく、指がじんじんした。

春の山道には若草の匂いがあるのに、足元だけはまだ冬だ。夏にこの水が田へ入るのだと思うと、少しだけ顔が曇る。

籠の中で魚がぴちりと跳ねた。まずは食べる。

 

家へ戻ると、お妙婆がすぐに桶を用意した。

 

「五匹でございますか」

 

「くろすけは十匹の顔をしていた」

 

「五匹で十分でございます」

 

くろすけは不満を言わない。

言わないが、籠の横に座り、魚から目を離さない。喋らないものの圧は、たまに言葉より強い。

 

お妙婆は魚を洗い、ぬめりを落とし、腹を出した。

俺は洗浄魔法で桶と包丁を清め、火鉢の炭を起こす。火起こし魔法で種火を入れ、加熱魔法で炭にゆっくり熱を回した。

 

「強すぎますと焦げます」

 

「分かってる」

 

「昨日、山菜の香りを飛ばしました」

 

「一応おれも学習はする」

 

火は早く強くすればいいものではない。

魚はなおさらだ。表面だけ焦げて中が冷たい、という前世の弁当みたいな失敗は避けたい。

 

お妙婆は串を打ち、塩を薄く振った。

二匹には味噌を少し塗る。味噌はそのままだと焦げやすいので、薄く、腹のあたりに少しだけだ。

 

炭の上に魚を並べると、すぐに皮が乾き始めた。

水気が飛び、皮が張る。少し待つと、ぱち、と小さな音がした。

 

「お」

 

皮が弾けた。

白い湯気の中に、川魚の青い匂いが立つ。そこへ塩の香り、味噌の香ばしさが重なった。昨日の筍の青さとは違う。沢の香り、炭の熱が一緒になった匂いだ。

 

くろすけが鼻先を近づける。

 

「熱い。待て」

 

くろすけは耳を伏せた。

待てと言われると待つ。そこは賢い。尻尾だけが待てていない。

もこも何事かと家の外から覗いていた。

もこにも若草を足してやると、魚の匂いに一度だけ鼻を動かしたが、すぐ草へ戻った。

白い毛を揺らしながら、しゃくしゃくと噛んでいる。

 

「魚より草か」

 

めえ、と返ってきた。

はっきりしていてよろしい。

 

昼飯は外に膳を出した。

日なたは温かいが、風にはまだ冷たい芯がある。乾燥棚の山菜は少し軽くなり、曲がった枝の布切れがゆっくり揺れていた。

 

膳には、焼いた川魚、昨日の山菜を少し使った汁、少しの粥。

米は多くない。だが、魚があると膳が急に豊かに見える。

 

俺は塩焼きの一匹を箸で割った。

皮は薄く張り、ところどころ焦げている。身は白く、湯気を立てながらほろりと外れた。

 

口に入れると、まず熱い。

それから、川魚らしい淡い旨味が来る。脂は多くないが、骨まわりにしっかり味がある。塩が身の甘みを引き出し、皮の焦げたところが少し苦くて、粥に合った。

 

味噌を塗った方は、また違った。

焦げた味噌の香りが強く、白身の淡さを引っ張り上げる。噛むと、味噌の塩気と魚の汁が混ざり、舌の上でじんわり広がる。

 

「これは、米が減る」

 

「減らしてはいけませぬ」

 

お妙婆が即座に言った。

 

「言い方だ。米が進む」

 

「それも困ります」

 

正しい。この時代は前世と違って米を腹いっぱい食うことも贅沢だ。

春の米は大事だ。魚がうまいからといって、飯を盛りすぎるのは違う。

俺は粥を一口すすった。薄い粥に、山菜の苦みと魚の塩気が合う。米の量は少なくても、口の中は寂しくない。

 

くろすけには、冷ました魚を一匹、身をほぐして出した。

骨を外し、粥を少し混ぜる。

 

くろすけは静かに待った。

器を置いた瞬間、静かではなくなった。

一口、二口、三口。あっという間に消える。

 

そして、もこの方を見た。

 

「ないぞ」

 

どうやらもこは魚を食わないだろうから、もこの分の魚をくれ。ということらしい。

 

「もこの分は草だ」

 

尻尾が一度だけ揺れた。

もこは草を噛みながら、くろすけを見た。毛が少しふくらむ。

 

「くろすけ様、もこの分は若草でございます。魚は最初からもこの分はありません。」

 

お妙婆が言うと、くろすけは何事もなかったように伏せた。

さっきまでの視線は消えた。

 

食後、お妙婆は魚の骨と頭を小鍋へ移した。

 

「捨てるのかと思った」

 

「出汁にいたします」

 

「骨まで働かせるのか」

 

「魚でございますから」

 

 

小鍋に水を張り、骨と頭を入れる。臭みが出すぎないよう、火は弱くした。お妙婆は昨日干し始めた山菜を一つまみ見て、まだ早いと戻す。

今日は生の山菜を少しだけ刻み、鍋へ入れた。

 

湯が温まるにつれ、魚の香りがまた立つ。

焼いた身を食べた時の派手さはない。骨から出る匂いは、もっと静かで、ゆっくりだ。味噌をほんの少し溶くと、鍋の湯気が丸くなった。

 

「明日の朝に少し足しましょう」

 

「魚を採ると、次の日の飯まで決まるのか」

 

「そういうものでございます」

 

しかし、同じ魚が焼き魚になり、粥の混ぜものになり、骨出汁になる。

一匹の仕事量が多い。

食べ物の使い回しはありがたい。というか、食べ物に失礼がない。

 

午後、俺は足袋を干しながら畑を見た。

雑穀、豆、芋の木札が、春の風に揺れている。土の下ではまだほとんど見えない。だが、畑が育つまでの間、山菜があり、筍があり、沢魚がある。

 

季節の旬ものを食べる贅沢を味わっている。

 

乾燥棚には山菜。

もこ小屋には白い毛の塊。

沢には冷たい水と、少しの魚。

 

「春は、働かせるものが多いな」

 

俺が言うと、くろすけが隣で尻尾を振った。

 

「褒めてない」

 

くろすけは魚を食べた後の満足げな顔で、俺の袖を軽く噛んだ。

 

 

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