異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
翌朝、くろすけは戸口で待っていた。
昨日の夕方から沢の方を見ていたので、待ちきれないらしい。
「もう少し待ってくれ」
俺が言うと、くろすけは袖を咥えた。
返事としては強い。
台所では、お妙婆が竹籠と小さな網を出していた。昨日、乾燥棚に並べた山菜は朝の風に揺れている。縮んだ葉から、まだ青い匂いが少し立っていた。
もこは小屋の入口から顔を出し、干し草を噛みながらこちらを見ていた。昨日と同じ顔だ。お前は留守番でいい。魚を見てもたぶん困るだけだ。
「若草を足しておきますから、もこは小屋の周りでようございます」
お妙婆がそう言うと、もこはめえと鳴いた。
納得したのか、若草という言葉だけ分かったのかは知らない。
俺は網と籠を持ち、くろすけの後について沢へ向かった。
山裾の道は、朝の湿りをまだ残していた。草の先に露がつき、足袋の先がじわりと冷える。昨日倒した竹の芽が道の脇で少ししおれていて、春の仕事が一つ終わった顔をしている。
沢へ近づくと、水音が先に聞こえてきた。
雪はもう見えないが、山の奥にはまだ白いものが残っているのだろう。流れの音が、冬の残りを細かく砕いて運んでいるようだった。
「水に入らずに魚だけ魔法で狩って来てくれないか」
くろすけは振り返らない。
分かっていたが、薄情である。
沢の縁にしゃがみ、手を入れた。
「冷たい」
思わず言葉が出た。
長く使っているとしびれそうだ。
くろすけは前足を水際に置き、すぐに引いた。
そして俺を見た。
「お前も冷たいんじゃないか」
くろすけは耳を少しだけ伏せた。
そうだろう。神狼でも冷たいものは冷たい。
沢の浅いところには、小さな影が走っていた。
岩の陰から岩の陰へ、銀色の筋が一瞬だけ光る。岩魚だ。
くろすけは水面を見たまま、尻尾を一度だけ動かした。
早く食べたいらしい。
俺も岩魚は好きだ。早く食べたい。
俺は浅瀬の下手に回り、網を構えた。
くろすけは上手側へ静かに入る。水に入った瞬間、黒い毛が少し膨らみ、前足が流れを割った。
くろすけは少し得意げな顔をしている。
「おい、冷たくない顔をするな。さっき冷たかっただろ」
くろすけは聞こえないふりをした。
鼻先を下げ、岩の陰へ影を自在に落とす。水の中の魚が驚き、流れに沿ってこちらへ走った。
俺は投げ網を入れた。
一匹目は逃げた。
二匹目も逃げた。
三匹目で、網の底に銀色が跳ねた。
「よし」
声を出した瞬間、沢で水にぬれないように乗せていた足元の石が少し動いた。
俺は片膝をつきかけ、どうにか踏みとどまる。沢水が足首まで入ってきた。
「冷たい。長靴なしはきついなぁ...」
くろすけは魚の方を見ていた。
俺の足首より、籠の中の魚である。
それから、二人でしばらく魚を追った。
くろすけが岩の陰を示し、俺が下流で網を構える。うまくいく時もあれば、魚が俺の横をすり抜ける時もある。
大きいものは少ない。まだ春の沢だ。
籠の中には、手のひらより少し長い魚が五匹入ったところでやめた。
「これ以上は採りすぎだな」
くろすけは少し不満そうに籠を見た。
「お前の腹基準で沢を空にするな」
尻尾が一度だけ揺れた。
帰り道、足袋の先は冷たく、指がじんじんした。
春の山道には若草の匂いがあるのに、足元だけはまだ冬だ。夏にこの水が田へ入るのだと思うと、少しだけ顔が曇る。
籠の中で魚がぴちりと跳ねた。まずは食べる。
家へ戻ると、お妙婆がすぐに桶を用意した。
「五匹でございますか」
「くろすけは十匹の顔をしていた」
「五匹で十分でございます」
くろすけは不満を言わない。
言わないが、籠の横に座り、魚から目を離さない。喋らないものの圧は、たまに言葉より強い。
お妙婆は魚を洗い、ぬめりを落とし、腹を出した。
俺は洗浄魔法で桶と包丁を清め、火鉢の炭を起こす。火起こし魔法で種火を入れ、加熱魔法で炭にゆっくり熱を回した。
「強すぎますと焦げます」
「分かってる」
「昨日、山菜の香りを飛ばしました」
「一応おれも学習はする」
火は早く強くすればいいものではない。
魚はなおさらだ。表面だけ焦げて中が冷たい、という前世の弁当みたいな失敗は避けたい。
お妙婆は串を打ち、塩を薄く振った。
二匹には味噌を少し塗る。味噌はそのままだと焦げやすいので、薄く、腹のあたりに少しだけだ。
炭の上に魚を並べると、すぐに皮が乾き始めた。
水気が飛び、皮が張る。少し待つと、ぱち、と小さな音がした。
「お」
皮が弾けた。
白い湯気の中に、川魚の青い匂いが立つ。そこへ塩の香り、味噌の香ばしさが重なった。昨日の筍の青さとは違う。沢の香り、炭の熱が一緒になった匂いだ。
くろすけが鼻先を近づける。
「熱い。待て」
くろすけは耳を伏せた。
待てと言われると待つ。そこは賢い。尻尾だけが待てていない。
もこも何事かと家の外から覗いていた。
もこにも若草を足してやると、魚の匂いに一度だけ鼻を動かしたが、すぐ草へ戻った。
白い毛を揺らしながら、しゃくしゃくと噛んでいる。
「魚より草か」
めえ、と返ってきた。
はっきりしていてよろしい。
昼飯は外に膳を出した。
日なたは温かいが、風にはまだ冷たい芯がある。乾燥棚の山菜は少し軽くなり、曲がった枝の布切れがゆっくり揺れていた。
膳には、焼いた川魚、昨日の山菜を少し使った汁、少しの粥。
米は多くない。だが、魚があると膳が急に豊かに見える。
俺は塩焼きの一匹を箸で割った。
皮は薄く張り、ところどころ焦げている。身は白く、湯気を立てながらほろりと外れた。
口に入れると、まず熱い。
それから、川魚らしい淡い旨味が来る。脂は多くないが、骨まわりにしっかり味がある。塩が身の甘みを引き出し、皮の焦げたところが少し苦くて、粥に合った。
味噌を塗った方は、また違った。
焦げた味噌の香りが強く、白身の淡さを引っ張り上げる。噛むと、味噌の塩気と魚の汁が混ざり、舌の上でじんわり広がる。
「これは、米が減る」
「減らしてはいけませぬ」
お妙婆が即座に言った。
「言い方だ。米が進む」
「それも困ります」
正しい。この時代は前世と違って米を腹いっぱい食うことも贅沢だ。
春の米は大事だ。魚がうまいからといって、飯を盛りすぎるのは違う。
俺は粥を一口すすった。薄い粥に、山菜の苦みと魚の塩気が合う。米の量は少なくても、口の中は寂しくない。
くろすけには、冷ました魚を一匹、身をほぐして出した。
骨を外し、粥を少し混ぜる。
くろすけは静かに待った。
器を置いた瞬間、静かではなくなった。
一口、二口、三口。あっという間に消える。
そして、もこの方を見た。
「ないぞ」
どうやらもこは魚を食わないだろうから、もこの分の魚をくれ。ということらしい。
「もこの分は草だ」
尻尾が一度だけ揺れた。
もこは草を噛みながら、くろすけを見た。毛が少しふくらむ。
「くろすけ様、もこの分は若草でございます。魚は最初からもこの分はありません。」
お妙婆が言うと、くろすけは何事もなかったように伏せた。
さっきまでの視線は消えた。
食後、お妙婆は魚の骨と頭を小鍋へ移した。
「捨てるのかと思った」
「出汁にいたします」
「骨まで働かせるのか」
「魚でございますから」
小鍋に水を張り、骨と頭を入れる。臭みが出すぎないよう、火は弱くした。お妙婆は昨日干し始めた山菜を一つまみ見て、まだ早いと戻す。
今日は生の山菜を少しだけ刻み、鍋へ入れた。
湯が温まるにつれ、魚の香りがまた立つ。
焼いた身を食べた時の派手さはない。骨から出る匂いは、もっと静かで、ゆっくりだ。味噌をほんの少し溶くと、鍋の湯気が丸くなった。
「明日の朝に少し足しましょう」
「魚を採ると、次の日の飯まで決まるのか」
「そういうものでございます」
しかし、同じ魚が焼き魚になり、粥の混ぜものになり、骨出汁になる。
一匹の仕事量が多い。
食べ物の使い回しはありがたい。というか、食べ物に失礼がない。
午後、俺は足袋を干しながら畑を見た。
雑穀、豆、芋の木札が、春の風に揺れている。土の下ではまだほとんど見えない。だが、畑が育つまでの間、山菜があり、筍があり、沢魚がある。
季節の旬ものを食べる贅沢を味わっている。
乾燥棚には山菜。
もこ小屋には白い毛の塊。
沢には冷たい水と、少しの魚。
「春は、働かせるものが多いな」
俺が言うと、くろすけが隣で尻尾を振った。
「褒めてない」
くろすけは魚を食べた後の満足げな顔で、俺の袖を軽く噛んだ。