異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
◇◇◇
沢で春の魚を焼いてから、半月ほど過ぎた。
山裾の朝はまだ少し冷える。けれど、家の前の草は濃くなり、畑の土も、手を当てた瞬間に顔をしかめるほどではなくなっていた。
村の方では、田植え前の支度が始まっている。
田吾作爺に任せている田にも水が入り、朝の風に泥と若い草の匂いが混じる。俺は田を作る役ではない。ないが、田植え直前の空気くらいは、別宅にも伝わってくる。
「若様、今日は畑を見てから山の縁へ参りましょう」
朝飯の粥を片づけたお妙婆が、籠を手に言った。
「山か...」
「甘いものがつきます」
「先に言うべきだな、それは」
くろすけは戸口で待っていた。
山へ行く気配を察したのか、尻尾がゆっくり揺れている。外へ出るとなると話は別らしい。
もこは小屋の入口で若草を噛んでいた。半月の間に、毛の艶も少し戻った気がする。畑へ向かう俺たちを見て、めえと鳴いた。
「お前は畑に入るなよ」
返事かどうかは分からないが、もこは草を噛み直した。
芋区画では、畝の表面を押し上げるように小さな芽がいくつか出ていた。まだ頼りない緑だ。
「出たな」
「出ましたな。けれど、これで放っておいてよいわけではございませぬ」
「芋は勝手に太るものだと思っていた」
「勝手に太るなら、百姓は皆、寝ております」
お妙婆は畝の肩を指で崩し、芽の周りへふわりと土を寄せた。
「もう少し伸びたら、根元へ土を寄せます。芋が日に当たらぬように。水がたまりすぎぬように。高畝にした意味も、そこにございます」
俺は頷いた。
豆区画へ回ると、こちらも芽が伸びていた。
二枚の葉が開き、細い茎が風に揺れている。
「支柱が要るな」
「はい。太助が竹を持ってくると言っておりました」
「また仕事が増えた」
「豆が倒れるよりは楽でございます」
くろすけが畝の端を歩き、豆の芽に鼻を近づけた。すぐにくしゃみをする。土の匂いでも入ったのだろう。
もこは小屋の入口からこちらを見ていたが、こちらへ来ようとして、お妙婆に止められた。
「もこ、畑はだめでございます」
めえ、と不満そうな声がした。
畑の芽は若草に見えるのかもしれない。もこ基準で畑を開放したら、米を助ける作物どころか、もこの腹を助ける作物になって数日で全滅だ。
「午前のうちに支柱をやるか」
俺が言うと、お妙婆は山の方を見た。
「その前に、桑の実を少し見てきてくだされ。山の縁のものが色づき始めたと、源爺が申しておりました」
「甘いものになる仕事でございます」
その一言で、俺の足は少し軽くなった。
労働は嫌いだが、甘いものになる労働には、多少の情状酌量がある。
籠を持ち、くろすけと山の縁へ向かった。
沢へ行く道とは少し違う。竹林を抜け、日当たりのよい斜面へ回ると、桑の木が枝を広げていた。葉の間に、小さな実がいくつも下がっている。
赤いもの、黒紫に近いもの、まだ固そうなもの。
熟した実は、近づいただけで甘酸っぱい匂いがした。
「食べる分と、煮る分だけだな」
くろすけは木の下に座った。
俺が手を伸ばすと、口で加えて枝を押さえてくれる。こういう時だけ妙に気が利く。
指で摘むと、桑の実は簡単につぶれた。
ぷち、と小さく皮が破れ、紫の汁が指先に染みる。甘い匂いが濃くなり、爪の横まで色が入った。
「これは、摘むだけで手が証拠品になるな」
くろすけは俺の指を嗅ぎ、少しだけ舌を出した。
「舐めるな。これは俺の指だ」
尻尾が一度揺れた。
実は一粒、手のひらに乗せてやった。くろすけは慎重に匂いを嗅ぎ、口に入れ、すぐに飲み込んだ。そして、俺を見た。
「甘いものは好きそうだな」
桑の実は採りすぎないよう、浅い籠の底が隠れる程度にした。山のものは、全部こちらのものではない。鳥も食べるし、明日以降の実もある。
帰ろうとした時、くろすけが少し奥へ鼻先を向けた。
葉の匂いとは違う、つんとした青い香りが風に乗る。
低い枝に、実山椒がついていた。
小さな緑の粒に触れると、きりっとした香りが立った。
「これも少しだな」
摘んだ一粒を潰すと、指先に強い香りが移った。舌先へごく少し当てると、ぴり、としびれる。
「おお」
思わず声が出た。
辛いというより、舌が目を覚ます感じだ。くろすけは匂いを嗅ぎ、すぐに顔をそらした。
「分かる。これはくろすけには強いよな」
使い方を間違えると、たぶん全部山椒味になる。小さな紙包みに分け、籠の端へ入れた。
家へ戻る頃には、俺の指先は紫と山椒の匂いで忙しくなっていた。
お妙婆は籠を覗き、満足そうに頷いた。
「よい色でございます」
「指もよい色になった」
お妙婆は笑いながら、水桶を出した。
洗浄魔法で手と籠を軽く洗い、桑の実は潰れすぎないように選る。傷んだもの、小枝、葉を取り除く。紫の汁が木皿に広がり、台所の匂いが一気に甘くなった。
小鍋に桑の実を入れ、少しの水を足す。
「これは甘味を足す必要があるな」
「若様、甘みを足すのであれば、水あめを使うことになります」
「あるのか」
「少しだけ。米や麦を使って作った大事なものでございます。喉を痛めた時などに薬に使います。桑の実に入れるには、少々もったいのうございます」
お妙婆は奥の棚を見た。
甘いものは、やはり貴重品だ。
「全部使えとは言わない。小壺ひとつ分だけだ」
「小壺ひとつでも、水あめは水あめでございます」
「分かってる。だから試しだ。桑の実をそのまま置いたらすぐ傷む。少し甘みを足して煮ておけば、山の実を明日以降にも回せる。うまくいけば、来年もやるかどうか判断できる」
「若様は、甘いものが食べたいだけではございませぬか」
「それもある」
「正直でございますな」
「うまいものは続ける理由になる。面倒な保存食作りも、食べてうまければ次も手が動く」
お妙婆は、少しだけ黙った。
棚の奥から小さな壺を取り出した。蓋を開けると、麦の香ばしさを含んだ甘い匂いがふわりと出た。
「少しだけでございます」
「少しだけだ」
俺は木匙で麦芽水あめをほんの少しすくった。糸を引く琥珀色が鍋へ落ちる。お妙婆が木べらで桑の実を潰し、俺が鍋底を焦がさないよう火を見た。
火は弱く。
俺は火起こし魔法で炭を整え、加熱魔法で鍋底の熱を少しだけ助けた。強くすると焦げる。
桑の実が煮崩れると、鍋の中が赤紫に染まった。
ふつふつと小さな泡が立ち、甘酸っぱい香りが台所に広がる。山で嗅いだ青さが火にかかって丸くなり、麦芽水あめの穏やかな甘い匂いが重なる。
「これは危険だな」
「味見は少しでございます」
お妙婆は木べらの先についたものを冷まし、俺に差し出した。
俺は舐めた。
まず酸味がきた。次に、麦芽水あめの丸い甘み。粒の皮が少し残り、舌の上でぷつりとほどける。山の実を、ぎゅっと鍋に閉じ込めて、酸っぱさを麦の甘みで角を取った味だった。
「うまいな」
言うと、お妙婆も別の匙でほんの少し取り、冷まして舐めた。
目元が、少しだけ緩む。
「おいしゅうございますな」
「だろう」
「水あめを使った甲斐は、少しございました」
「少しどころではない」
「調子に乗ると、次は使いませぬ」
「壺へ移します」
清潔に洗った小さな壺を出し、洗浄魔法でさらに清め、弱い乾燥魔法で水気を飛ばす。お妙婆が煮詰めた桑の実を移すと、壺の口から湯気と一緒に紫の香りが上がった。
実山椒は別に洗い、水気を取る。
「これは、塩か醤油で少し扱えますな。魚にも、味噌にも合いましょう」
「扱いを間違えると、舌が全部持っていかれる」
「ですから少しでございます」
少し採る。少し干す。少し試す。
この家の台所は、だいたいその言葉で回っている。
昼前、お妙婆が椀に冷たい水を入れ、桑の実ジャムを匙でひとすくい落とした。
紫が水の中でゆっくりほどける。木匙で混ぜると、薄い紅色の果物水になった。
一口飲む。
喉を通る水は冷たい。桑の実の酸味がすっと走り、後から甘みが残る。山の匂いが水に溶ける。
「これは、まずいな」
「まずいのでございますか」
「うまくて、すぐなくなる」
お妙婆は小さく笑った。
くろすけにも、ほんの少し薄めた果物水を皿に出した。魚ほどの勢いはないが、嫌いではないらしい。
もこには水桶をきれいにして、若草を足した。桑の実の匂いに鼻を寄せたが、結局は草を噛む。
「もこは平常運転だな」
めえ、と返った。
◇
午後には太助が細い竹を抱えて来た。
「若様、豆の支柱、これで足りますか」
「足りる。多分」
「多分でございますか」
「多分を確認するために立てる」
太助は笑い、畑の端へ竹を置いた。
くろすけがその一本を咥えた。しかも、離さない。
「それはお前の枝ではない」
くろすけは竹を咥えたまま、畝のそばへ運んだ。
置く場所は、微妙に合っている。
「……手伝っている顔をするな」
尻尾が揺れた。
合っているなら文句は言いにくい。
豆の芽を踏まないよう、畝の脇に細い竹を差す。少し斜めに入れ、根元を押さえる。
「簡単な顔をして、面倒だな」
「畑はだいたいそうでございます」
お妙婆が豆の茎をそっと支柱へ寄せ、柔らかい紐でゆるく結んだ。きつく縛ると茎が太る時に傷むらしい。
俺は畝の端に、虫除けの生活魔法をほんの弱くかけた。
虫が嫌う草の匂いを薄く散らす程度だ。畑全体を魔法で包むほど強くはしない。効きすぎて、花粉を運ぶ蜂などの必要なものまで遠ざけたら困る。
「これくらいなら、ただの匂いだな」
「強くしませぬように」
「分かってる。全部を魔法で解決しようとすると、だいたい別の面倒が来る」
畑で力技はしたくない。
支柱を立て終えたら、芋区画の芽の周りへ土を寄せる。
お妙婆の手本を真似て、畝の肩から土を少しずつ寄せた。芽を埋めすぎず、根元を守る程度。簡単そうで、手の加減がいる。
もこがまた畑へ入りたそうに足を踏み出した。
くろすけがすっと間へ入る。
もこは一度立ち止まり、くろすけの黒い背と、畑の緑と、自分の若草を見比べた。そして若草へ戻った。
「助かった」
くろすけは支柱の横に伏せた。
咥えていた竹の跡が口元に残っている気がする。
夕方、畑には豆支柱が細く並び、芋の芽は土に支えられて少し落ち着いて見えた。支柱に結ばれた豆の葉が、風で小さく揺れる。
台所の棚には、桑の実ジャムの小さな壺。
脇には、実山椒を包んだ紙。
明日の水が少し甘くなり、次の魚に香りを足せる。
豆が倒れず、芋が日に焼けずに済む。
「本気で畑をやっているわけじゃない」
俺が言うと、お妙婆がすぐに返した。
「では、何でございますか」
「後で困らないための横着だ」
「よい横着でございます」
くろすけが袖を軽く咥え、村の方を見た。遠くの田では、人が動き始めている。田植えの支度だろう。
お妙婆も同じ方を見た。
「明日は、田吾作爺のところへ差し入れを持って参りましょうか」
「田植えか」
「冷たい泥に入る日でございます」
俺は畑の豆支柱と、台所の桑の実の壺を見比べた。
米はやっぱり大事だ。
だからこそ、横に少しだけ逃げ道を作る。
「握り飯、少し多めにしよう」
くろすけの尻尾が、分かりやすく揺れた。