異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第11話 桑の実ジャムと豆支柱

◇◇◇

 

沢で春の魚を焼いてから、半月ほど過ぎた。

 

山裾の朝はまだ少し冷える。けれど、家の前の草は濃くなり、畑の土も、手を当てた瞬間に顔をしかめるほどではなくなっていた。

 

村の方では、田植え前の支度が始まっている。

田吾作爺に任せている田にも水が入り、朝の風に泥と若い草の匂いが混じる。俺は田を作る役ではない。ないが、田植え直前の空気くらいは、別宅にも伝わってくる。

 

「若様、今日は畑を見てから山の縁へ参りましょう」

 

朝飯の粥を片づけたお妙婆が、籠を手に言った。

 

「山か...」

 

「甘いものがつきます」

 

「先に言うべきだな、それは」

 

くろすけは戸口で待っていた。

山へ行く気配を察したのか、尻尾がゆっくり揺れている。外へ出るとなると話は別らしい。

 

もこは小屋の入口で若草を噛んでいた。半月の間に、毛の艶も少し戻った気がする。畑へ向かう俺たちを見て、めえと鳴いた。

 

「お前は畑に入るなよ」

 

返事かどうかは分からないが、もこは草を噛み直した。

 

芋区画では、畝の表面を押し上げるように小さな芽がいくつか出ていた。まだ頼りない緑だ。

 

「出たな」

 

「出ましたな。けれど、これで放っておいてよいわけではございませぬ」

 

「芋は勝手に太るものだと思っていた」

 

「勝手に太るなら、百姓は皆、寝ております」

 

お妙婆は畝の肩を指で崩し、芽の周りへふわりと土を寄せた。

 

「もう少し伸びたら、根元へ土を寄せます。芋が日に当たらぬように。水がたまりすぎぬように。高畝にした意味も、そこにございます」

 

俺は頷いた。

 

豆区画へ回ると、こちらも芽が伸びていた。

二枚の葉が開き、細い茎が風に揺れている。

 

「支柱が要るな」

 

「はい。太助が竹を持ってくると言っておりました」

 

「また仕事が増えた」

 

「豆が倒れるよりは楽でございます」

 

くろすけが畝の端を歩き、豆の芽に鼻を近づけた。すぐにくしゃみをする。土の匂いでも入ったのだろう。

もこは小屋の入口からこちらを見ていたが、こちらへ来ようとして、お妙婆に止められた。

 

「もこ、畑はだめでございます」

 

めえ、と不満そうな声がした。

畑の芽は若草に見えるのかもしれない。もこ基準で畑を開放したら、米を助ける作物どころか、もこの腹を助ける作物になって数日で全滅だ。

 

「午前のうちに支柱をやるか」

 

俺が言うと、お妙婆は山の方を見た。

 

「その前に、桑の実を少し見てきてくだされ。山の縁のものが色づき始めたと、源爺が申しておりました」

「甘いものになる仕事でございます」

 

その一言で、俺の足は少し軽くなった。

労働は嫌いだが、甘いものになる労働には、多少の情状酌量がある。

 

籠を持ち、くろすけと山の縁へ向かった。

沢へ行く道とは少し違う。竹林を抜け、日当たりのよい斜面へ回ると、桑の木が枝を広げていた。葉の間に、小さな実がいくつも下がっている。

 

赤いもの、黒紫に近いもの、まだ固そうなもの。

熟した実は、近づいただけで甘酸っぱい匂いがした。

 

「食べる分と、煮る分だけだな」

 

くろすけは木の下に座った。

俺が手を伸ばすと、口で加えて枝を押さえてくれる。こういう時だけ妙に気が利く。

 

指で摘むと、桑の実は簡単につぶれた。

ぷち、と小さく皮が破れ、紫の汁が指先に染みる。甘い匂いが濃くなり、爪の横まで色が入った。

 

「これは、摘むだけで手が証拠品になるな」

 

くろすけは俺の指を嗅ぎ、少しだけ舌を出した。

 

「舐めるな。これは俺の指だ」

 

尻尾が一度揺れた。

実は一粒、手のひらに乗せてやった。くろすけは慎重に匂いを嗅ぎ、口に入れ、すぐに飲み込んだ。そして、俺を見た。

 

「甘いものは好きそうだな」

 

桑の実は採りすぎないよう、浅い籠の底が隠れる程度にした。山のものは、全部こちらのものではない。鳥も食べるし、明日以降の実もある。

 

帰ろうとした時、くろすけが少し奥へ鼻先を向けた。

葉の匂いとは違う、つんとした青い香りが風に乗る。

 

低い枝に、実山椒がついていた。

小さな緑の粒に触れると、きりっとした香りが立った。

 

「これも少しだな」

 

摘んだ一粒を潰すと、指先に強い香りが移った。舌先へごく少し当てると、ぴり、としびれる。

 

「おお」

 

思わず声が出た。

辛いというより、舌が目を覚ます感じだ。くろすけは匂いを嗅ぎ、すぐに顔をそらした。

 

「分かる。これはくろすけには強いよな」

 

使い方を間違えると、たぶん全部山椒味になる。小さな紙包みに分け、籠の端へ入れた。

 

家へ戻る頃には、俺の指先は紫と山椒の匂いで忙しくなっていた。

 

お妙婆は籠を覗き、満足そうに頷いた。

 

「よい色でございます」

 

「指もよい色になった」

 

お妙婆は笑いながら、水桶を出した。

洗浄魔法で手と籠を軽く洗い、桑の実は潰れすぎないように選る。傷んだもの、小枝、葉を取り除く。紫の汁が木皿に広がり、台所の匂いが一気に甘くなった。

 

小鍋に桑の実を入れ、少しの水を足す。

 

「これは甘味を足す必要があるな」

 

「若様、甘みを足すのであれば、水あめを使うことになります」

 

「あるのか」

 

「少しだけ。米や麦を使って作った大事なものでございます。喉を痛めた時などに薬に使います。桑の実に入れるには、少々もったいのうございます」

 

お妙婆は奥の棚を見た。

甘いものは、やはり貴重品だ。

 

「全部使えとは言わない。小壺ひとつ分だけだ」

 

「小壺ひとつでも、水あめは水あめでございます」

 

「分かってる。だから試しだ。桑の実をそのまま置いたらすぐ傷む。少し甘みを足して煮ておけば、山の実を明日以降にも回せる。うまくいけば、来年もやるかどうか判断できる」

 

「若様は、甘いものが食べたいだけではございませぬか」

 

「それもある」

 

「正直でございますな」

 

「うまいものは続ける理由になる。面倒な保存食作りも、食べてうまければ次も手が動く」

 

お妙婆は、少しだけ黙った。

棚の奥から小さな壺を取り出した。蓋を開けると、麦の香ばしさを含んだ甘い匂いがふわりと出た。

 

「少しだけでございます」

 

「少しだけだ」

 

俺は木匙で麦芽水あめをほんの少しすくった。糸を引く琥珀色が鍋へ落ちる。お妙婆が木べらで桑の実を潰し、俺が鍋底を焦がさないよう火を見た。

 

火は弱く。

俺は火起こし魔法で炭を整え、加熱魔法で鍋底の熱を少しだけ助けた。強くすると焦げる。

 

桑の実が煮崩れると、鍋の中が赤紫に染まった。

ふつふつと小さな泡が立ち、甘酸っぱい香りが台所に広がる。山で嗅いだ青さが火にかかって丸くなり、麦芽水あめの穏やかな甘い匂いが重なる。

 

「これは危険だな」

 

「味見は少しでございます」

 

お妙婆は木べらの先についたものを冷まし、俺に差し出した。

俺は舐めた。

まず酸味がきた。次に、麦芽水あめの丸い甘み。粒の皮が少し残り、舌の上でぷつりとほどける。山の実を、ぎゅっと鍋に閉じ込めて、酸っぱさを麦の甘みで角を取った味だった。

 

「うまいな」

 

言うと、お妙婆も別の匙でほんの少し取り、冷まして舐めた。

目元が、少しだけ緩む。

 

「おいしゅうございますな」

 

「だろう」

 

「水あめを使った甲斐は、少しございました」

 

「少しどころではない」

 

「調子に乗ると、次は使いませぬ」

「壺へ移します」

 

清潔に洗った小さな壺を出し、洗浄魔法でさらに清め、弱い乾燥魔法で水気を飛ばす。お妙婆が煮詰めた桑の実を移すと、壺の口から湯気と一緒に紫の香りが上がった。

 

実山椒は別に洗い、水気を取る。

 

「これは、塩か醤油で少し扱えますな。魚にも、味噌にも合いましょう」

 

「扱いを間違えると、舌が全部持っていかれる」

 

「ですから少しでございます」

 

少し採る。少し干す。少し試す。

この家の台所は、だいたいその言葉で回っている。

 

昼前、お妙婆が椀に冷たい水を入れ、桑の実ジャムを匙でひとすくい落とした。

紫が水の中でゆっくりほどける。木匙で混ぜると、薄い紅色の果物水になった。

 

一口飲む。

 

喉を通る水は冷たい。桑の実の酸味がすっと走り、後から甘みが残る。山の匂いが水に溶ける。

 

「これは、まずいな」

 

「まずいのでございますか」

 

「うまくて、すぐなくなる」

 

お妙婆は小さく笑った。

くろすけにも、ほんの少し薄めた果物水を皿に出した。魚ほどの勢いはないが、嫌いではないらしい。

 

もこには水桶をきれいにして、若草を足した。桑の実の匂いに鼻を寄せたが、結局は草を噛む。

 

「もこは平常運転だな」

 

めえ、と返った。

 

 

午後には太助が細い竹を抱えて来た。

 

「若様、豆の支柱、これで足りますか」

 

「足りる。多分」

 

「多分でございますか」

 

「多分を確認するために立てる」

 

太助は笑い、畑の端へ竹を置いた。

くろすけがその一本を咥えた。しかも、離さない。

 

「それはお前の枝ではない」

 

くろすけは竹を咥えたまま、畝のそばへ運んだ。

置く場所は、微妙に合っている。

 

「……手伝っている顔をするな」

 

尻尾が揺れた。

合っているなら文句は言いにくい。

 

豆の芽を踏まないよう、畝の脇に細い竹を差す。少し斜めに入れ、根元を押さえる。

 

「簡単な顔をして、面倒だな」

 

「畑はだいたいそうでございます」

 

お妙婆が豆の茎をそっと支柱へ寄せ、柔らかい紐でゆるく結んだ。きつく縛ると茎が太る時に傷むらしい。

 

俺は畝の端に、虫除けの生活魔法をほんの弱くかけた。

虫が嫌う草の匂いを薄く散らす程度だ。畑全体を魔法で包むほど強くはしない。効きすぎて、花粉を運ぶ蜂などの必要なものまで遠ざけたら困る。

 

「これくらいなら、ただの匂いだな」

 

「強くしませぬように」

 

「分かってる。全部を魔法で解決しようとすると、だいたい別の面倒が来る」

 

畑で力技はしたくない。

 

支柱を立て終えたら、芋区画の芽の周りへ土を寄せる。

お妙婆の手本を真似て、畝の肩から土を少しずつ寄せた。芽を埋めすぎず、根元を守る程度。簡単そうで、手の加減がいる。

 

もこがまた畑へ入りたそうに足を踏み出した。

くろすけがすっと間へ入る。

もこは一度立ち止まり、くろすけの黒い背と、畑の緑と、自分の若草を見比べた。そして若草へ戻った。

 

「助かった」

 

くろすけは支柱の横に伏せた。

咥えていた竹の跡が口元に残っている気がする。

 

夕方、畑には豆支柱が細く並び、芋の芽は土に支えられて少し落ち着いて見えた。支柱に結ばれた豆の葉が、風で小さく揺れる。

 

台所の棚には、桑の実ジャムの小さな壺。

脇には、実山椒を包んだ紙。

明日の水が少し甘くなり、次の魚に香りを足せる。

豆が倒れず、芋が日に焼けずに済む。

 

「本気で畑をやっているわけじゃない」

 

俺が言うと、お妙婆がすぐに返した。

 

「では、何でございますか」

 

「後で困らないための横着だ」

 

「よい横着でございます」

 

くろすけが袖を軽く咥え、村の方を見た。遠くの田では、人が動き始めている。田植えの支度だろう。

 

お妙婆も同じ方を見た。

 

「明日は、田吾作爺のところへ差し入れを持って参りましょうか」

 

「田植えか」

 

「冷たい泥に入る日でございます」

 

俺は畑の豆支柱と、台所の桑の実の壺を見比べた。

米はやっぱり大事だ。

だからこそ、横に少しだけ逃げ道を作る。

 

「握り飯、少し多めにしよう」

 

くろすけの尻尾が、分かりやすく揺れた。

 

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