異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第12話 田植えの日の握り飯

田植えの日の朝は、台所が白米の匂いで少しだけ贅沢だった。

春の終わりに近いというのに、山裾の空気はまだ薄く冷たい。

戸を開けると草露が光り、村の方からは泥を踏む音と人を呼ぶ声が途切れ途切れに聞こえてくる。田植えが始まった。

米作りは昔から田吾作爺に任せている。俺が思いつきで田へ入って、苗の間隔だの水の加減だのを口に出したら崩壊するだろう。

生兵法は大怪我のもとだ。

 

「若様、ぼんやりしているなら手を濡らしてください」

 

お妙婆の声で、俺は台所へ戻った。

土間には炊き上がった飯の湯気がこもっていた。大きな木鉢に移した米が、白くつやつやしている。お妙婆は手水を用意し、塩を指先につけて、次々と握り飯を作っていた。

 

「今日は多いな」

 

「田植えの日でございます。冷たい泥に入る者へ、少ない飯を持っていってどうします」

 

「俺の昼飯が消える気配がする」

 

「若様も田へ行けば食べられます」

 

差し入れに行けという意味だ。

くろすけは戸口に座り、握り飯の匂いを真剣に嗅いでいた。米の湯気と、これから焼く味噌の気配は、神狼にも効くらしい。

もこは小屋の入口で若草を噛んでいた。こちらの包みを見て一歩だけ近づき、すぐに草へ戻った。

お妙婆は保存食置き場から、前年に干しておいた朴葉を出してきた。

大きな葉は乾いて茶色く、端が少し丸まっている。布で軽く拭いていると、山の木陰みたいな甘い香りがふっと立った。

 

「焼くのか」

 

「味噌を炒めます。白いおにぎりには、これがよう合います」

 

俺は火起こし魔法で炭へ火を入れ、加熱魔法で少しだけ熱を回した。

味噌に削り節をほんの少し混ぜ、朴葉の上にのせる。炭火の上で葉を温めると、味噌がゆっくりふつふつ鳴り始めた。

葉の端が丸まり、味噌の表面に小さな泡が立つ。焼けた味噌の塩気のある匂いに、朴葉の青く乾いた香りが混じった。そこへ白米の湯気が重なる。腹が、かなり正直な音を立てそうになる。

お妙婆は炒めた朴葉味噌を木べらで少しずつ取り、白いおにぎりの片面へ薄く塗った。米の白さに茶色い味噌がのるだけで、ただの握り飯が、田植えの日の贅沢になる。

 

「これは、差し入れの前に一つ消えても仕方ない匂いだな」

 

「仕方なくございませぬ」

 

この白米のにおいをかいでしまうと、米に集中する気持ちもわかる。

お妙婆は竹筒に温かい汁を詰めた。干し小魚の出汁に味噌を溶き、刻んだ若菜をほんの少し入れた汁だ。湯気に味噌と魚の匂いがあるだけで、冷えた手にはかなり効く。

 

「田の水、まだ冷たいだろうな」

 

「冷とうございます。ですが、この時期の田とはそういうものでもございます」

 

「騒ぐほどではないか」

 

「騒ぐ前に、まず飯でございます」

 

お妙婆は包みを結んだ。

俺は背負子に握り飯の包みと竹筒を載せ、くろすけと一緒に村の田へ向かった。

田の方へ下りる道は、いつもより人の声が多かった。

山裾の草の匂いに、田の泥の匂いが混じる。水を張った田は薄く空を映し、田の中では農家の人たちが横に並んで苗を手にしていた。

足を入れる音がする。ぬち、と泥が鳴る。水が脛に当たり、冷たさに肩をすくめる人もいた。それでも手は止まらない。苗を取って、泥へ差す。少し進んで、また差す。

俺が不用意に田へ入ったら、一列分くらい苗の間隔をおかしくして、田吾作爺に余計な仕事を作る自信がある。

 

「若様」

 

畦の向こうから、田吾作爺が顔を上げた。

腰は曲がっているが、声はしっかりしている。腕も足も泥だらけで、着物の裾は水を吸って重そうだった。

 

「田吾作爺、差し入れを持ってきた」

 

「ありがてえことでございます。今、ひと区切りつけますで」

 

田の中の若い手伝い人が、くろすけを見て足を止めた。

 

「うわ……」

 

腰が少し引ける。くろすけは畦に座っただけだ。何もしていない。何もしていないのに、黒い毛並みと大きな体が田の水面に映ると、たしかに初見では落ち着かない。

田吾作爺は笑った。

 

「くろすけ様は、飯時に近いだけでございます。田の苗は食わねえ」

 

「魚や肉は食うけどな」

 

俺が言うと、田吾作爺はさらに笑った。

くろすけは耳を少しだけ動かした。魚と肉という言葉だけ拾っている顔だ。今日の主役は握り飯である。

田吾作爺が畦へ上がり、手を桶で洗った。

 

「水は冷たいか」

 

「冷たいですな。朝はなおさらでございます」

 

爺は泥のついた足を田の水でざぶりと洗い、すぐに畦へ腰を下ろした。

 

「ただ、田植えはします。苗は待ってくれませぬ。水が冷たけりゃ、手を早くして、休む時に温めるだけでございます」

 

俺は竹筒を開け、湯気の立つ汁を椀へ注いだ。

 

「手を温めてくれ。熱すぎないようにはしてある」

 

「これは助かります」

 

田吾作爺は椀を両手で包んだ。泥で冷えた指が、湯気の中で少しずつ赤みを戻していく。

お妙婆も畦へ着き、握り飯の包みを開いた。

朴葉味噌を塗った白いおにぎりが、竹の皮の上に並ぶ。味噌は薄く焦げ、ところどころ照りを残していた。朴葉の香りが竹の皮にも移り、田の泥の匂いの中で妙に腹を引っぱる。

 

「皆様、ひと息お入れくだされ」

 

その声に、田の中の人たちが順に畦へ上がってきた。

泥のついた足を洗い、手を洗い、腰を伸ばす。誰かが小さくうめいた。見ているだけの俺の腰まで痛い。

 

「若様の握り飯でございますか」

 

「握ったのはお妙婆だ。俺は焦がさない係だ」

 

「そいつは大役で」

 

太助が笑いながら手を出した。豆支柱の竹を持ってきた時より、今日は顔に泥が飛んでいる。

 

「支柱は立ちましたか」

 

「立った。豆より、くろすけの方が竹を持ちたがった」

 

「くろすけ様は働き者でございますな」

 

「本人はそのつもりらしい」

 

くろすけは畦の端で伏せていた。握り飯へ鼻先を向けるが、まだ近づかない。お妙婆の視線を分かっている。

俺は、冷ました小さな握り飯を一つ、味噌のついていないところで作ってやった。少しだけ干し小魚のほぐし身を混ぜる。

くろすけは待った。器を置くと、すぐ消えた。

 

「米もいけるのか」

 

尻尾が一度揺れた。

 

握り飯を一つ取った。

表面の朴葉味噌は少し乾き、指につくほどではない。かぶりつくと、まず味噌の香ばしさが来た。焦げる一歩手前のうまみと塩気が舌にのり、すぐ後から朴葉の乾いた香りが鼻へ抜ける。

白米は、噛むほど甘い。味噌の塩気を受け止め、朴葉の香りを抱え込む。米だけでもうまいのに、味噌を塗ると次の一口が勝手に来る。これは危ない。田植えの差し入れでなければ、俺が二つ三つ消している。

汁をすすると、干し小魚の出汁が薄く広がった。味噌は濃すぎない。若菜の青い香りが湯気に混じる。冷たい水に入っていた人たちは、椀を持つ手をしばらく離さなかった。

 

「ああ、温まる」

 

誰かが言った。

その一言で、朝から握った甲斐はだいたい回収された気がする。炙り係にも少しくらい達成感があっていい。

田吾作爺は握り飯を半分食べ、田の方を見た。

 

「米は、こうして食うとうまいもんでございますな」

 

「当たり前だな」

 

「けれど、米を作るのは手間でございます」

 

「見ているだけで分かる」

 

「見て分かる若様は、口を出しすぎねえからありがたい」

 

たぶん、褒め言葉と釘の両方だ。

俺は田を見た。水面の下に、植えたばかりの苗が細く揺れている。

米はやはり大事だ。握り飯一つで、冷えた手が動く。腰を伸ばした人が、もう一列行くかという顔になる。

 

太助が握り飯を食べながら、自宅畑の方を見た。

 

「若様の畑の豆や芋も、いつかこういう差し入れになるんですか」

 

「なるかもしれないし、ならないかもしれない」

 

「なんとも頼りない返事で」

 

「試している最中だからな。米の代わりではなく、米を助けるものだ。実ったら、食べ方も家で試す」

 

お妙婆が頷いた。

 

「食べ方を知らぬものは続きませぬ。雑穀も豆も、収穫してから飯にしてみましょう」

 

「豆ごはんと雑穀飯か」

 

田吾作爺が笑った。

 

「若様の横着は、腹に入る横着なら悪くねえですな」

 

「横着の評価基準が米井村らしくていい」

 

田の人たちは食べ終えると、また水へ入っていった。冷たい、と誰かが小さく言う。それでも足は泥の中へ沈み、手は苗を取る。田吾作爺も腰を上げた。

俺は畦に立ち、苗を植える以外で手伝えることを探した。

空いた椀を洗い、水を足し、竹筒の汁が冷えないよう弱い保温をかける。田から上がった人が手を洗う桶の水を替える。泥で滑りやすい畦の端へ、踏み板を一枚置く。

田植えの昼に、手を温める場所を一つ増やすだけだ。そのくらいなら、俺にもできる。

夕方近く、田の一面に細い苗が並んだ。

水面に映る空は少し曇っていたが、植えられた苗は風に負けず、頼りないなりに立っている。田吾作爺は畦に上がり、泥のついた手を合わせた。

 

「今年も根付きますように」

 

周りの人たちも、短く手を合わせる。俺も同じように頭を下げた。

不安がないわけではない。水は冷たかった。春の朝はまだ寒い。けれど、田植えは例年通り行われ、握り飯はうまかった。

それだけで、今日は十分だと思うことにした。帰り道、くろすけが俺の袖を軽く咥えた。

 

「今日はもう沢へは行かないぞ」

 

くろすけは村ではなく、俺の家の方を見ていた。残りの握り飯があると分かっている顔である。

 

「お前、田植えより飯の記憶が強いな」

 

尻尾が揺れた。

家へ戻ると、もこが小屋の入口で待っていた。若草を噛みながら、竹の皮に移った味噌の匂いを嗅ぐ。

お妙婆は残った握り飯を台所へ運び、俺を見た。

 

「明日は、もこの草地を少し見ましょうか」

 

「まだ田植えの余韻も冷めてないんだが」

 

「余韻で草は増えませぬ」

 

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