異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
田植えの翌朝、山裾の別宅の裏手は、草の匂いが濃かった。
昨日の田の泥と白米の匂いがまだ体に残っている気がするのに、家の仕事は待ってくれない。戸を開けると、物置横のもこ小屋から、めえ、と細い声がした。
もこは入口に立ち、干し草を噛みながらこちらを見ていた。保護した時より足取りがしっかりしている。毛も少しふくらみ、汚れを落とした分だけ白く見えた。
元気になった。
それはいい。
いいのだが、小屋の周りの柔らかい草が、かなり短くなっている。
「食ったな」
もこは口を動かしたまま、俺の袖を噛んだ。
反省はないらしい。そもそも草を食う生き物に、草を食うなと言う方がおかしい。
お妙婆が水桶を持って小屋の横へ来た。桶の水は半分ほど減っている。
「若様、昨日の夕方にも足しましたが、よく飲みますな」
「食べて飲んで寝て、ちゃんと生き物になってきた」
「最初から生き物でございます」
「弱りすぎて、毛のついた布団みたいだったからな」
もこは袖を噛む力を少し強めた。
言葉は通じていないはずだが、評価に不満がある時だけ反応が鋭い。綿角の不思議なところである。
小屋の周りだけで草をまかなうのは無理だ。干し草ばかり食わせるのも、今の季節にはもったいない。山裾には若草が出ている。
ただ、放して勝手に食え、とはいかない。
畑へ入れば雑穀や豆の芽を食われる。山へ近づけば何が出るか分からない。
「裏手に、草の多い場所があったな」
「沢道へ下りる手前でございますか」
「あそこなら畑から少し離れている。小屋からも遠すぎない」
お妙婆は桶を置き、腰に手を当てて裏手を見た。
「風は通ります。けれど、昼の日差しが少し強うございますな。日陰と水桶の場所を決めねばなりませぬ」
「柵もいる」
「低い柵では飛び越えませぬか」
もこを見た。
もこは袖を離し、一歩、ぴょんと跳ねた。体の丸さに反して、妙に軽い。草の上で足を踏み、得意そうに毛を揺らす。
「……いるな」
くろすけが台所の方から出てきた。朝飯前だというのに、話が草地へ向かっているのを察したらしい。黒い鼻先で地面を嗅ぎ、山の方を見て、それから俺の袖を軽く咥えた。
今日はもこも俺の袖を狙っている。
袖の所有権をめぐる静かな争いが始まりそうだ。
「分かった。先に草地を見る」
朝飯前に作業の下見をするのは、勤勉というより、飯をうまくするための前座である。
俺は小刀、短い杭、麻縄を持った。お妙婆は竹ざると布を持ち、もこの足を確かめてから小屋を出した。
もこは外へ出るなり、草の匂いを嗅いで足を速めた。くろすけが横に並び、もこが畑の方へ曲がろうとすると、黒い体をすっと間に入れる。
もこは毛をふくらませた。
くろすけは動じない。鼻先で裏手を示す。
裏手の草地は、物置の陰を抜けた先にあった。
沢へ続く道から少し外れた場所で、膝より低い若草が柔らかく伸びている。朝露が葉の先に残り、歩くと草が足首に触れて冷たい。
もこはそこで止まり、まず鼻を草へ埋めた。
はむ、と音がした。
それから、もぐもぐと口が動く。毛の丸い体が、食べるたびに小さく揺れた。角の付け根に朝日が当たり、まだ乾ききらない毛がふわりと光る。
「分かりやすく喜ぶな」
もこは草を噛んだまま、めえと鳴いた。
喜んでいるのか、もっと食わせろなのかは分からない。だが、仮小屋の周りだけでは足りなかったのは確かだ。
お妙婆は草を指で分け、湿った土を確かめた。
「ここはよさそうでございます。ただ、足元がぬかるむ日は、毛に泥がつきましょう」
「洗えばいいが、毎回だと手間が増えるな...」
昨日の田の冷たい泥を思い出す。足を入れていたのは農家の人たちで、俺は畦にいただけだ。それでも泥は重そうだった。
もこの足元を毎日泥だらけにするのは、家の仕事を増やすだけである。
俺は草地の端にしゃがみ、湿りが強いところへ小石と細い枝を置いた。境目の目印だ。
「このあたりは避ける。水桶は物置側。日陰はあの木の下。小屋からここまでの道に、草を少し残しておけば歩きやすい」
「柵は、山側を厚くいたしましょう」
お妙婆が言うと、くろすけが山側へ歩いた。
黒い体が草を分ける。背の毛に朝日が当たるが、足元の影だけ妙に濃い。山の藪の奥で、何か小さな音がした。鳥か、獣か、俺には分からない。
くろすけは吠えない。
ただ、藪の方へ顔を向け、影を伸ばすようにその場で立った。
空気が少しだけ冷えた気がした。草の上に残った朝露が、黒い影の中で光を失う。
藪の音は遠ざかった。
「見張り代、高そうだな」
くろすけは振り返り、台所の方を見た。
朝飯で払え、という顔である。分かりやすい神狼だ。
柵は大げさなものにはしなかった。
家の裏手の小さな草地を区切るだけだ。短い杭を打ち、麻縄を通し、山側だけ古い板を混ぜて少し高くする。沢道側は人が通れるよう、縄を外せる結びにした。
もこが柵の外へ鼻を出すたびに、くろすけが静かに前足を置いた。
もこは一度、柵を試すように首を伸ばした。麻縄が毛に触れると、ぴくりと耳を動かし、すぐ草へ戻る。
「いい子だ」
そう言うと、もこは俺の袖を噛んだ。
俺は生活魔法で、もこの足元に薄く洗浄をかけた。毛の表面の泥と草の汁だけを取る。
次に、嫌な虫が寄りやすそうな湿った草むらへ、虫よけの魔法をかける。
魔法で虫を全滅させるわけではない。
「若様、それは」
「虫除けの試し。畑と一緒だ」
「ほどほどでございますな」
「ほどほどが一番長持ちする」
だから今日も、柵は小さく、魔法も薄く、仕事は昼飯までに終わる量にする。
終わらなかった。
山側の板を直していると、村の女衆が二人、沢道から顔を出した。昨日の田植えで握り飯を食べていた人たちだ。手には洗濯物の入った籠がある。
「若様、綿角を草地へ出したんでございますか」
「仮小屋の周りが丸坊主になりそうでな」
「まあ、毛が戻ってきましたな」
一人が少し離れたところから、もこの背を見た。近づきすぎない。もこは草を噛みながら、耳だけそちらへ向ける。
お妙婆が柵の内側に立ち、笑った。
「まだ触るのは待ってくだされ。ようやく元気が出てきたところでございます」
「触りませぬ。けれど、あの毛なら冬の足袋の中へ入れたら温かそうで」
「靴下にもなりそうだな」
俺がつぶやくと、女衆の目が少し光った。
しまった。
口に出すと仕事になる。これは世の理である。
「若様、靴下とは」
「足に履く布だ。冬に足先が冷えるだろう。毛を糸にして、厚めに編めば温かいかもしれない」
「それはよろしゅうございますな」
「まだ『かもしれない』の段階だ。毛刈りも、洗いも、紡ぎも、もこが嫌がらないかも分からない」
お妙婆がすぐに頷いた。
「まずは世話でございます。毛は後で、少しずつですな」
女衆も納得したように笑った。
「では、冬までに少しだけ楽しみにしておきます」
「少しだけで頼む。大きく楽しみにされると、俺の仕事が増える」
「若様は本当に、仕事が増える話には鼻が利きますな」
それは褒め言葉ではない気がする。
女衆は沢へ向かった。洗濯籠の布が揺れ、草の上に水の匂いが残る。
俺は柵の杭をもう一本打った。
もこはその音に驚き、毛をふくらませた。くろすけが横に伏せると、少ししてまた草を噛み始める。
黒い見張りがいるだけで、草地の空気が落ち着く。もこにとっても、俺たちにとってもだ。
昼を過ぎるころ、ようやく形になった。
小さな草地に、低すぎない柵。山側には古い板。木陰の下に水桶。湿った場所には枝の目印。小屋へ戻る道には、踏まれてもよい草を少し残した。
俺は腰を伸ばした。
「午後が消えた」
「まだ昼過ぎでございます」
「体感では夕方だ、腹が減った」
もこが柵の内側から俺の袖を噛んだ。柵越しなので、かなり無理な姿勢である。
袖を噛まれたまま、俺は山側を見た。古い板の隙間が一か所、広い。子どもの獣なら通るかもしれない。俺が黙っていると、くろすけがその隙間へ鼻先を向けた。
見逃してくれない。
「分かった。あと一枚だけ直す」
お妙婆が布で手を拭きながら笑った。
「くろすけ様の見張りは、仕事の残りにも効きますな」
「ありがたいが、上司にはしたくない」
くろすけは尻尾を一度だけ振った。
夕飯は、残っていた握り飯を温め直し、山菜汁に入れた。
台所には味噌と干し小魚の出汁の匂いが立つ。刻んだ干し山菜を少し戻し、若菜を足しただけの汁だが、外で杭を打った後にはやけにうまそうに見えた。
椀を持つと、湯気が指先を温める。味噌の塩気の奥に、山菜の青い苦みがある。
握り飯は少し固くなっていたが、汁に浸すと米がほぐれ、昨日の朴葉の香りがかすかに戻った。
「ああ、うまい」
「働いた後でございますからな」
「働くと飯がうまいのは認める。だからといって、飯をうまくするために無限に働く気はない」
「誰も無限には頼みませぬ」
「今日、柵一枚追加された」
「必要でございました」
くろすけは冷ました汁かけ飯を食べ、満足そうに伏せた。もこは草地でたらふく食べた後、小屋の入口で干し草を噛んでいる。腹の丸みが少し増した気がする。
家の裏手に草地が一つ増えた。
「明日は乾燥棚の山菜も見ましょう」
お妙婆が椀を片づけながら言った。
俺は汁を飲み干し、聞こえなかったふりをした。
くろすけが鼻先で俺の膝を押した。
もこが小屋の入口で、めえと鳴いた。
どうやらこの家では、聞こえなかったふりの成功率が低い。