異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第13話 もこの草地とくろすけの見張り

田植えの翌朝、山裾の別宅の裏手は、草の匂いが濃かった。

昨日の田の泥と白米の匂いがまだ体に残っている気がするのに、家の仕事は待ってくれない。戸を開けると、物置横のもこ小屋から、めえ、と細い声がした。

もこは入口に立ち、干し草を噛みながらこちらを見ていた。保護した時より足取りがしっかりしている。毛も少しふくらみ、汚れを落とした分だけ白く見えた。

元気になった。

それはいい。

いいのだが、小屋の周りの柔らかい草が、かなり短くなっている。

 

「食ったな」

 

もこは口を動かしたまま、俺の袖を噛んだ。

反省はないらしい。そもそも草を食う生き物に、草を食うなと言う方がおかしい。

お妙婆が水桶を持って小屋の横へ来た。桶の水は半分ほど減っている。

 

「若様、昨日の夕方にも足しましたが、よく飲みますな」

 

「食べて飲んで寝て、ちゃんと生き物になってきた」

 

「最初から生き物でございます」

 

「弱りすぎて、毛のついた布団みたいだったからな」

 

もこは袖を噛む力を少し強めた。

言葉は通じていないはずだが、評価に不満がある時だけ反応が鋭い。綿角の不思議なところである。

小屋の周りだけで草をまかなうのは無理だ。干し草ばかり食わせるのも、今の季節にはもったいない。山裾には若草が出ている。

ただ、放して勝手に食え、とはいかない。

畑へ入れば雑穀や豆の芽を食われる。山へ近づけば何が出るか分からない。

 

「裏手に、草の多い場所があったな」

 

「沢道へ下りる手前でございますか」

 

「あそこなら畑から少し離れている。小屋からも遠すぎない」

 

お妙婆は桶を置き、腰に手を当てて裏手を見た。

 

「風は通ります。けれど、昼の日差しが少し強うございますな。日陰と水桶の場所を決めねばなりませぬ」

 

「柵もいる」

 

「低い柵では飛び越えませぬか」

 

もこを見た。

もこは袖を離し、一歩、ぴょんと跳ねた。体の丸さに反して、妙に軽い。草の上で足を踏み、得意そうに毛を揺らす。

 

「……いるな」

 

くろすけが台所の方から出てきた。朝飯前だというのに、話が草地へ向かっているのを察したらしい。黒い鼻先で地面を嗅ぎ、山の方を見て、それから俺の袖を軽く咥えた。

今日はもこも俺の袖を狙っている。

袖の所有権をめぐる静かな争いが始まりそうだ。

 

「分かった。先に草地を見る」

 

朝飯前に作業の下見をするのは、勤勉というより、飯をうまくするための前座である。

俺は小刀、短い杭、麻縄を持った。お妙婆は竹ざると布を持ち、もこの足を確かめてから小屋を出した。

もこは外へ出るなり、草の匂いを嗅いで足を速めた。くろすけが横に並び、もこが畑の方へ曲がろうとすると、黒い体をすっと間に入れる。

もこは毛をふくらませた。

くろすけは動じない。鼻先で裏手を示す。

 

裏手の草地は、物置の陰を抜けた先にあった。

沢へ続く道から少し外れた場所で、膝より低い若草が柔らかく伸びている。朝露が葉の先に残り、歩くと草が足首に触れて冷たい。

もこはそこで止まり、まず鼻を草へ埋めた。

はむ、と音がした。

それから、もぐもぐと口が動く。毛の丸い体が、食べるたびに小さく揺れた。角の付け根に朝日が当たり、まだ乾ききらない毛がふわりと光る。

 

「分かりやすく喜ぶな」

 

もこは草を噛んだまま、めえと鳴いた。

喜んでいるのか、もっと食わせろなのかは分からない。だが、仮小屋の周りだけでは足りなかったのは確かだ。

お妙婆は草を指で分け、湿った土を確かめた。

 

「ここはよさそうでございます。ただ、足元がぬかるむ日は、毛に泥がつきましょう」

 

「洗えばいいが、毎回だと手間が増えるな...」

 

昨日の田の冷たい泥を思い出す。足を入れていたのは農家の人たちで、俺は畦にいただけだ。それでも泥は重そうだった。

もこの足元を毎日泥だらけにするのは、家の仕事を増やすだけである。

俺は草地の端にしゃがみ、湿りが強いところへ小石と細い枝を置いた。境目の目印だ。

 

「このあたりは避ける。水桶は物置側。日陰はあの木の下。小屋からここまでの道に、草を少し残しておけば歩きやすい」

 

「柵は、山側を厚くいたしましょう」

 

お妙婆が言うと、くろすけが山側へ歩いた。

黒い体が草を分ける。背の毛に朝日が当たるが、足元の影だけ妙に濃い。山の藪の奥で、何か小さな音がした。鳥か、獣か、俺には分からない。

くろすけは吠えない。

ただ、藪の方へ顔を向け、影を伸ばすようにその場で立った。

空気が少しだけ冷えた気がした。草の上に残った朝露が、黒い影の中で光を失う。

藪の音は遠ざかった。

 

「見張り代、高そうだな」

 

くろすけは振り返り、台所の方を見た。

朝飯で払え、という顔である。分かりやすい神狼だ。

 

柵は大げさなものにはしなかった。

家の裏手の小さな草地を区切るだけだ。短い杭を打ち、麻縄を通し、山側だけ古い板を混ぜて少し高くする。沢道側は人が通れるよう、縄を外せる結びにした。

もこが柵の外へ鼻を出すたびに、くろすけが静かに前足を置いた。

もこは一度、柵を試すように首を伸ばした。麻縄が毛に触れると、ぴくりと耳を動かし、すぐ草へ戻る。

 

「いい子だ」

 

そう言うと、もこは俺の袖を噛んだ。

俺は生活魔法で、もこの足元に薄く洗浄をかけた。毛の表面の泥と草の汁だけを取る。

次に、嫌な虫が寄りやすそうな湿った草むらへ、虫よけの魔法をかける。

魔法で虫を全滅させるわけではない。

 

「若様、それは」

 

「虫除けの試し。畑と一緒だ」

 

「ほどほどでございますな」

 

「ほどほどが一番長持ちする」

 

だから今日も、柵は小さく、魔法も薄く、仕事は昼飯までに終わる量にする。

 

終わらなかった。

山側の板を直していると、村の女衆が二人、沢道から顔を出した。昨日の田植えで握り飯を食べていた人たちだ。手には洗濯物の入った籠がある。

 

「若様、綿角を草地へ出したんでございますか」

 

「仮小屋の周りが丸坊主になりそうでな」

 

「まあ、毛が戻ってきましたな」

 

一人が少し離れたところから、もこの背を見た。近づきすぎない。もこは草を噛みながら、耳だけそちらへ向ける。

お妙婆が柵の内側に立ち、笑った。

 

「まだ触るのは待ってくだされ。ようやく元気が出てきたところでございます」

 

「触りませぬ。けれど、あの毛なら冬の足袋の中へ入れたら温かそうで」

 

「靴下にもなりそうだな」

 

俺がつぶやくと、女衆の目が少し光った。

しまった。

口に出すと仕事になる。これは世の理である。

 

「若様、靴下とは」

 

「足に履く布だ。冬に足先が冷えるだろう。毛を糸にして、厚めに編めば温かいかもしれない」

 

「それはよろしゅうございますな」

 

「まだ『かもしれない』の段階だ。毛刈りも、洗いも、紡ぎも、もこが嫌がらないかも分からない」

 

お妙婆がすぐに頷いた。

 

「まずは世話でございます。毛は後で、少しずつですな」

 

女衆も納得したように笑った。

 

「では、冬までに少しだけ楽しみにしておきます」

 

「少しだけで頼む。大きく楽しみにされると、俺の仕事が増える」

 

「若様は本当に、仕事が増える話には鼻が利きますな」

 

それは褒め言葉ではない気がする。

女衆は沢へ向かった。洗濯籠の布が揺れ、草の上に水の匂いが残る。

俺は柵の杭をもう一本打った。

もこはその音に驚き、毛をふくらませた。くろすけが横に伏せると、少ししてまた草を噛み始める。

黒い見張りがいるだけで、草地の空気が落ち着く。もこにとっても、俺たちにとってもだ。

 

昼を過ぎるころ、ようやく形になった。

小さな草地に、低すぎない柵。山側には古い板。木陰の下に水桶。湿った場所には枝の目印。小屋へ戻る道には、踏まれてもよい草を少し残した。

俺は腰を伸ばした。

 

「午後が消えた」

 

「まだ昼過ぎでございます」

 

「体感では夕方だ、腹が減った」

 

もこが柵の内側から俺の袖を噛んだ。柵越しなので、かなり無理な姿勢である。

袖を噛まれたまま、俺は山側を見た。古い板の隙間が一か所、広い。子どもの獣なら通るかもしれない。俺が黙っていると、くろすけがその隙間へ鼻先を向けた。

見逃してくれない。

 

「分かった。あと一枚だけ直す」

 

お妙婆が布で手を拭きながら笑った。

 

「くろすけ様の見張りは、仕事の残りにも効きますな」

 

「ありがたいが、上司にはしたくない」

 

くろすけは尻尾を一度だけ振った。

 

夕飯は、残っていた握り飯を温め直し、山菜汁に入れた。

台所には味噌と干し小魚の出汁の匂いが立つ。刻んだ干し山菜を少し戻し、若菜を足しただけの汁だが、外で杭を打った後にはやけにうまそうに見えた。

椀を持つと、湯気が指先を温める。味噌の塩気の奥に、山菜の青い苦みがある。

握り飯は少し固くなっていたが、汁に浸すと米がほぐれ、昨日の朴葉の香りがかすかに戻った。

 

「ああ、うまい」

 

「働いた後でございますからな」

 

「働くと飯がうまいのは認める。だからといって、飯をうまくするために無限に働く気はない」

 

「誰も無限には頼みませぬ」

 

「今日、柵一枚追加された」

 

「必要でございました」

 

くろすけは冷ました汁かけ飯を食べ、満足そうに伏せた。もこは草地でたらふく食べた後、小屋の入口で干し草を噛んでいる。腹の丸みが少し増した気がする。

家の裏手に草地が一つ増えた。

 

「明日は乾燥棚の山菜も見ましょう」

 

お妙婆が椀を片づけながら言った。

俺は汁を飲み干し、聞こえなかったふりをした。

くろすけが鼻先で俺の膝を押した。

もこが小屋の入口で、めえと鳴いた。

どうやらこの家では、聞こえなかったふりの成功率が低い。

 

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