異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
◇◇◇◇
暦の上では夏に入った朝、沢へ続く道はもう草の勢いが違っていた。
山裾の別宅を出ると、葉の先に残った露が日差しを受けて光っている。春の終わりの頼りない緑ではなく、踏むと青い匂いが強く立つ緑だ。
「水桶を替える前に、沢を見ておきましょう」
「夏なんだから、水も少しはぬるくなっていてほしいな」
くろすけが先に歩き出した。
黒い背中が草を分け、時々振り返って俺の袖を見る。
魚の気配を思い出しているのか、ただ沢へ行きたいだけなのかは分からない。
どちらにしても、袖を噛まれる前に歩いた方が服の寿命には優しい。
沢へ着くと、光はすっかり夏だった。
水面に白い日差しが跳ね、岸の石には薄く苔がついている。虫の声も春より増えた。けれど、しゃがんで手を入れた瞬間、指先から腕まで冷たさが走った。
「冷たっ」
思わず手を引いた。
春の雪解けそのもの、というほどではない。だが、夏の朝に気持ちよく泳いだら数分で寒さで震えるぐらいか。
「若様、長く浸けてはなりませぬ」
「分かってる。これは田も少し厳しいかもしれないな」
口にしてから、俺は沢の上流を見た。
山から落ちてくる水は澄んでいる。澄みすぎていて、底の小石までよく見える。よく見える水はありがたいが、冷たさまで正直に届くのは困る。
くろすけが沢の浅いところへ鼻を近づけ、ふん、と小さく鼻を鳴らした。前足を水に入れかけ、すぐ石の上へ戻す。
「お前でも冷たいか」
耳だけが動いた。
その黒い鼻先の向こうで、水がきらりと揺れた。
小さな魚が、群れになって上っている。
春に掬った岩魚とは違う。細く、背が青く光り、流れに向かって身をひるがえすたび銀色がぱっと散った。
何匹、という数え方をする気が失せるほどいる。沢の狭い流れが、魚の影で生き物の帯みたいになっていた。
「若鮎でございますな」
お妙婆が目を細めた。
「群れでの遡上かな」
俺は急いで家に帰り小さな網と竹籠を出して戻ってきた。
くろすけは流れの脇へ回り、石の上に立つ。水には深く入らない。鼻先で魚の動きを追い、黒い影が浅瀬に落ちると、若鮎の群れが一瞬だけ向きを変えた。
「追い込み役、今日は足を濡らさない方針か」
くろすけは尻尾を一度だけ振った。
賢い。俺もできれば濡れたくない。
網を入れると、若鮎は驚くほど軽く跳ねた。水しぶきが手首にかかり、また冷たさに肩が上がる。
銀色の体が網の中でぴちぴち跳ね、青い匂いが立つ。
一匹、二匹。
数えながら籠へ移す。
十匹目を入れたところで、くろすけがまだ水面を見ていた。
「終わりだ」
黒い目がこちらへ向く。
「終わり。お前の胃袋基準で沢を空にすると、俺が庄屋に叱られる」
お妙婆が竹籠に布をかけた。
「十匹あれば昼には十分でございます」
くろすけは名残惜しそうに水面を嗅いだが、袖を噛まずに戻ってきた。
冷たい水より魚、魚より昼飯、という順番が頭の中でまとまったのかもしれない。
沢から戻る途中、田吾作爺が預かる田へ寄った。
田植えの日から少し経ち、苗は水面の上で細く立っている。
遠目には緑の線が増えたように見えるが、近づくと伸び方はまだ頼りない。
田吾作爺は畦にしゃがみ、稲の葉を指で挟んでいた。そばにいる農夫たちも、腰に手を当てて田を見ている。
「田吾作爺」
「若様。沢でございますか」
「水を見に行った。冷たいな」
田吾作爺は田の水へ手を入れた。
指をしばらく沈め、引き上げる。皺の深い手から水滴が落ちた。
「冷たいですな」
声は落ち着いている。けれど、田植えの日に握り飯を食べていた時の笑い声より、少し低い。
「苗はどうだ」
「まだ大丈夫でございます。根はついております。ただ、勢いは強くねえ」
隣の農夫が稲の列を見ながら言った。
「朝の水が冷たいですからな。昼に日が当たれば、少しは違いますが」
「水の口を変えるとか、何かするのか」
田吾作爺は首を横に振った。
「今は下手にいじらねえ方がよろしゅうございます。水を切らせばもっと悪い。温い水だけ選べりゃ楽ですが、田はそう都合よくできておりませぬ」
「だよな」
俺は田の水面を見た。植えられた苗は細いが、倒れてはいない。田吾作爺の言う「まだ大丈夫」は、気休めではなく、毎日見ている人間の判断だ。
なら、俺がここで騒ぐ場所ではない。
くろすけが畦をゆっくり歩いた。
鼻先を田の水へ近づけ、ふんふんと匂いを確かめる。冷たさを嫌がるように前足は入れない。田の向こうにいた若い農夫が少し背筋を伸ばしたが、田吾作爺は笑った。
「くろすけ様にも、水の冷たさは分かるようで」
「そこは間違いない」
「それは困りますな」
田吾作爺は稲から手を離した。
「若様、心配してくださるのはありがてえ。ですが、田は田で見ます。若様は家の畑と台所を見てくだされ」
「そうする。こっちに口を出しすぎると、俺の仕事が増える」
俺は竹籠の布を少しめくった。中で若鮎が跳ねる。
「昼に焼く。余った分はお妙婆が何かにするはずだ。いつもの礼に、少し持ってくる」
「そいつはありがてえことで」
田吾作爺の顔が、少しだけゆるんだ。
米の心配をしていても、魚の匂いは別腹らしい。米井村の人間は、だいたい飯で現実に戻ってくる。
家へ戻ると、お妙婆はすぐ台所を動かした。
若鮎は清い水で洗い、俺が生活魔法で手元とまな板を薄く洗浄する。腹を出すと、青い香りが強くなった。川藻と石と、夏の水が混じった匂いだ。
「二匹ずつ塩焼きにいたしましょう。くろすけ様には冷まして二匹。残りは佃煮でございますな」
「俺の分が二匹あるのは確認した」
「若様は数の心配だけは早うございます」
「大事な確認だ」
塩を薄く振り、串を打つ。
炭へ火を入れると、台所の空気が一気に昼飯の顔になった。若鮎は小さいので火が通るのも早い。皮が張り、尾が少し反り、炭の上で脂というより清い水気がぱちっと鳴る。
焼けてくると、匂いが変わった。
ただの魚の匂いではない。青く、涼しく、ほんの少し苦い香りが湯気のように立つ。
香魚と呼ばれるのも分かる。山菜の青さとも、岩魚の沢の匂いより強烈な、夏の川をそのまま細い身に閉じ込めたような匂いだ。
くろすけは土間の端で伏せていた。
尻尾は動いていない。動かすとお妙婆に叱られるからだ。代わりに鼻だけが忙しい。もこは小屋の入口から顔を出し、魚の匂いを一度嗅いで、すぐ草へ戻った。
「草の勝ちか」
「もこはその方がよろしゅうございます」
膳には白飯を少し、干し山菜を戻した味噌汁、若鮎の塩焼きが二匹。
椀の湯気には、春にしまった山菜の匂いが薄く混じっている。夏の入口に春の名残を飲むようで、少し不思議だった。
若鮎へ箸を入れる。
身は柔らかく、骨も細い。頭からいける大きさだが、まずは身を少し外して口に入れた。
「うまい」
皮の香ばしさの後に、川の青い香りが抜けた。身は淡く、塩で甘みが立つ。腹のあたりにはほろ苦さがあり、それが白飯を呼ぶ。
米を一口食べると、若鮎の苦みがすっと丸くなった。田の水が冷たいと心配してきた後で米を食うと、ありがたさが余計に来る。
「これは、夏の味だな」
「水は冷とうございますが、魚は夏でございます」
お妙婆はそう言って、自分の若鮎をきれいに食べた。
くろすけの分は、骨を見て冷ましたものを二匹、器へ入れる。置いた瞬間、黒い鼻先が寄り、次の瞬間には尾の先まで消えていた。
「味わったか?」
くろすけは口元を舐めた。
たぶん味わった。速さと味わいは両立する、という顔だ。
残りの若鮎は、小鍋で甘辛く煮た。
お妙婆は醤油を少し、麦芽水あめをほんの少しだけ入れた。水気を飛ばす間、鍋の中で若鮎がつやを帯びていく。
醤油の香ばしい匂いに川魚の青さと甘みが絡み、おいしそうな佃煮の香りになった。
「これは田吾作爺へ少しだな」
「ええ。冷めても食べられます」
食後、外へ出ると、夏の日差しは強いのに、東からくる風にはまだ冷たい芯があった。
自宅畑では雑穀の細い葉が揺れ、豆は支柱に絡もうとしている。芋の葉も少しずつ広がっていた。
くろすけが俺の横に来て、沢の方を見た。
もこは草地で毛を揺らしながら草を噛んでいる。
台所では、お妙婆が若鮎の佃煮を小さな器へ移していた。
夏は来た。