異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第16話 ニホンミツバチの待ち桶

夏の朝の畑では、豆の花が支柱のそばで小さく揺れていた。

白っぽい花、薄紫の花、まだ開ききらない蕾。春に植えた時はただの種だったものが、いつの間にか蔓を伸ばし、竹の支柱へ頼りながら花をつけている。

芋の葉は広がり、雑穀の細い葉も風を受けてざわざわ鳴った。

それを見るのは気持ちがいい。

気持ちはいいのだが、花が咲いたからといって、勝手に豆が椀へ入ってくるわけではない。

 

「若様、豆の花が増えましたな」

 

お妙婆が水桶を下ろし、畝の間を見た。

 

「増えた。あとは実になってくれれば、俺の仕事が少し報われる」

 

「畑仕事は報われるまでが長うございます」

 

豆の花へ顔を近づけた。

小さな虫が一匹、花の奥へ潜り、すぐ飛んでいく。羽音は聞こえるか聞こえないか程度だ。

花から花へ渡るその動きは、俺が鍬を持ってうろうろするより、よほど無駄がない。

 

「花を訪ねる虫も大事だな」

 

「虫でございますか」

 

「全部が全部、嫌な虫じゃない。実をつける手伝いをする虫もいる」

 

お妙婆は少し目を細めた。

 

「若様、また面倒なことを考えておられますな」

 

「違う。面倒を減らすために、面倒を考えているだけだ」

 

くろすけが畑の端から歩いてきた。

黒い鼻先を豆の花へ近づけるが、花は食べない。代わりに、飛んできた小さな虫を目で追い、耳をぴくりと動かした。

その後ろで、もこが草地からこちらを見ている。

畑へ入れないよう張った麻縄の向こうで、もこは草を噛みながら、めえ、と短く鳴いた。

 

「花に来る虫が増えれば、豆も少しは実りやすくなるかもしれない。ついでに蜂蜜でも採れれば、俺はもう少し真面目に虫を応援できる」

 

「ついでが本音でございますな」

 

「甘味は正義だ」

 

お妙婆が返事をする前に、畑の外から笑い声がした。

源爺だった。背負子に細い枝と草を少し入れ、山裾の道を下りてくるところだった。

 

「若様、蜜を欲しがる顔をしておられる」

 

「そんな顔があるのか」

 

「ございますとも。子供も大人も、甘いものを思う顔は似ております」

 

源爺は豆の花を見て、うんうんとうなずいた。

 

「山蜜蜂が来れば、花にはよろしゅうございますな」

「昔は丸太をくり抜いた桶を山裾へ置いて、分蜂の群れが入るのを待つ家もございました」

 

捕まえるのではなく、待つ。

その言い方で、俺は少し乗り気になった。

無理に追いかけて、刺されるとこの時代だとアナフィラキシーショックが怖い。

そういう失敗は、聞いただけで肩が重くなる。待って、来たらありがたく分けてもらう。来なければただの木桶。悪くない。

 

「待ち桶か。名前からして働かなそうでいいな」

 

「若様が働かねば、桶はできませぬ」

 

お妙婆の声がすぐ飛んできた。

分かっている。

 

源爺は、山蜜蜂は人の通り道を嫌がること、強い匂いを嫌うこと、古い蜜蝋の匂いには寄りやすいことを教えてくれた。

それから、置き場所を間違えると人が刺されるとも言った。

 

「もこの草地の近くは駄目だな」

 

「駄目でございます」

 

お妙婆の返事が早い。

草地の向こうで、もこが何も知らずに毛を揺らしている。

あの毛の中に蜂が入り込んだら、もこが飛び跳ねながら暴れるだろう。世話する俺たちも泣く。

 

「庄屋にも一言入れておくか。蜂が絡むなら、揉める前に話しておきたい」

 

「それがよろしゅうございます」

 

昼前、源爺に連れられて庄屋の家へ寄った。

門田甚兵衛は庭先で話を聞き、腕を組んだ。

 

「若様の山裾の奥で、人の通らねえ場所ならよろしゅうございましょう。ただ、村道や田へ出る道へは近づけねえでくだされ」

 

「もちろんだ。蜂を村人へぶつけたいわけじゃない」

 

「それと、蜜が採れても取りすぎねえことですな」

 

源爺が横から言った。

 

「蜂の冬越し分を奪えば、来年は桶が空になります」

 

「そこは守る。というか、今年は入るかどうかも分からない。成果を急がない仕込みだ」

 

門田甚兵衛は安心したようにうなずいた。

勝手にやって揉めると、だいたい作業より後始末の方が長い。

 

待ち桶は、彦六の家の裏に半分くり抜かれた丸太があった。

前に何かの桶へ使うつもりで乾かしていたものらしい。

彦六は鑿で内側を少し削り、底板を合わせてくれた。

完全な桶ほどきれいではないが、山蜜蜂を待つにはその方がよいと源爺は言う。

 

「きれいすぎると、かえって入りませぬ。山のものは山の匂いが残るくらいで」

 

「俺の生活魔法、今日は出番が少ないな」

 

「若様、何でも洗えばよいものではございませぬ」

 

お妙婆に釘を刺され、俺は桶の中へ手を入れた。

土や木屑を払い、虫の死骸だけを取り、生活魔法で湿りをほんの少し抜く。洗浄は薄く、乾燥も弱く。清潔にしすぎず、かび臭くもせず。

この加減が一番面倒だ。強くやる方が簡単なのに...

 

源爺が小さな布包みを開くと、薄黄色の古い蜜蝋が出てきた。

甘い匂いが、ふわりと立つ。

砂糖の甘さではない。花と木と、少し日に温まった山の匂いが混じっている。

 

「うまそうな匂いがする」

 

「食べるものではございませぬ」

 

「分かってる。分かってるが、甘味は強烈に思い出に残るんだ」

 

お妙婆は呆れたように息をつき、古い蜜蝋を指先に少し取った。

桶の内側へ薄くこすりつける。べったり塗るのではなく、木肌に匂いを移す程度だ。俺も真似して塗ると、指先に蜜蝋の柔らかさと、木のざらつきが残った。

 

くろすけが鼻を近づけた。

蜜蝋の匂いを嗅ぎ、次に山の方へ鼻先を向ける。風が畑から山へ抜けている。黒い耳が一度動き、くろすけは家の裏手ではなく、沢へ下りる道から少し外れた木陰へ歩き出した。

 

「案内か」

 

返事はない。

ただ、くろすけは振り返り、俺が桶を持ってついてくるか確認した。

こういう時だけは実に現場監督らしい。

 

桶は見た目より重かった。

源爺と彦六に手伝ってもらい、山裾の木陰まで運ぶ。そこは人の通り道から外れ、もこの草地からも離れていた。

朝の光は入るが、昼には大きな木の影になる。近くに倒れた岩があり、獣が真正面から突っ込みにくい。

 

「ここならどうだ」

 

源爺が周りを見た。

 

「よろしゅうございますな。入口は少し下向き。雨が吹き込みにくいよう、上に板を一枚かけましょう」

 

彦六が持ってきた古板をのせ、石で押さえる。

俺は桶の下に小石をかませ、傾きを少し直した。入口が地面に近すぎると湿気がこもる。高くしすぎると安定が悪い。こういう小さな調整ばかりが、結局あとで効く。

 

くろすけは桶の周りを一周し、最後に少し離れた木の根元へ伏せた。

そこからなら桶と道の両方が見える。

 

「見張る気か?」

 

黒い尻尾が一度だけ動いた。

蜂が来る前から警備がついた。採算は合わないが、ありがたい。

 

家へ戻る頃には腹が減っていた。

待ち桶は置いた。だが、当然ながら蜜はまだない。今日の昼飯に甘味が増えるわけではない。

期待しすぎずに、期待しながら待つことにしよう。

 

台所では、お妙婆が握り飯を炭火にかけていた。

表面に醤油を薄く塗ると、焦げる一歩手前の香りが立つ。米の白い匂いが、醤油の塩気と炭の香ばしさをまとっていく。

小鍋では、保存していた小芋を蒸かしていた。今の畑の芋はまだ葉を広げている最中なので、これは去年の残りを選ったものだ。

 

「蜂蜜が採れたら、芋に少しつけてもよさそうだな」

 

「採れてから言いなされ」

 

「はい」

 

言葉は素直に返した。だが、湯気の立つ芋を見ていると、蜜の甘さを想像せずにはいられない。

焼き握り飯は、外側がぱりっとしていた。噛むと醤油の焦げた香りが先に来て、その後に米の甘みが出る。

蒸かし芋は皮を割ると、ほくりと湯気が上がる。塩を少しつけると、素朴な甘さが舌に残った。

 

「これに蜜があれば、かなり危ない食べ物になる」

 

「食べすぎが危ないのでございます」

 

くろすけには、冷ました焼き握り飯の端と、芋を少し分けた。

くろすけは芋を一度嗅ぎ、食べ、少し考えるように口を動かした。

魚ほどの勢いはないが、嫌いではないらしい。

もこは草地で丸くなり、暑さで毛を少し重そうに揺らしていた。

 

お妙婆がそれを見て、眉を寄せた。

 

「若様、もこの毛も、そろそろ見てやらねばなりませぬな」

 

「待ち桶の次は毛か」

 

「暮らしは待ってくれませぬ」

 

その通りだった。

山裾の木陰では、蜜蝋の匂いをまとった待ち桶が、何も言わずに蜂を待っている。

草地では、もこが夏の毛を揺らしながら、のんびり草を噛んでいる。

待つ仕事と、待ってくれない仕事。

夏は、どちらも同じ顔で家の周りに置いていく。

 

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