異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
夏の朝の畑では、豆の花が支柱のそばで小さく揺れていた。
白っぽい花、薄紫の花、まだ開ききらない蕾。春に植えた時はただの種だったものが、いつの間にか蔓を伸ばし、竹の支柱へ頼りながら花をつけている。
芋の葉は広がり、雑穀の細い葉も風を受けてざわざわ鳴った。
それを見るのは気持ちがいい。
気持ちはいいのだが、花が咲いたからといって、勝手に豆が椀へ入ってくるわけではない。
「若様、豆の花が増えましたな」
お妙婆が水桶を下ろし、畝の間を見た。
「増えた。あとは実になってくれれば、俺の仕事が少し報われる」
「畑仕事は報われるまでが長うございます」
豆の花へ顔を近づけた。
小さな虫が一匹、花の奥へ潜り、すぐ飛んでいく。羽音は聞こえるか聞こえないか程度だ。
花から花へ渡るその動きは、俺が鍬を持ってうろうろするより、よほど無駄がない。
「花を訪ねる虫も大事だな」
「虫でございますか」
「全部が全部、嫌な虫じゃない。実をつける手伝いをする虫もいる」
お妙婆は少し目を細めた。
「若様、また面倒なことを考えておられますな」
「違う。面倒を減らすために、面倒を考えているだけだ」
くろすけが畑の端から歩いてきた。
黒い鼻先を豆の花へ近づけるが、花は食べない。代わりに、飛んできた小さな虫を目で追い、耳をぴくりと動かした。
その後ろで、もこが草地からこちらを見ている。
畑へ入れないよう張った麻縄の向こうで、もこは草を噛みながら、めえ、と短く鳴いた。
「花に来る虫が増えれば、豆も少しは実りやすくなるかもしれない。ついでに蜂蜜でも採れれば、俺はもう少し真面目に虫を応援できる」
「ついでが本音でございますな」
「甘味は正義だ」
お妙婆が返事をする前に、畑の外から笑い声がした。
源爺だった。背負子に細い枝と草を少し入れ、山裾の道を下りてくるところだった。
「若様、蜜を欲しがる顔をしておられる」
「そんな顔があるのか」
「ございますとも。子供も大人も、甘いものを思う顔は似ております」
源爺は豆の花を見て、うんうんとうなずいた。
「山蜜蜂が来れば、花にはよろしゅうございますな」
「昔は丸太をくり抜いた桶を山裾へ置いて、分蜂の群れが入るのを待つ家もございました」
捕まえるのではなく、待つ。
その言い方で、俺は少し乗り気になった。
無理に追いかけて、刺されるとこの時代だとアナフィラキシーショックが怖い。
そういう失敗は、聞いただけで肩が重くなる。待って、来たらありがたく分けてもらう。来なければただの木桶。悪くない。
「待ち桶か。名前からして働かなそうでいいな」
「若様が働かねば、桶はできませぬ」
お妙婆の声がすぐ飛んできた。
分かっている。
源爺は、山蜜蜂は人の通り道を嫌がること、強い匂いを嫌うこと、古い蜜蝋の匂いには寄りやすいことを教えてくれた。
それから、置き場所を間違えると人が刺されるとも言った。
「もこの草地の近くは駄目だな」
「駄目でございます」
お妙婆の返事が早い。
草地の向こうで、もこが何も知らずに毛を揺らしている。
あの毛の中に蜂が入り込んだら、もこが飛び跳ねながら暴れるだろう。世話する俺たちも泣く。
「庄屋にも一言入れておくか。蜂が絡むなら、揉める前に話しておきたい」
「それがよろしゅうございます」
昼前、源爺に連れられて庄屋の家へ寄った。
門田甚兵衛は庭先で話を聞き、腕を組んだ。
「若様の山裾の奥で、人の通らねえ場所ならよろしゅうございましょう。ただ、村道や田へ出る道へは近づけねえでくだされ」
「もちろんだ。蜂を村人へぶつけたいわけじゃない」
「それと、蜜が採れても取りすぎねえことですな」
源爺が横から言った。
「蜂の冬越し分を奪えば、来年は桶が空になります」
「そこは守る。というか、今年は入るかどうかも分からない。成果を急がない仕込みだ」
門田甚兵衛は安心したようにうなずいた。
勝手にやって揉めると、だいたい作業より後始末の方が長い。
待ち桶は、彦六の家の裏に半分くり抜かれた丸太があった。
前に何かの桶へ使うつもりで乾かしていたものらしい。
彦六は鑿で内側を少し削り、底板を合わせてくれた。
完全な桶ほどきれいではないが、山蜜蜂を待つにはその方がよいと源爺は言う。
「きれいすぎると、かえって入りませぬ。山のものは山の匂いが残るくらいで」
「俺の生活魔法、今日は出番が少ないな」
「若様、何でも洗えばよいものではございませぬ」
お妙婆に釘を刺され、俺は桶の中へ手を入れた。
土や木屑を払い、虫の死骸だけを取り、生活魔法で湿りをほんの少し抜く。洗浄は薄く、乾燥も弱く。清潔にしすぎず、かび臭くもせず。
この加減が一番面倒だ。強くやる方が簡単なのに...
源爺が小さな布包みを開くと、薄黄色の古い蜜蝋が出てきた。
甘い匂いが、ふわりと立つ。
砂糖の甘さではない。花と木と、少し日に温まった山の匂いが混じっている。
「うまそうな匂いがする」
「食べるものではございませぬ」
「分かってる。分かってるが、甘味は強烈に思い出に残るんだ」
お妙婆は呆れたように息をつき、古い蜜蝋を指先に少し取った。
桶の内側へ薄くこすりつける。べったり塗るのではなく、木肌に匂いを移す程度だ。俺も真似して塗ると、指先に蜜蝋の柔らかさと、木のざらつきが残った。
くろすけが鼻を近づけた。
蜜蝋の匂いを嗅ぎ、次に山の方へ鼻先を向ける。風が畑から山へ抜けている。黒い耳が一度動き、くろすけは家の裏手ではなく、沢へ下りる道から少し外れた木陰へ歩き出した。
「案内か」
返事はない。
ただ、くろすけは振り返り、俺が桶を持ってついてくるか確認した。
こういう時だけは実に現場監督らしい。
桶は見た目より重かった。
源爺と彦六に手伝ってもらい、山裾の木陰まで運ぶ。そこは人の通り道から外れ、もこの草地からも離れていた。
朝の光は入るが、昼には大きな木の影になる。近くに倒れた岩があり、獣が真正面から突っ込みにくい。
「ここならどうだ」
源爺が周りを見た。
「よろしゅうございますな。入口は少し下向き。雨が吹き込みにくいよう、上に板を一枚かけましょう」
彦六が持ってきた古板をのせ、石で押さえる。
俺は桶の下に小石をかませ、傾きを少し直した。入口が地面に近すぎると湿気がこもる。高くしすぎると安定が悪い。こういう小さな調整ばかりが、結局あとで効く。
くろすけは桶の周りを一周し、最後に少し離れた木の根元へ伏せた。
そこからなら桶と道の両方が見える。
「見張る気か?」
黒い尻尾が一度だけ動いた。
蜂が来る前から警備がついた。採算は合わないが、ありがたい。
家へ戻る頃には腹が減っていた。
待ち桶は置いた。だが、当然ながら蜜はまだない。今日の昼飯に甘味が増えるわけではない。
期待しすぎずに、期待しながら待つことにしよう。
台所では、お妙婆が握り飯を炭火にかけていた。
表面に醤油を薄く塗ると、焦げる一歩手前の香りが立つ。米の白い匂いが、醤油の塩気と炭の香ばしさをまとっていく。
小鍋では、保存していた小芋を蒸かしていた。今の畑の芋はまだ葉を広げている最中なので、これは去年の残りを選ったものだ。
「蜂蜜が採れたら、芋に少しつけてもよさそうだな」
「採れてから言いなされ」
「はい」
言葉は素直に返した。だが、湯気の立つ芋を見ていると、蜜の甘さを想像せずにはいられない。
焼き握り飯は、外側がぱりっとしていた。噛むと醤油の焦げた香りが先に来て、その後に米の甘みが出る。
蒸かし芋は皮を割ると、ほくりと湯気が上がる。塩を少しつけると、素朴な甘さが舌に残った。
「これに蜜があれば、かなり危ない食べ物になる」
「食べすぎが危ないのでございます」
くろすけには、冷ました焼き握り飯の端と、芋を少し分けた。
くろすけは芋を一度嗅ぎ、食べ、少し考えるように口を動かした。
魚ほどの勢いはないが、嫌いではないらしい。
もこは草地で丸くなり、暑さで毛を少し重そうに揺らしていた。
お妙婆がそれを見て、眉を寄せた。
「若様、もこの毛も、そろそろ見てやらねばなりませぬな」
「待ち桶の次は毛か」
「暮らしは待ってくれませぬ」
その通りだった。
山裾の木陰では、蜜蝋の匂いをまとった待ち桶が、何も言わずに蜂を待っている。
草地では、もこが夏の毛を揺らしながら、のんびり草を噛んでいる。
待つ仕事と、待ってくれない仕事。
夏は、どちらも同じ顔で家の周りに置いていく。