異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
戸を開けた瞬間、山から下りてくる風が羽織の隙間へ入り込む。鼻の奥に、湿った土と枯れ草と、雪解け水の青い匂いが来た。
山裾の別宅は、領主屋敷から歩けばそれなりにある。
もともとは領主屋敷の穀潰しをしていたが、空いている別邸が痛むということで移ってきた。
村からは近いが、屋敷の賑やかさは届かない。
裏手に薪小屋と保存食置き場、少し下れば沢へ続く細い道がある。
そして家の脇に、二人で世話するには少し大きめの畑が広がっていた。
「……いつ見ても広いな」
俺は素直な感想を口にした。
「昨日も見ましたでしょう」
後ろから、お妙婆が鍬を肩に担いで出てくる。六十を越えているはずなのに、朝飯後の動きが俺より軽い。人間、味噌粥を食べるだけではああならない。
たぶんないか別のエネルギー源がある。魔法はつけないらしいが、自然に身体強化魔法ぐらいは使っていそうだ。
お妙婆の手には、鍬のほかに麻縄と木杭があった。
それはもしかして俺を縛り付けるためだろうか...
くろすけは俺の横を抜け、畑の端まで歩いた。黒い毛が春の薄い光を吸い、尻尾がゆっくり揺れる。畝の脇で鼻を低くし、土の匂いを嗅いだかと思うと、ふいに草むらへ顔を向けた。
何か小さいネズミか何かが、枯れ草を鳴らして逃げていく。
くろすけは追わなかった。ただ、そこに伏せた。
畑の端に黒い神狼が一匹いるだけで、小動物対策としては札を百枚立てるより効きそうである。
「くろすけ、そこを守ってくれるのはありがたいが、畝の上には寝るなよ」
くろすけは耳だけをこちらへ向けた。
返事はない。返事がないのは、分かっている時と、分かっていても聞かなかったことにする時の両方がある。
今回は前者だと信じたい。
別宅の畑は、母屋の東側にゆるく広がっている。山からの風は当たるが、朝日はよく入る。沢へ向かう道の途中には、水を汲むための小さな踏み跡があり、薪小屋の軒下には去年割った薪が積まれている。
保存食置き場は土間の奥、風が通るが雨の入らないところだ。今は味噌、塩漬け、干した根菜が少しあるだけだが、冬までにいっぱいにできれば、冬なにもせずに済む。
働く理由が、働かないために生まれる。つらい...
お妙婆は畑の端に杭を打った。
こん、と乾いた音がしたあと、下の土に当たって鈍く止まる。
「まだ少し硬いですな」
俺は鍬を持たされた。
畑には、去年の枯れ草がまだ残っていた。お妙婆は慣れた手つきで草の根元に鍬を入れ、土ごと起こしていく。俺も真似をして鍬を振り下ろした。
ざくり、と刃が入る。
思ったより深くは入らない。土の表面は湿っているが、下はまだ冷たく締まっている。鍬をこじると、黒い土が重く返った。根が絡んで、腕に少し抵抗が来る。
「若様、腰だけでやると痛めますぞ。足を使いなされ」
前世の荷物運びと一緒だな...
たまにぎっくり腰で労災速報が回ってきていた...
言われた通り、足の位置を直してもう一度入れる。
今度は少し楽だった。鍬の柄を押し下げると、土がごそりと割れ、湿った匂いが立ち上がる。
手のひらに、木の柄のざらつきが移る。前世では辻褄合わせだけの工程表とかを握っていたが、今の鍬の方が正直でいい。重いが、嘘はつかない。
「手つき、思ったより悪くねえですね」
道の方から声がした。
振り向くと、村の若者が背負子を背負って立っていた。太助だ。薪か何かを運ぶ途中らしく、額に薄く汗をかいている。
俺が鍬を持っているのを見て、目を丸くしていた。
「太助、今の言葉は褒めているのか、普段の俺を相当低く見ているのか、どちらだ」
「え、いや、その、若様はこう、台所の火とか、洗い物の魔法とかは器用ですけど、鍬はお妙婆の方が似合うというか」
「正直でよろしい。だが、いつか脛を鍬で狙わせてもらおうか」
太助は慌てて一歩下がった。
くろすけが畑の端で顔を上げる。太助はそれを見て、さらに一歩下がった。
お妙婆が鍬を止めずに言った。
「若様は、やればできます。ただ、飽きるのも早うございます」
「俺の人物評が...」
「太助、村へ行くなら庄屋様に、若様は今日は畑におられると伝えてくだされ」
「へえ。若様、畑を広げるんで?」
「広げない。むしろ、これ以上広げるなという話を、俺は今から自分にしている」
太助が笑った。
春の風に、背負子の中の細い枝がかさかさ鳴る。
「何を植えるんです?」
「まだ決めきってはいない。米以外で腹にたまるものを少しだな」
「米以外で?」
太助の顔に、軽い不思議そうな色が出た。
この村では米は大事だ。うちにも田の土地はあるが、田は田吾作爺に任せている。俺が田へ出て、思いつきで水や苗に口を出すのは、現場へ
あれは前世だけで十分である。
「田をどうこうする話じゃない。ここの畑で、うちの飯の逃げ道を作るだけだ」
「逃げ道、ですか」
「飯の逃げ道は大事だ。腹が空いた人間は、だいたい判断を間違える」
お妙婆が頷いた。
「米はありがたいものです。けれど、粥に少し混ぜる豆や雑穀、腹持ちのよい芋があれば、台所は助かりますでな」
太助は、なるほどと言いかけて、くろすけの方をちらりと見た。
くろすけは伏せたまま、太助の背負子の匂いを嗅いでいる。中に干し魚でも入っていないか確認している顔だ。
「くろすけ様、これは枝だけです」
くろすけは興味を失ったように顎を前足に乗せた。
太助はほっと息をつき、村の方へ歩いていった。
俺は鍬に体重を預け、畑を見渡す。
春なので草も多い。二人で管理するには、確かに少し広い。けれど、村全体をどうにかできるほどではない。
だからちょうどいい。
失敗しても、村を巻き込まない。うまくいっても、まずは食べて確かめるだけで済む。人手を増やさず、話を大きくしない。改善は、広げる前に止める方がたぶん大事だ。
「お妙婆」
「はい」
「今年、この畑は試す畑にしよう」
お妙婆の鍬が止まった。
「また妙な言い方をなさる」
「うちの台所が冬に泣かないために雑穀と豆と芋を植えよう。米が少ない時、粥を薄くするだけじゃ寂しいだろう」
お妙婆は少しだけ目を細め、畑を見た。
その顔は、俺の思いつきを即座に信用した顔ではない。どの畝なら水が残りすぎないか、どこなら日が当たるかを考える顔だった。
「芋は、沢に近すぎる所は避けた方がようございます。水が多すぎると腐りますでな。豆は支えるものが要ります。雑穀は、風をまともに受ける端より、少し内へ」
「ほら、もう俺より具体的だ」
「若様は言い出す役。私は逃がさぬ役でございます」
それでも、話は決まった。
俺は麻縄を持ち、畑を大ざっぱに三つへ分けることにした。お妙婆が杭を打ち、俺が縄を張る。くろすけはその様子を見ていたが、途中で縄の端に鼻を寄せた。
嫌な予感がした。
「くろすけ、それは遊び道具ではない」
くろすけは縄を軽く咥えた。
俺が端を持つ。くろすけが少し引く。
畑に張るはずの線が、神狼の口へ向かって曲がった。
「待て。これは綱引きじゃないんだ」
くろすけは琥珀色の目でこちらを見た。
尻尾が一度だけ動く。完全に遊びの目だ。
お妙婆が腰に手を当てた。
「くろすけ様。縄は畑のものにございます」
くろすけは、すぐに縄を離した。
俺が言うより効く。台所で飯を握っている者の権威は強い。
縄を張り直し、杭を打つ。
雑穀の区画。豆の区画。芋の区画。
まだ何も植えていないのに、線が入るだけで畑は急に畑らしく見えた。
人間は境目を見ると、急に責任を感じる生き物らしい。面倒である。
一刻ほど動くと、指先が冷たいのに背中だけ汗ばんだ。
お妙婆は持ってきた小さな包みを、畑脇の平たい石の上に広げる。朝の残りの粥を固め、味噌を薄く塗って焼いたものだった。表面が少し焦げ、ふきのとう味噌の香りが湯気に混じって立つ。
小さな竹筒には、温め直した白湯が入っている。
「働いたら食べる。食べたらまた働く。昔からそう決まっております」
「食べたら寝る、という律令はないか」
「この畑にはございませぬ」
俺は焼き粥を受け取った。
手のひらに熱が移る。表面は香ばしく、中はまだ少し柔らかい。かじると、味噌の塩気と春の苦みが舌に広がり、米と雑穀の甘みが後から来た。
朝の粥とは違う。焦げたところが、妙にうまい。
冷たい風の中で食べると、腹の奥に火が入る。
くろすけには、お妙婆が別に包んでいた焼き魚の端が渡された。
くろすけは前足をそろえ、受け取る前だけ妙に行儀よく座る。食べ始めると一口で消えた。
「お前、今の味わったか」
くろすけは口元を舐め、何事もなかったように畑の端へ戻る。
俺は白湯を飲み、畑の線を見た。
雑穀、豆、芋。
俺とお妙婆が世話できる範囲で、くろすけが端で見張れる範囲だ。
けれど、何もないよりはましだ。
米は神だと思う。炊きたての白飯に味噌と魚があれば、人間はかなり許せる。
ただ、神様に全財産を預けるのは怖い。
「若様、午後は草の根を拾いますぞ」
「今、俺は良いことを考えていた」
「良いことを考えた手で、草を拾ってくだされ」
逃げ道はなかった。
畑の逃げ道を作るために、俺の逃げ道が塞がれる。世の中はよくできている。悪い意味で。
俺が腰を上げると、くろすけが畑の端でふいに立ち上がった。山の方へ鼻先を向け、風を嗅ぐ。
何かを追うでもなく、ただ山の斜面を見ている。
そこには、雪が消えたばかりの黒い土と、芽吹き前の低い草があった。よく見れば、斜面のあちこちに春の山菜が顔を出し始めている。
お妙婆も視線を向けた。
「明日は、籠を持って山の端を見てもよいかもしれませぬな」
「畑の次は山か」
「春は待ってくれませぬ」
くろすけが、こちらを振り返る。
その目は、明らかにもう一仕事あると言っていた。
もちろん喋ってはいない。喋っていないが、袖を咥える前の顔である。
俺は鍬を握り直し、ため息をついた。
「分かった。今日は畑。明日は山の匂いだけだ。採るとは言っていない」
お妙婆は何も言わず、竹籠を置く場所を目で測っていた。
くろすけの尻尾が、春の風の中で一度だけ大きく揺れた。