異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第2話 山裾の別宅と少し大きめの畑

戸を開けた瞬間、山から下りてくる風が羽織の隙間へ入り込む。鼻の奥に、湿った土と枯れ草と、雪解け水の青い匂いが来た。

 

山裾の別宅は、領主屋敷から歩けばそれなりにある。

 

もともとは領主屋敷の穀潰しをしていたが、空いている別邸が痛むということで移ってきた。

村からは近いが、屋敷の賑やかさは届かない。

裏手に薪小屋と保存食置き場、少し下れば沢へ続く細い道がある。

そして家の脇に、二人で世話するには少し大きめの畑が広がっていた。

 

「……いつ見ても広いな」

 

俺は素直な感想を口にした。

 

「昨日も見ましたでしょう」

 

後ろから、お妙婆が鍬を肩に担いで出てくる。六十を越えているはずなのに、朝飯後の動きが俺より軽い。人間、味噌粥を食べるだけではああならない。

たぶんないか別のエネルギー源がある。魔法はつけないらしいが、自然に身体強化魔法ぐらいは使っていそうだ。

お妙婆の手には、鍬のほかに麻縄と木杭があった。

それはもしかして俺を縛り付けるためだろうか...

 

くろすけは俺の横を抜け、畑の端まで歩いた。黒い毛が春の薄い光を吸い、尻尾がゆっくり揺れる。畝の脇で鼻を低くし、土の匂いを嗅いだかと思うと、ふいに草むらへ顔を向けた。

何か小さいネズミか何かが、枯れ草を鳴らして逃げていく。

くろすけは追わなかった。ただ、そこに伏せた。

畑の端に黒い神狼が一匹いるだけで、小動物対策としては札を百枚立てるより効きそうである。

 

「くろすけ、そこを守ってくれるのはありがたいが、畝の上には寝るなよ」

 

くろすけは耳だけをこちらへ向けた。

返事はない。返事がないのは、分かっている時と、分かっていても聞かなかったことにする時の両方がある。

今回は前者だと信じたい。

 

別宅の畑は、母屋の東側にゆるく広がっている。山からの風は当たるが、朝日はよく入る。沢へ向かう道の途中には、水を汲むための小さな踏み跡があり、薪小屋の軒下には去年割った薪が積まれている。

保存食置き場は土間の奥、風が通るが雨の入らないところだ。今は味噌、塩漬け、干した根菜が少しあるだけだが、冬までにいっぱいにできれば、冬なにもせずに済む。

働く理由が、働かないために生まれる。つらい...

 

お妙婆は畑の端に杭を打った。

こん、と乾いた音がしたあと、下の土に当たって鈍く止まる。

 

「まだ少し硬いですな」

 

俺は鍬を持たされた。

 

畑には、去年の枯れ草がまだ残っていた。お妙婆は慣れた手つきで草の根元に鍬を入れ、土ごと起こしていく。俺も真似をして鍬を振り下ろした。

ざくり、と刃が入る。

思ったより深くは入らない。土の表面は湿っているが、下はまだ冷たく締まっている。鍬をこじると、黒い土が重く返った。根が絡んで、腕に少し抵抗が来る。

 

「若様、腰だけでやると痛めますぞ。足を使いなされ」

 

前世の荷物運びと一緒だな...

たまにぎっくり腰で労災速報が回ってきていた...

 

言われた通り、足の位置を直してもう一度入れる。

今度は少し楽だった。鍬の柄を押し下げると、土がごそりと割れ、湿った匂いが立ち上がる。

手のひらに、木の柄のざらつきが移る。前世では辻褄合わせだけの工程表とかを握っていたが、今の鍬の方が正直でいい。重いが、嘘はつかない。

 

「手つき、思ったより悪くねえですね」

 

道の方から声がした。

振り向くと、村の若者が背負子を背負って立っていた。太助だ。薪か何かを運ぶ途中らしく、額に薄く汗をかいている。

俺が鍬を持っているのを見て、目を丸くしていた。

 

「太助、今の言葉は褒めているのか、普段の俺を相当低く見ているのか、どちらだ」

 

「え、いや、その、若様はこう、台所の火とか、洗い物の魔法とかは器用ですけど、鍬はお妙婆の方が似合うというか」

 

「正直でよろしい。だが、いつか脛を鍬で狙わせてもらおうか」

 

太助は慌てて一歩下がった。

くろすけが畑の端で顔を上げる。太助はそれを見て、さらに一歩下がった。

 

お妙婆が鍬を止めずに言った。

 

「若様は、やればできます。ただ、飽きるのも早うございます」

 

「俺の人物評が...」

 

「太助、村へ行くなら庄屋様に、若様は今日は畑におられると伝えてくだされ」

 

「へえ。若様、畑を広げるんで?」

 

「広げない。むしろ、これ以上広げるなという話を、俺は今から自分にしている」

 

太助が笑った。

春の風に、背負子の中の細い枝がかさかさ鳴る。

 

「何を植えるんです?」

 

「まだ決めきってはいない。米以外で腹にたまるものを少しだな」

 

「米以外で?」

 

太助の顔に、軽い不思議そうな色が出た。

この村では米は大事だ。うちにも田の土地はあるが、田は田吾作爺に任せている。俺が田へ出て、思いつきで水や苗に口を出すのは、現場へ余計な紙(チェックシート)をばらまくようなものだ。

あれは前世だけで十分である。

 

「田をどうこうする話じゃない。ここの畑で、うちの飯の逃げ道を作るだけだ」

 

「逃げ道、ですか」

 

「飯の逃げ道は大事だ。腹が空いた人間は、だいたい判断を間違える」

 

お妙婆が頷いた。

 

「米はありがたいものです。けれど、粥に少し混ぜる豆や雑穀、腹持ちのよい芋があれば、台所は助かりますでな」

 

太助は、なるほどと言いかけて、くろすけの方をちらりと見た。

くろすけは伏せたまま、太助の背負子の匂いを嗅いでいる。中に干し魚でも入っていないか確認している顔だ。

 

「くろすけ様、これは枝だけです」

 

くろすけは興味を失ったように顎を前足に乗せた。

太助はほっと息をつき、村の方へ歩いていった。

 

俺は鍬に体重を預け、畑を見渡す。

春なので草も多い。二人で管理するには、確かに少し広い。けれど、村全体をどうにかできるほどではない。

だからちょうどいい。

失敗しても、村を巻き込まない。うまくいっても、まずは食べて確かめるだけで済む。人手を増やさず、話を大きくしない。改善は、広げる前に止める方がたぶん大事だ。

 

「お妙婆」

 

「はい」

 

「今年、この畑は試す畑にしよう」

 

お妙婆の鍬が止まった。

 

「また妙な言い方をなさる」

 

「うちの台所が冬に泣かないために雑穀と豆と芋を植えよう。米が少ない時、粥を薄くするだけじゃ寂しいだろう」

 

お妙婆は少しだけ目を細め、畑を見た。

その顔は、俺の思いつきを即座に信用した顔ではない。どの畝なら水が残りすぎないか、どこなら日が当たるかを考える顔だった。

 

「芋は、沢に近すぎる所は避けた方がようございます。水が多すぎると腐りますでな。豆は支えるものが要ります。雑穀は、風をまともに受ける端より、少し内へ」

 

「ほら、もう俺より具体的だ」

 

「若様は言い出す役。私は逃がさぬ役でございます」

 

それでも、話は決まった。

俺は麻縄を持ち、畑を大ざっぱに三つへ分けることにした。お妙婆が杭を打ち、俺が縄を張る。くろすけはその様子を見ていたが、途中で縄の端に鼻を寄せた。

嫌な予感がした。

 

「くろすけ、それは遊び道具ではない」

 

くろすけは縄を軽く咥えた。

俺が端を持つ。くろすけが少し引く。

畑に張るはずの線が、神狼の口へ向かって曲がった。

 

「待て。これは綱引きじゃないんだ」

 

くろすけは琥珀色の目でこちらを見た。

尻尾が一度だけ動く。完全に遊びの目だ。

お妙婆が腰に手を当てた。

 

「くろすけ様。縄は畑のものにございます」

 

くろすけは、すぐに縄を離した。

俺が言うより効く。台所で飯を握っている者の権威は強い。

 

縄を張り直し、杭を打つ。

雑穀の区画。豆の区画。芋の区画。

まだ何も植えていないのに、線が入るだけで畑は急に畑らしく見えた。

人間は境目を見ると、急に責任を感じる生き物らしい。面倒である。

 

一刻ほど動くと、指先が冷たいのに背中だけ汗ばんだ。

お妙婆は持ってきた小さな包みを、畑脇の平たい石の上に広げる。朝の残りの粥を固め、味噌を薄く塗って焼いたものだった。表面が少し焦げ、ふきのとう味噌の香りが湯気に混じって立つ。

小さな竹筒には、温め直した白湯が入っている。

 

「働いたら食べる。食べたらまた働く。昔からそう決まっております」

 

「食べたら寝る、という律令はないか」

 

「この畑にはございませぬ」

 

俺は焼き粥を受け取った。

手のひらに熱が移る。表面は香ばしく、中はまだ少し柔らかい。かじると、味噌の塩気と春の苦みが舌に広がり、米と雑穀の甘みが後から来た。

朝の粥とは違う。焦げたところが、妙にうまい。

冷たい風の中で食べると、腹の奥に火が入る。

 

くろすけには、お妙婆が別に包んでいた焼き魚の端が渡された。

くろすけは前足をそろえ、受け取る前だけ妙に行儀よく座る。食べ始めると一口で消えた。

 

「お前、今の味わったか」

 

くろすけは口元を舐め、何事もなかったように畑の端へ戻る。

 

俺は白湯を飲み、畑の線を見た。

雑穀、豆、芋。

俺とお妙婆が世話できる範囲で、くろすけが端で見張れる範囲だ。

けれど、何もないよりはましだ。

米は神だと思う。炊きたての白飯に味噌と魚があれば、人間はかなり許せる。

ただ、神様に全財産を預けるのは怖い。

 

「若様、午後は草の根を拾いますぞ」

 

「今、俺は良いことを考えていた」

 

「良いことを考えた手で、草を拾ってくだされ」

 

逃げ道はなかった。

畑の逃げ道を作るために、俺の逃げ道が塞がれる。世の中はよくできている。悪い意味で。

 

俺が腰を上げると、くろすけが畑の端でふいに立ち上がった。山の方へ鼻先を向け、風を嗅ぐ。

何かを追うでもなく、ただ山の斜面を見ている。

そこには、雪が消えたばかりの黒い土と、芽吹き前の低い草があった。よく見れば、斜面のあちこちに春の山菜が顔を出し始めている。

 

お妙婆も視線を向けた。

 

「明日は、籠を持って山の端を見てもよいかもしれませぬな」

 

「畑の次は山か」

 

「春は待ってくれませぬ」

 

くろすけが、こちらを振り返る。

その目は、明らかにもう一仕事あると言っていた。

もちろん喋ってはいない。喋っていないが、袖を咥える前の顔である。

 

俺は鍬を握り直し、ため息をついた。

 

「分かった。今日は畑。明日は山の匂いだけだ。採るとは言っていない」

 

お妙婆は何も言わず、竹籠を置く場所を目で測っていた。

くろすけの尻尾が、春の風の中で一度だけ大きく揺れた。

 

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