異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
翌朝、沢へ下りる道は、まだ冬の残り香が香っていた。
雪はもう消えている。
それなのに、山裾の土は湿って重く、踏むたびに草履の裏へ冷たさが吸いついてくる。
日陰はまだ霜柱が立っていた。踏むと冷たいがサクサクと地面が沈んで気持ちがいい。
日向は枯れ草の間から新しい芽が少しだけ顔を出していた。
俺は空の桶を二つ持ち、家の裏手から沢へ向かった。
くろすけは先に立って歩いている。黒い背中が細い道をふさぎ、尻尾の先が左右へゆっくり揺れる。時々、道端の草むらへ鼻先を突っ込み、何かの匂いを確かめては、何事もなかったように戻ってくる。
「見回りご苦労。だが、俺の足元の見回りも頼む。転んだら桶が割れる」
くろすけは振り返らなかった。
たぶん、転ばなければいいと思っている。
昨日、畑を雑穀、豆、芋の区画に分けた。
縄を張り、杭を打っただけで、実際にはまだ何も植えていない。けれど、線を引いた畑は、朝起きた瞬間から頭の隅に居座る。
何を植えるか。どれだけ植えるか。種は足りるか。お妙婆がどの顔で草取りを命じてくるか。
最後だけ、予測精度が高い。
沢の音が近づいた。
雪解けの水は、石の間を細く白く走っている。春の水は見た目だけならきれいだ。澄んで、冷たそうだ。
問題は、本当に指が千切れるほど冷たいことだった。
俺は桶を置き、袖をまくって指先を水に入れた。
「うわ」
思わず声が出た。
水は指の皮を通り抜けて、骨の方へ来た。冷たいというより、痛い。
くろすけは沢の縁に立ち、鼻先を水へ近づけた。
ひくりと鼻が動く。飲むかと思ったら、舌を出しかけてやめた。
「お前も冷たいと思っただろ」
くろすけは俺を見ない。
ただ、前足を一歩だけ引いた。
神狼にも足先の冷たさはあるらしい。少し安心した。俺だけが軟弱なわけではない。
桶へ水を汲む。
澄んだ水が木の桶へ当たって、からん、と小さく鳴った。指先はすぐ赤くなり、持ち手の木まで冷えているように感じる。
この水が田へ入るのだと思うと、米の気持ちになって震えた。
いや、米に気持ちはない。ないが、苗の根にはだいぶつらいはずだ。
「春でも少し寒いので、で済ませていいのかね」
口に出してから、自分で苦笑した。
米井村の春が毎年あたたかいわけでもないだろう。山の年寄りなら、こんな春もあると言うに決まっている。
それでも、米だけに腹を預けるのは、やはり少し怖かった。
沢から戻ると、家の脇の畑では、お妙婆がもうしゃがみ込んでいた。
昨日張った縄の内側で、土を手に取り、指でほぐしている。白髪をまとめた首筋に、朝の光が薄くかかっていた。
「若様、水を汲むだけでずいぶん難しい顔をなさる」
「沢の水が冷たすぎた。あれに手を入れると、反省していない罪まで告白しそうになる」
「山の水でございますからな」
「山、もう少し手加減を覚えてほしい」
お妙婆は笑わず、俺の持ってきた水を受け取った。
その手の甲にも年季の入った皺がある。けれど、桶の重さを移す動きに無駄がない。俺が両手で持っていたものを、お妙婆は片手で位置を変え、もう片方の手で小さな柄杓を取った。
「畑の土も、下はまだ冷えが残っております」
「やっぱりか」
「ただ、植えられぬほどではございませぬ。急いで全部を決める必要もありませぬが、種の用意は今日見ておいた方がよろしいですな」
俺は畑を見た。
昨日の杭と縄が、朝の光の中で細い影を落としている。雑穀の区画。豆の区画。芋の区画。
言い出したのは俺だが、こうして見ると、逃げ道というより退路を断つための縄にも見える。
くろすけが畑の端へ行き、鼻先を土へ近づけた。
湿った匂いを嗅ぎ、次に山の斜面へ顔を向ける。昨日と同じ方角だ。そこには、ふきのとうより少し背の伸びた青いものや、丸まった若芽が点々と見えていた。
今すぐ採りに行けと言われている気がする。
採りに行くというより冒険したい感じだろうか。
もちろん、くろすけは何も言っていない。だが、袖を咥える三歩前の雰囲気がある。
「今日は畑の準備だ」
くろすけの耳が片方だけ動いた。
不服か、了解か、判断に困る耳だった。
土間へ戻ると、お妙婆が保存食置き場の戸を開けた。
薄暗い中に、味噌壺、塩漬けの壺、干した根菜の束、小袋に分けた豆や雑穀が並んでいる。まだ春先だから、冬を越した後の棚は少し寂しい。
寂しい棚を見ると、人間は急に真面目になる。腹が説教をしてくるからだ。
「食べる分と、種に回せる分を分けますぞ」
お妙婆は低い台にむしろを広げ、袋を一つずつ出していく。
小豆に似た赤い豆。黒っぽい豆。粒の小さい雑穀。去年の残りの芋は、芽が動き出しているものを別にしてあった。
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「米の代わりにするつもりはない」
「分かっております」
「飯は偉大だ。あれを否定したら、俺はこの村で生きていけない」
「そこまで大げさに申さずとも」
「いや、炊きたての飯は仏に近い」
お妙婆は豆を選り分けながら、呆れたように目を細めた。
「ありがたいものほど、少ない時に困りますでな」
その言葉は静かだった。
俺は雑穀の袋を手に取った。粒は小さく、指の間からこぼれそうになる。これだけを炊いても、きっと白米ほどの満足感はない。けれど、粥に混ぜれば腹持ちは増える。豆は煮れば汁に力が出る。芋はうまく育てば、米が少ない時に腹を埋めてくれる。
前世で、それをできなかった現場をいくつも見た。
一人の熟練者に全部の仕事を預け、ひとつの機械に全部の工程を背負わせ、壊れてから「なぜ止まった」と言う。なぜも何も、物は必ずいつか止まる。
そのためのバックアッププランを準備する必要がある。それがないと、大変なことになる。
飯でそれをやるのは、ちょっと怖い。
「若様、顔が変です」
「嫌なところへ行っていた。呼び戻してくれて助かった」
お妙婆は小さな竹ざるを三つ置いた。
「では、嫌でないところへ。これは食べる分。これは種に回す分。これは虫が入っておらぬか確かめる分」
「嫌ではないが、地味に手間だ」
「地味な手間で冬が少し楽になります」
勝てない。
俺は豆を指で転がし、割れたものを別にした。お妙婆は手早い。俺が一粒見ている間に、向こうは五粒選っている。
くろすけは土間の入口で伏せていたが、豆には興味が薄いらしい。鼻先を一度寄せ、肉ではないと判断した顔で顎を前足に乗せた。
「お前、食べ物への分類が大ざっぱすぎる。肉か、肉ではないか、だろ」
くろすけの尻尾が床を一度だけ叩いた。
否定ではなさそうだ。
昼には、朝の残りの粥へ雑穀を少し足して温め直した。
お妙婆が小鍋に水を差し、俺は加熱の生活魔法を弱くかける。強くやると底だけ熱くなって焦げる。生活魔法は便利だ。
鍋の蓋の隙間から湯気が上がった。
白い粥の中に、小さな粒が混じっている。ぷつぷつと泡が立ち、かまどの火にあたためられた味噌の香りが、土間にじんわり広がった。
お妙婆は、ふきのとう味噌を小皿に出す。昨日より少し油を足したのか、表面に薄く艶があった。
「畑の話をすると腹が減るな」
「手も動かしましたからな」
熱い粥をひと口すする。
米の甘みの後に、雑穀の香ばしさが少し遅れて来た。
粒が歯に当たり、柔らかい粥の中でぷちぷちと小さく主張する。
そこへ、ふきのとう味噌を箸先で落とす。
苦み。
味噌の塩気。
油の丸み。
春の冷えで縮んでいた腹の内側が、湯気でほどけるようだった。
「うまいな」
「なら、雑穀も悪くはないでしょう」
「白飯の座は譲らないが、粥の相棒としては有望だ」
お妙婆は満足そうに頷いた。
くろすけには、味をつけていない焼き魚の端と、ぬるくした湯が出される。くろすけは魚だけを先に食べ、湯は少し匂いを嗅いでから飲んだ。
その口元の毛が少し濡れる。
俺が布を取って拭こうとすると、くろすけは顔をそらした。
「待て。俺の袖で拭く気だったろ」
くろすけはそっと視線を外す。
分かっていてやる顔だ。
飯の後、俺たちはもう一度外へ出た。
畑は植えるにはまだ早い区画もある。お妙婆は土を握り、崩れ方を見て、ここはもう少し日に当てる、ここは浅く起こす、と決めていく。
俺は杭の位置を少し直した。昨日の俺の縄張りは、よく見ると芋の区画が沢側へ寄りすぎていた。水が多ければ腐る、とお妙婆が言う。
「失敗する前に直せるのはありがたい」
「失敗してから覚えることもございます」
「俺はできれば、飯が減らない失敗だけで学びたい」
「欲張りでございますな」
まったくだ。
ただ、欲張りでなければ、冬に贅沢をしようと思わない。
畑の端で、くろすけがふいに立ち上がった。
山の斜面へ向かい、鼻を高く上げる。風が下りてきて、青い匂いを運んできた。くろすけはいろいろな匂いをかぎ分けているのかもしれない。
くろすけは少し歩き出し、すぐにこちらを振り返った。
「今日は行かないぞ」
俺が言うと、くろすけは近づいてきて、俺の袖を軽く咥えた。
お妙婆が畑道具をまとめながら言う。
「明日は籠を持ちましょう。山の端だけなら、昼前に戻れます」
「山の端だけ、だな。奥へは行かない。俺は畑の手入れで忙しい予定だから」
「忙しい予定を、実際に忙しくいたしましょう」
逃げ道がまた一つ塞がれた。
けれど、悪くない塞がれ方だった。
俺は袖を咥えたままのくろすけの頭を、空いている手で撫でた。
冬毛の残った黒い毛は厚く、指が沈む。外側は冷たい風に当たって少しひんやりしているのに、奥には生き物の熱がある。くろすけは目を細め、袖を離さないまま、尻尾だけゆっくり揺らした。
沢の水は冷たい。
土もまだ冷えている。
今年の春は、少し寒い。
畑には、雑穀と豆と芋を植える。
山には、明日苦い春を少しもらいに行く。
ふきのとうは周りに生えているものを先に貰ってみそにしていたが、
ほかの山菜も顔を出しているころだろう。
俺がそう決めると、くろすけはようやく袖を離した。
袖には、濡れた口元の跡がしっかり残っていた。
「……やっぱり拭いてからにしてくれ」
お妙婆は何も言わず、明日の竹籠を土間の入口へ出していた。