異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
土間の入口に置かれた竹籠は、朝から俺を見張っていた。
昨夜、お妙婆が当然のように出しておいたものだ。
籠の横には小刀と手ぬぐい、竹筒に入れた白湯。
準備がよすぎる。
外は薄曇りだった。
雪は消えているが、山裾の朝風にはまだ冷たい芯が残っている。家の脇の畑では、昨日張り直した縄が湿った土の上に細い線を作っていた。
「今日は山の端だけだぞ」
俺が竹籠を背負いながら言うと、くろすけは戸口で尻尾を一度だけ揺らした。分かった、という揺れかもしれない。分かった上で守るとは言っていない、という揺れかもしれない。
お妙婆は前掛けを締め、腰に小さな籠を下げている。
「奥へは入りませぬ。山菜は、欲張ると毒草まで籠へ入りますでな」
山へ向かう道は、沢へ下りる道より少し乾いていた。
それでも日陰の土は黒く湿り、枯れ草の間から薄い緑の芽が顔を出していた。くろすけは先頭で風を嗅ぎ、厚い冬毛を揺らして歩く。
山の端に着くと、くろすけが斜面の下で鼻を鳴らした。
その鼻先の向こうに、ふきのとうがあった。少し開きかけた黄緑が土の間から顔を出している。近くには渦を巻いたこごみもいくつか見えた。
「これは食えそうだな」
俺が手を伸ばすと、お妙婆が横から小刀の背で俺の手首を軽く叩いた。
「根元を見て、古すぎぬものを選びなされ。開ききったものは苦みが強うございます」
俺は言われた通り、開きすぎていないふきのとうを指でそっと押さえ、小刀で根元を切った。
切った瞬間、青くて苦い匂いが立つ。籠へ入れると、ころん、と小さな音がした。
くろすけは少し先の斜面へ移り、前足で地面を軽く押した。
そこには、丸まったこごみが数本まとまっている。
「お前、山菜探しは本当にうまいな」
くろすけは俺を見上げ、耳を少し前へ向けた。山の中では、台所ほど気を抜かないらしい。
お妙婆がこごみを摘み、籠へ分けた。
「これは茹でて和え物にもできますな。汁に入れてもよろしゅうございます」
くろすけが急に俺の前へ回った。
俺の足元へ鼻先を下げ、次に前足で草の束を押しのける。
一見、柔らかそうな芽だった。俺は少しだけ手を伸ばしかけていた。
お妙婆が腰をかがめ、葉の形を見た。
「若様、それはやめておきなされ。似ておりますが、食べませぬ」
「くろすけ先生、助かった」
くろすけは草を押しのけた前足を一度振り、俺の脛へ軽く鼻をぶつけた。叱られた気がする。
少し上がったところには、うどの若い芽があった。
土から白っぽい茎がのぞき、薄緑の葉が縮こまっている。お妙婆は太すぎないものを選んで切った。
「これは酢味噌でもよいですが、今日は汁へ少し入れましょう。香りが立ちます」
「山菜汁か」
言った瞬間、腹が少し動いた。朝飯は食べてきたはずなのに、味噌と湯気と青い苦みを想像すると、腹は平然と次の要求を出してくる。
「若様、昼までには戻りますぞ」
お妙婆の声が、俺の妄想を切った。
「分かっている。山で腹を鳴らしても汁は出ない」
くろすけが振り返り、俺の腹のあたりを見た。
見なくていい。
山の端を一回りする間に、竹籠の底はふきのとうとこごみとうどで軽く埋まった。タラの芽も少しだけ見つけ、お妙婆は枝先を見て、採ってよいものを二つだけ選んだ。
「来年も出ますからな。全部取るものではございませぬ」
山菜採りは、見つけた分だけ勝ちではない。採らずに残す分を決めるのも仕事だった。
帰り道、斜面の湿った土で草履がずるりと流れた。すぐ横に来たくろすけの黒い肩が俺の膝に当たり、その重さで体が止まった。
「助かった」
くろすけは何も答えず、鼻先で俺の竹籠を押した。早く帰れ、ということらしい。
家に戻り、籠を低い台に置くと、ふきのとうの苦み、こごみの青さ、うどの少し土っぽい香りが混じって立つ。お妙婆はすぐ大きなざるを出した。
「若様、洗いを頼みます」
「了解。泥落とし係だな」
俺は桶に水を張り、指先に生活魔法を薄く通した。
水面に薄い揺れを作り、ふきのとうをそっとくぐらせる。泥がふわりと離れ、桶の底へ沈んだ。
「若様、ふきのとうはそちら。こごみはこちら。うどは皮を少し見ます」
お妙婆は、ふきのとうを開き具合で分け、こごみの傷んだところを外し、うどの硬い皮を薄く剥いた。
タラの芽は根元の硬いところだけを落とし、小皿へ避けておく。やはり知識ではかなわない。
「これ、全部今日食べるわけじゃないよな」
「もちろんでございます。少しは湯がいて水気を取ります。明日も食べられますし、もっと多く採れるようになったら干せるとよいのですが」
「干すか」
俺は土間の梁を見上げた。むしろを広げる場所はあるが、春は雨もあるし、土間ではくろすけの尻尾が危ない。
「乾燥棚がいるな。雨を避けて、風が通って、くろすけの尻尾が届かない高さ」
入口近くで伏せていたくろすけの耳がぴくぴく動いた。
「お前を疑っているわけじゃない。過去の実績を評価しているだけだ」
お妙婆が小鍋に湯を沸かしながら言う。
「若様、言い方を変えても同じでございます」
くろすけの尻尾が止まった。
湯が沸くと、山菜を順に入れた。ふきのとうは苦い香りを立て、こごみは緑を濃くする。うどは薄く切り、汁へ入れる分を残す。
俺は弱い乾燥魔法で、湯がいた山菜の表面の水気を取った。
水玉が葉の縁から落ち、ざるの上でつやが残る程度で止めた。
「加減が難しいな」
「早く済ませようとすると、だいたいまずくなります」
「耳が痛いな」
お妙婆は知らぬ顔で味噌壺を開けた。
かまどでは鍋が温まり、昨日汲んだ沢水がふつふつと泡を立て始める。だしは干した小魚を少し。そこへうどを入れると、土間の空気が急に春になった。
タラの芽は汁へ沈めず、味噌を薄く塗って火の縁で炙ることになった。油を張らず、表面の味噌が少し乾くくらいで止めるらしい。
味噌を溶くと、香りが丸くなる。
白い湯気に味噌の塩気と小魚のうまみ、ふきのとうの苦みが混じった。
お妙婆は最後にこごみを落とし、火を弱める。
くろすけが椀を覗きに来た。鼻先が湯気へ近づき、ひくひく動く。
「熱いから駄目だぞ」
言い終わる前に、お妙婆の手がくろすけの鼻先をやんわり押し戻した。
「くろすけ様には、別に冷ましたものを用意いたします。味噌の濃いものはなりませぬ」
くろすけは不満そうに耳を伏せたが、下がった。
神狼にも、台所の順番待ちはある。
ちょうどその時、戸口から源爺が顔を出した。山菜やきのこに詳しい老人で、手には細い枝を束ねたものを持っている。
「源爺、どうした」
「山の端に若様とくろすけ様の足跡があったものでな。採りすぎておらんか、見に来ただけでございます」
「信用がないな」
「山菜は、若い衆でも欲張りますからな」
源爺は土間に広げたざるを見て、ふむ、と頷いた。
「これならよろしい。こごみはもう少し出ます。沢の向こうは、今年はまだ遅いですな」
「沢の向こうは行かない。今日は山の端だけだ」
「それがよろしい。若様は山道で転びそうなお顔をしておられる」
「顔で足腰を判断されるのか、俺は」
源爺は笑い、お妙婆から山菜汁の小椀を受け取ると、湯気に目を細めた。
「春の匂いですな」
俺も椀を受け取る。
熱い椀を両手で包むと、指先にじんわりと温かさが戻った。汁には、こごみの緑とうどの白、刻んだふきのとうが少し混じっている。
まず、汁をすする。
味噌の塩気と小魚のだしの後、ふきのとうの苦みが舌の奥へ上がった。
苦い。
けれど嫌な苦さではない。冬の間、鈍くなっていた体の内側を、軽く叩いて起こすような苦みだ。
うどはしゃくりと歯に当たり、香りが鼻へ抜ける。こごみは柔らかく、青さが少し残る。
「……うまい」
素直に出た。
お妙婆は何も言わず、椀に少しだけ粥を添えた。
粥を一口食べてから汁をすすると、米と雑穀の甘みが苦みを受け止める。味噌の香りが腹へ落ち、冷えていた背中まで温まる。
春の山は、口の中で思ったより賑やかだった。
小皿のタラの芽にも箸を伸ばす。
薄く塗った味噌が端で少し焦げ、青い香りに香ばしさが混じっていた。噛むと、ほろ苦さが先に立ち、あとから味噌の塩気と芽のほくっとした甘みが来る。
くろすけには、味を薄くして冷ました汁と小魚のほぐし身が出た。山菜の味は好みではないらしいが、少しもらえたことには満足したのか、器の横で伏せた。
源爺は椀を空にし、手の中で温めるように持ったまま言う。
「米もよいが、春はこういう苦みで腹を起こすものでございます。山のものは腹いっぱいにはなりませぬが、粥に添えると心が違う」
俺は椀の底に残った汁を飲み干した。
味噌の粒が少し舌に残り、ふきのとうの苦みが後を引く。腹の中が温かい。
食後、ざるには湯がいた山菜が少し残っていた。
お妙婆はそれを見て、指先で水気を確かめる。
「今日はこのまま使えます。けれど、採れる時に少し干せれば、冬の汁に戻せますな」
「乾燥棚か」
俺は土間の外へ目を向けた。
物置の横なら雨は避けられ、風も通る。棚の高さはお妙婆の腰に合わせたい。材料は、細い枝と竹で足りるかもしれない。
考え始めた時点で、めんどくささと工作のわくわく感がある。
「若様、顔が仕事を見つけた顔でございます」
「違う。仕事に見つかった顔だ」
お妙婆は少しだけ笑った。
源爺も喉の奥で笑い、持ってきた枝の束を置いた。
「乾かすなら、風の道を塞がぬようになされ。枝は、これが軽くてよい」
「助かる。だが今日は作らないぞ」
くろすけが伏せたまま、尻尾を一度だけ床に当てた。
とん、と乾いた音がした。
俺はその音を聞きながら、椀を洗うために立ち上がった。
春の山菜汁はうまかった。
うまかったが、うまいものは必ず次の手間を連れてくる。
明日はきっと、物置の横の風通しを見ることになる。
山菜の苦みが、腹の中でまだ温かく残っていた。
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