異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第5話 綿角もこが来た

翌朝、物置の横は、思ったより風が通っていた。

 

山から下りてくる春の風が、薪小屋の角をなでて、物置の壁沿いに抜けていく。

お妙婆は、湯がいた山菜を薄く広げたざるを手に、風の向きを確かめている。

 

「ここなら雨は避けられそうですな」

 

俺は物置の壁と軒の高さを見た。乾燥棚を本格的に作るのは後としても、場所だけは決めておきたい。

春の山菜は採れる時期が短い。干せる場所があるかないかで冬の汁の具が変わるなら、今の面倒にも少し意味が出る。

面倒と意味は、いつも仲が悪いくせに一緒に来る。

 

くろすけは、物置の横ではなく畑の端にいた。

 

「くろすけ、畝の中には入るなよ」

 

耳だけがこちらを向いた。

分かっている時の耳だと思いたい。

 

その耳が、ふいにぴんと立った。

くろすけは畑の端の背の高い草むらへ顔を向け、鼻先を低くした。尻尾の動きが止まる。狩りの時ほど鋭くはないが、何かを見つけた時の姿勢だった。

 

「何だ」

 

俺が近づくと、草むらの向こうで、白っぽいものがもそりと動いた。

最初は、丸めた古い綿でも落ちているのかと思った。

いや、さすがにあの大きさの綿は落ちていない。

 

それは羊に似ていた。

けれど、俺の知っている羊そのものではない。頭の横に、丸く巻いた小さな角がある。毛は厚く、ところどころ泥で固まり、草の種や枯れ葉が絡んでいた。体は小柄だが、毛のせいで実際より丸く見える。

白と灰色の間の毛玉が、畑の端の柔らかい草をもそもそ噛んでいた。

 

「……何だ、あれ」

 

くろすけは草むらの少し手前で止まり、前足をそろえて伏せた。

飛びかかる気配はない。

狩りの相手ではない、という判断らしい。だが目は離さない。

黒い神狼が無言で見張ると、畑の端の空気が少し引き締まる。

 

毛玉は、くろすけに気づいたのか、びくりと肩を揺らした。

逃げようとして、一歩踏み出す。

その足が、ぐらりと揺れた。

毛玉は草の上でよろけ、尻を少し落とす。細い足首のあたりに泥がこびりつき、毛も重そうだった。

 

「弱ってるな」

 

言った瞬間、お妙婆が家の方から歩いてきた。

手には水の入った小桶と、刈ったばかりの柔らかい草を少し持っている。

 

早い。

 

驚く前に世話の道具が出てくるあたり、この時代の年寄りは強い。

年寄りを見たら生き残りと思えとはことのことか……。

 

「若様、近づきすぎませぬよう。怯えさせます」

 

「了解。くろすけも待て」

 

くろすけは伏せたまま、尻尾の先だけを一度動かした。

毛玉は、お妙婆の持つ草の匂いに鼻を動かす。小さく、めえ、と鳴いた。羊に似た声だが、少し鼻にかかった柔らかい音だった。

その声だけで、こちらを警戒しているのは十分に分かる。

 

お妙婆は草を手前に置き、水桶を少し離して置いた。

毛玉は迷うように足踏みをし、くろすけを見て、俺を見て、それから草へ鼻を近づけた。

一口、噛む。

もそもそ。

また一口。

 

「食べる元気はあるか」

 

「まずはよろしゅうございます」

 

毛玉が草を噛むたびに、絡まった毛が揺れた。泥の固まりがぽろりと落ち、下の毛が少し引きつれている。濡れた毛の匂いと、獣の体温の匂いが混じる。

見た目は丸くて可愛い。だが、世話が行き届いていない生き物の匂いは、可愛いだけでは済まない。

 

「洗うか」

 

「冷たい水では弱ります。ぬるい湯を出してください」

 

「はいはい。俺の生活魔法、こういう時だけ評価が高い」

 

「こういう時に使えるなら、十分でございます」

 

俺は土間から桶をもう一つ持ってきて、沢水を少し張った。指先に加熱の生活魔法を通し、冷たい水を人肌より少しぬるいくらいまで温める。

 

毛玉は草を食べながら、時々こちらをうかがう。

くろすけは少し離れて伏せている。黒い体を低くし、山の方へも時々目を向けていた。見張りの姿勢だ。

 

「お前、今日は偉いな」

 

くろすけの耳が動く。

その横顔は、当然だと言っているように見えた。

 

ぬるい湯を布に含ませ、まず足元の泥から取ることにした。

俺が手を伸ばすと、毛玉はびくりと跳ねた。だが逃げる足に力がない。お妙婆が草を少し近くへ寄せ、声を低くする。

 

「大丈夫でございますよ。じっとしておりなされ」

 

毛玉はめえ、と鳴いて、前足を細かく踏んだ。

言葉が通じているわけではないだろう。けれど声の調子と草の匂いで、少しだけ落ち着いたらしい。

 

俺は泥の固まった毛を、布で少しずつ湿らせた。

こすらない。

浮いた泥を指でほぐし、生活魔法の洗浄を薄く通す。水が毛の間へ入り、汚れをゆるめる。茶色い水が布へ移り、下から柔らかい白っぽい毛が出てきた。

 

「これは、洗うだけでも一仕事だな」

 

「毛が厚いですからな。中まで湿らせすぎると乾きませぬ」

 

「乾かしすぎても皮膚に悪そうだ」

 

「若様、珍しく慎重でございます」

 

「珍しくは余計だ。生き物相手に失敗したら、誰に怒られるか目に見えている」

 

お妙婆が何も言わずにこちらを見た。

はい、あなたです。

 

前足、腹の下、首の横。

汚れの強いところだけを洗い、乾いた布で押さえる。弱い乾燥魔法をかけたいところだが、毛の奥まで一気に乾かすのは怖い。

表面の水気だけを軽く飛ばし、あとは風に任せる。

 

そう思った瞬間、毛玉が俺の袖をもそりと噛んだ。

 

「おい」

 

噛む力は弱い。引きちぎる気はなく、ただ布を口で確かめるような噛み方だった。濡れた鼻先が手首に当たり、温かい息がかかる。

くろすけが顔を上げた。

毛玉は袖を噛んだまま、めえ、と小さく鳴く。

 

「礼なのか、文句なのか、布の味見なのか」

 

お妙婆が少し笑った。

 

「少なくとも、先ほどよりは落ち着いたようでございます」

 

ちょうどその時、畑道の方から源爺がやって来た。

昨日置いていった細枝の様子でも見に来たのかと思ったが、畑の端の毛玉を見るなり、目を丸くした。

 

「おや。綿角ではございませぬか」

 

「めんかく?」

 

「綿の角と書いて綿角でございます。山の草地や人里近くで、細々と飼われることもある生き物ですな。寒さには強いが、毛の手入れを怠ると弱ります」

 

源爺は腰をかがめ、少し離れたところから毛玉の足元を見る。

 

「誰かのものか」

 

「首縄も焼き印も見えませぬな。山向こうで飼われていたものが迷ったか、群れから外れたか。すぐには分かりませぬ」

 

「米井村の山にこんなものいたのか?」

 

「若様はくろすけ様と暮らしておられるのに、今さらでございますか」

 

それを言われると弱い。

神狼と暮らしている人間が、丸い角の毛玉に驚いている。世界への適応にむらがある。

 

綿角は、源爺の声に耳を動かしたが、袖は離さなかった。

むしろ、もう少し奥を噛もうとしてくる。

 

「こら、袖は草じゃない」

 

綿角は、もそもそと口を動かす。

その丸い体、汚れを落としたところだけふわりと浮いた毛、のんびりした噛み方。

名前がないと呼びにくい。

綿角、では種の名だ。こいつ自身を呼ぶには少し硬い。

 

「……もこ」

 

口から出た。

 

お妙婆がこちらを見る。

 

「若様」

 

「見た目のままだ。文句は受け付けるが、代案がないなら採用する」

 

綿角は袖を噛んだまま、めえ、と鳴いた。

反対ではなさそうだ。賛成かどうかも分からない。だが少なくとも、袖の評価は高い。

 

「もこ、袖は離せ」

 

もこは離さなかった。

くろすけの尻尾が、草の上で一度だけ動く。笑われた気がした。

 

「くろすけ、お前も昔は俺の袖を噛んでいただろ」

 

くろすけはそっと視線を外した。

都合の悪い過去には、神狼も沈黙する。

 

お妙婆は水桶を片づけながら、家の方を見た。

 

「若様。このまま畑の端へ置くわけにはまいりませぬ」

 

「だよな」

 

「今夜だけでも、雨風の当たらぬところが要ります。干し草も少し。水桶は低めがよろしゅうございます」

 

「物置の横は乾燥棚候補だったはずなんだが」

 

「候補は増えるものでございます」

 

「生き物も増えるか...」

 

負けた。

乾燥棚の前に、毛玉の置き場である。

 

源爺は、少し考えてから言った。

 

「古いむしろを敷いて、風を避けられるだけでも今夜は違います。草は沢道の脇に柔らかいものがありますが、濡れたものは避けなされ」

 

「了解。濡れ草は腹を冷やしそうだ」

 

俺はもこに袖を噛まれたまま立とうとして、動けなかった。

もこが一歩ついてこようとして、また足元をふらつかせる。慌てて腰を落とし支えた。

厚い毛の奥に、思ったより細い体がある。

見た目は丸いが、中身まで丸いわけではない。

 

「まずは休ませるか」

 

お妙婆が頷いた。

くろすけは立ち上がり、物置の横へ歩いていく。鼻先で地面を嗅ぎ、風上を見て、それから俺たちを振り返った。

そこがいい、と言っているように見える。

 

「分かった。そこに仮の場所を作る」

 

くろすけは返事をしない。

ただ、物置の横で伏せ、山の方へ顔を向けた。

 

昼は、昨日の山菜を刻んだ味噌を粥にのせて食べた。

かまどの湯気に、味噌と青い苦みが混じる。こごみを少し入れた粥は、柔らかい米と雑穀の中に春の歯触りが残っていた。

俺は椀を持ったまま、物置の横を見る。

 

もこは古いむしろの上に伏せ、干し草を少しずつ噛んでいる。洗った足元の毛はまだ少し湿っているが、泥の固まりは取れた。

くろすけは少し離れて伏せ、もこの周りと山の方を交互に見ている。

 

「飯の逃げ道を作っていたら、毛がたどってきたかな」

 

お妙婆は干し草を置く場所をもう考えている顔だった。

 

俺は粥をすする。

味噌の香りと山菜の苦みが、腹の中へ落ちる。温かい。

温かいが、視界の端では毛玉が草を噛み、黒い神狼が番をしている。

 

別宅の暮らしに、くろすけとは違うもう一つのもふもふが加わった。

かわいい。

そして、ものすごく手間がかかりそうだった。

 

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