異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
翌朝、物置の横は、思ったより風が通っていた。
山から下りてくる春の風が、薪小屋の角をなでて、物置の壁沿いに抜けていく。
お妙婆は、湯がいた山菜を薄く広げたざるを手に、風の向きを確かめている。
「ここなら雨は避けられそうですな」
俺は物置の壁と軒の高さを見た。乾燥棚を本格的に作るのは後としても、場所だけは決めておきたい。
春の山菜は採れる時期が短い。干せる場所があるかないかで冬の汁の具が変わるなら、今の面倒にも少し意味が出る。
面倒と意味は、いつも仲が悪いくせに一緒に来る。
くろすけは、物置の横ではなく畑の端にいた。
「くろすけ、畝の中には入るなよ」
耳だけがこちらを向いた。
分かっている時の耳だと思いたい。
その耳が、ふいにぴんと立った。
くろすけは畑の端の背の高い草むらへ顔を向け、鼻先を低くした。尻尾の動きが止まる。狩りの時ほど鋭くはないが、何かを見つけた時の姿勢だった。
「何だ」
俺が近づくと、草むらの向こうで、白っぽいものがもそりと動いた。
最初は、丸めた古い綿でも落ちているのかと思った。
いや、さすがにあの大きさの綿は落ちていない。
それは羊に似ていた。
けれど、俺の知っている羊そのものではない。頭の横に、丸く巻いた小さな角がある。毛は厚く、ところどころ泥で固まり、草の種や枯れ葉が絡んでいた。体は小柄だが、毛のせいで実際より丸く見える。
白と灰色の間の毛玉が、畑の端の柔らかい草をもそもそ噛んでいた。
「……何だ、あれ」
くろすけは草むらの少し手前で止まり、前足をそろえて伏せた。
飛びかかる気配はない。
狩りの相手ではない、という判断らしい。だが目は離さない。
黒い神狼が無言で見張ると、畑の端の空気が少し引き締まる。
毛玉は、くろすけに気づいたのか、びくりと肩を揺らした。
逃げようとして、一歩踏み出す。
その足が、ぐらりと揺れた。
毛玉は草の上でよろけ、尻を少し落とす。細い足首のあたりに泥がこびりつき、毛も重そうだった。
「弱ってるな」
言った瞬間、お妙婆が家の方から歩いてきた。
手には水の入った小桶と、刈ったばかりの柔らかい草を少し持っている。
早い。
驚く前に世話の道具が出てくるあたり、この時代の年寄りは強い。
年寄りを見たら生き残りと思えとはことのことか……。
「若様、近づきすぎませぬよう。怯えさせます」
「了解。くろすけも待て」
くろすけは伏せたまま、尻尾の先だけを一度動かした。
毛玉は、お妙婆の持つ草の匂いに鼻を動かす。小さく、めえ、と鳴いた。羊に似た声だが、少し鼻にかかった柔らかい音だった。
その声だけで、こちらを警戒しているのは十分に分かる。
お妙婆は草を手前に置き、水桶を少し離して置いた。
毛玉は迷うように足踏みをし、くろすけを見て、俺を見て、それから草へ鼻を近づけた。
一口、噛む。
もそもそ。
また一口。
「食べる元気はあるか」
「まずはよろしゅうございます」
毛玉が草を噛むたびに、絡まった毛が揺れた。泥の固まりがぽろりと落ち、下の毛が少し引きつれている。濡れた毛の匂いと、獣の体温の匂いが混じる。
見た目は丸くて可愛い。だが、世話が行き届いていない生き物の匂いは、可愛いだけでは済まない。
「洗うか」
「冷たい水では弱ります。ぬるい湯を出してください」
「はいはい。俺の生活魔法、こういう時だけ評価が高い」
「こういう時に使えるなら、十分でございます」
俺は土間から桶をもう一つ持ってきて、沢水を少し張った。指先に加熱の生活魔法を通し、冷たい水を人肌より少しぬるいくらいまで温める。
毛玉は草を食べながら、時々こちらをうかがう。
くろすけは少し離れて伏せている。黒い体を低くし、山の方へも時々目を向けていた。見張りの姿勢だ。
「お前、今日は偉いな」
くろすけの耳が動く。
その横顔は、当然だと言っているように見えた。
ぬるい湯を布に含ませ、まず足元の泥から取ることにした。
俺が手を伸ばすと、毛玉はびくりと跳ねた。だが逃げる足に力がない。お妙婆が草を少し近くへ寄せ、声を低くする。
「大丈夫でございますよ。じっとしておりなされ」
毛玉はめえ、と鳴いて、前足を細かく踏んだ。
言葉が通じているわけではないだろう。けれど声の調子と草の匂いで、少しだけ落ち着いたらしい。
俺は泥の固まった毛を、布で少しずつ湿らせた。
こすらない。
浮いた泥を指でほぐし、生活魔法の洗浄を薄く通す。水が毛の間へ入り、汚れをゆるめる。茶色い水が布へ移り、下から柔らかい白っぽい毛が出てきた。
「これは、洗うだけでも一仕事だな」
「毛が厚いですからな。中まで湿らせすぎると乾きませぬ」
「乾かしすぎても皮膚に悪そうだ」
「若様、珍しく慎重でございます」
「珍しくは余計だ。生き物相手に失敗したら、誰に怒られるか目に見えている」
お妙婆が何も言わずにこちらを見た。
はい、あなたです。
前足、腹の下、首の横。
汚れの強いところだけを洗い、乾いた布で押さえる。弱い乾燥魔法をかけたいところだが、毛の奥まで一気に乾かすのは怖い。
表面の水気だけを軽く飛ばし、あとは風に任せる。
そう思った瞬間、毛玉が俺の袖をもそりと噛んだ。
「おい」
噛む力は弱い。引きちぎる気はなく、ただ布を口で確かめるような噛み方だった。濡れた鼻先が手首に当たり、温かい息がかかる。
くろすけが顔を上げた。
毛玉は袖を噛んだまま、めえ、と小さく鳴く。
「礼なのか、文句なのか、布の味見なのか」
お妙婆が少し笑った。
「少なくとも、先ほどよりは落ち着いたようでございます」
ちょうどその時、畑道の方から源爺がやって来た。
昨日置いていった細枝の様子でも見に来たのかと思ったが、畑の端の毛玉を見るなり、目を丸くした。
「おや。綿角ではございませぬか」
「めんかく?」
「綿の角と書いて綿角でございます。山の草地や人里近くで、細々と飼われることもある生き物ですな。寒さには強いが、毛の手入れを怠ると弱ります」
源爺は腰をかがめ、少し離れたところから毛玉の足元を見る。
「誰かのものか」
「首縄も焼き印も見えませぬな。山向こうで飼われていたものが迷ったか、群れから外れたか。すぐには分かりませぬ」
「米井村の山にこんなものいたのか?」
「若様はくろすけ様と暮らしておられるのに、今さらでございますか」
それを言われると弱い。
神狼と暮らしている人間が、丸い角の毛玉に驚いている。世界への適応にむらがある。
綿角は、源爺の声に耳を動かしたが、袖は離さなかった。
むしろ、もう少し奥を噛もうとしてくる。
「こら、袖は草じゃない」
綿角は、もそもそと口を動かす。
その丸い体、汚れを落としたところだけふわりと浮いた毛、のんびりした噛み方。
名前がないと呼びにくい。
綿角、では種の名だ。こいつ自身を呼ぶには少し硬い。
「……もこ」
口から出た。
お妙婆がこちらを見る。
「若様」
「見た目のままだ。文句は受け付けるが、代案がないなら採用する」
綿角は袖を噛んだまま、めえ、と鳴いた。
反対ではなさそうだ。賛成かどうかも分からない。だが少なくとも、袖の評価は高い。
「もこ、袖は離せ」
もこは離さなかった。
くろすけの尻尾が、草の上で一度だけ動く。笑われた気がした。
「くろすけ、お前も昔は俺の袖を噛んでいただろ」
くろすけはそっと視線を外した。
都合の悪い過去には、神狼も沈黙する。
お妙婆は水桶を片づけながら、家の方を見た。
「若様。このまま畑の端へ置くわけにはまいりませぬ」
「だよな」
「今夜だけでも、雨風の当たらぬところが要ります。干し草も少し。水桶は低めがよろしゅうございます」
「物置の横は乾燥棚候補だったはずなんだが」
「候補は増えるものでございます」
「生き物も増えるか...」
負けた。
乾燥棚の前に、毛玉の置き場である。
源爺は、少し考えてから言った。
「古いむしろを敷いて、風を避けられるだけでも今夜は違います。草は沢道の脇に柔らかいものがありますが、濡れたものは避けなされ」
「了解。濡れ草は腹を冷やしそうだ」
俺はもこに袖を噛まれたまま立とうとして、動けなかった。
もこが一歩ついてこようとして、また足元をふらつかせる。慌てて腰を落とし支えた。
厚い毛の奥に、思ったより細い体がある。
見た目は丸いが、中身まで丸いわけではない。
「まずは休ませるか」
お妙婆が頷いた。
くろすけは立ち上がり、物置の横へ歩いていく。鼻先で地面を嗅ぎ、風上を見て、それから俺たちを振り返った。
そこがいい、と言っているように見える。
「分かった。そこに仮の場所を作る」
くろすけは返事をしない。
ただ、物置の横で伏せ、山の方へ顔を向けた。
昼は、昨日の山菜を刻んだ味噌を粥にのせて食べた。
かまどの湯気に、味噌と青い苦みが混じる。こごみを少し入れた粥は、柔らかい米と雑穀の中に春の歯触りが残っていた。
俺は椀を持ったまま、物置の横を見る。
もこは古いむしろの上に伏せ、干し草を少しずつ噛んでいる。洗った足元の毛はまだ少し湿っているが、泥の固まりは取れた。
くろすけは少し離れて伏せ、もこの周りと山の方を交互に見ている。
「飯の逃げ道を作っていたら、毛がたどってきたかな」
お妙婆は干し草を置く場所をもう考えている顔だった。
俺は粥をすする。
味噌の香りと山菜の苦みが、腹の中へ落ちる。温かい。
温かいが、視界の端では毛玉が草を噛み、黒い神狼が番をしている。
別宅の暮らしに、くろすけとは違うもう一つのもふもふが加わった。
かわいい。
そして、ものすごく手間がかかりそうだった。