異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~   作:瑞牆さん

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第8話 庄屋には小さく話す

春の風はまだ少し冷たいが、陽の当たる道端には若草の匂いが出てきていた。

俺は山裾の別宅から村の中心へ向かう道を歩きながら、何度目かのため息をついた。

 

昨日、自宅畑へ雑穀、豆、芋を植えた。

植えたからには世話をするしかない。そこまでは、まあいい。よくはないが、俺が決めたことだ。

問題は、村に何も言わずにいると、後で妙な形で話が膨らむことだった。

 

「若様、足が鈍っておりますよ」

 

後ろからお妙婆の声が飛ぶ。

お妙婆は小さな包みを背負い、俺よりよほど足取りが軽い。中身は庄屋への手土産で、朝に焼いた粥の平たい塊と山菜味噌だ。

 

「仕事が増える予感がする」

 

「相談に行かずに揉めるよりは、ようございます」

 

それはそうだ。

 

くろすけは俺の横を歩いていた。

黒い毛に春の光が乗り、足元の土を踏む音はほとんどしない。たまに道端の草へ鼻を寄せ、また何事もなかったように戻ってくる。

もこは家で留守番だ。

小屋に干し草を多めに入れ、水桶も洗ってきた。村の真ん中で、綿の塊が庄屋の庭を食い荒らすのも困る。

 

庄屋の家は、村の道が少し広くなったところにある。

門田甚兵衛の家は、立派ではあるが、領主屋敷のような堅さはない。庭先には農具が干され、縁側には編みかけの縄が置かれ、土間からは大根を刻むような音がした。

 

俺が門の前に立つと、中から甚兵衛さんが出てきた。

白髪交じりの髪を後ろでまとめ、腰は少し曲がっているが、目はよく動く。

 

「若様。お妙婆様も。これはまた、朝から」

 

甚兵衛さんは俺に頭を下げ、それからくろすけを見て、さらに深く頭を下げた。

 

「くろすけ様も、お越しで」

 

くろすけは縁側の方を一度見てから、庭の端へ行き、そこで伏せた。

ただ伏せただけなのに、庄屋の家の奥で犬の鳴き声が一つ止まった。さっきまで短く吠えていたはずなのに、今は物音もしない。

 

「……ご無理はなさらんでよろしいので」

 

甚兵衛さんが家の奥へ向けて言った。誰に言ったのかは知らない。たぶん犬だ。

 

俺たちは縁側に通された。

お妙婆が包みを開くと、焼いた粥の香ばしい匂いと山菜味噌の苦い匂いが、春の風に混ざった。甚兵衛さんの表情が少し緩む。

 

「これはありがたい。山菜味噌ですな」

 

「朝の残りで申し訳ないですが」

 

庄屋の家の女衆がお茶を出してくれた。湯気の立つ茶碗を受け取ると、指先がじんわり温まる。

春とはいえ、座っていると膝から冷えてくる。地面の下にはまだ冬の湿り気が残っている。

 

「それで、若様。今日は田のことでございましょうか」

 

甚兵衛さんは茶を置き、声を少し低くした。

身構えている。

無理もない。領主家の三男が、神狼を連れて朝から庄屋の家へ来たのだ。米の作付けを変えろとか、そういう面倒な話だと思われても仕方ない。

 

「田ではない。口を出す話でもない」

 

俺が先に言うと、甚兵衛さんの肩がほんの少し落ちた。

その落ち方が正直すぎて、俺は少し笑いそうになった。

 

「うちの自宅畑の話だ。今年、雑穀と豆と芋を植えた。米の代わりに村中へ広げる話ではない。俺とお妙婆で世話できる範囲で、米を助ける作物を小さく試すだけだ」

 

甚兵衛さんは俺の顔を見て、お妙婆の顔を見た。

 

「雑穀、豆、芋だけでございますか。菜は」

 

「山菜もあるし、交換もできる。食卓から消す気はない。けれど、今年の春は少し冷えるだろう。米だけに腹を預けるのが、少し気になった」

 

「こち*1の話で?」

 

「そこまで大げさにするつもりはない。春が少し寒い年くらい、これまでもあったはずだ。ただ、寒いなと思った時に何もしないで、夏に困ってから慌てるのは嫌だ」

 

俺は茶碗の湯気を見た。

 

「何かあった時に、椀へ混ぜるものが少しある。それくらいの話だ」

 

甚兵衛さんはしばらく黙っていた。

庭の端でくろすけが耳を動かす。奥の犬はまだ静かだ。たぶん、息だけしている。

 

「若様のお家の畑で試すなら、好きになさればよろしいかと」

 

甚兵衛さんは、ようやくそう言った。

 

「ただ、村の者は見ますぞ。若様が畑にいつもと違うものを入れたとなれば、何事かと」

 

「だから先に来た。勝手に噂で膨らむと、面倒になる」

 

「面倒、でございますか」

 

「面倒だ。俺が米を見限ったとか、村の作付けを変えるとか、田吾作爺の仕事に文句をつけたとか、そういう話になったら最悪だろう」

 

「それは、まあ」

 

甚兵衛さんは苦笑した。

 

お妙婆が横から口を挟む。

 

「畑は、若様とわたくしで世話できる範囲でございます。昨日、雑穀、豆、芋を入れましたが、草取りも水の具合も、これからでございます。大勢の手を借りて広げる段ではございません」

 

「種も、村へ配るほどはない」

 

俺は頷く。

 

「うまくいくかも分からない。土に合わないかもしれないし、虫に食われるかもしれないし、俺が草取りから逃げるかもしれない」

 

「最後のは若様次第でございます」

 

お妙婆が即座に刺してきた。

甚兵衛さんが声を立てて笑った。

 

「それなら安心しました。いや、変ですが」

 

「安心していい。俺は村全体を動かすほど勤勉じゃない」

 

「そこを胸を張られましても」

 

庄屋の家の女衆が、焼き魚と味噌汁と米の贅沢な食事をもってきてくれた。

 

「先に食べてから話すか」

 

「若様、相談に来たのでございますよ」

 

「腹が空くと判断が雑になる。前世でも今世でも同じだ」

 

お妙婆は呆れた顔をしながらも、自分も一つ取った。

甚兵衛さんも箸をつける。

 

焼き魚ははたはたの丸干しのようで身は小さいのに味が濃い。ほろっとした白身に、干物らしい塩気と内臓まわりのほろ苦さが混じって、派手ではないけど妙に後を引く。頭からいけるところはいって、骨の硬いところだけ少し避ける。

 

味噌汁、米と合わさって最高の贅沢だ。

 

くろすけが顔を上げた。

匂いにつられたらしい。

大好きな魚を俺にもよこせ、といった感じか。

甚兵衛さんが家の者に何かを頼むと、身を崩して粥と混ぜたものが出てきた。

 

「くろすけ様へ、粗末なものですが」

 

くろすけは俺を見た。

俺が頷くと、静かに起きて小皿の前へ来る。ガツガツ食べ始めて、一瞬で食べ終えている。皿を舐め回す前にお妙婆に見られて、何事もなかったように庭の端へ戻った。

 

「賢いですなあ」

 

甚兵衛さんが感心した。

 

「賢いが、たまに畑の縄を咥えて歩く」

 

「それは、畑の守りをしたかったのでございましょう」

 

「結果的に線はまっすぐだった。そこが腹立たしい」

 

甚兵衛さんはまた笑った。

笑いが出ると、場の固さが抜けた。

 

「若様。ひとつ、お願いしてもよろしいか」

 

来た。

俺は茶碗を置いた。

 

「村全体へ広げる話はしない」

 

「そこではございません。うまくいったら、食べ方を教えていただきたい」

 

甚兵衛さんは真面目な顔で言った。

 

「雑穀も豆も芋も、村に全くないものではございません。ただ、米が少ない時は、どうしても寂しい飯になる。若様のお家で、腹にたまる食べ方が見えれば、来年の話がしやすくなります」

 

俺は天井を見た。

春の薄い光が軒の下を斜めに切っている。

 

「……面倒が増えた」

 

「増えましたな」

 

お妙婆が涼しい顔で茶を飲む。

 

「まだ収穫もしていないのに、食べ方の宿題か」

 

「飯の話は、畑より先に口が動きますので」

 

「分かった。ただし、小さく試す。うちで食べる。余裕があれば少し味見してもらう。それだけだ」

 

「十分でございます」

 

「それから、田吾作爺には俺からも伝える。米を軽んじたわけではないと」

 

「それはよろしいかと。田吾作爺は頑固ですが、筋を通せば怒鳴るだけで済みます」

 

「怒鳴るのは確定なのか」

 

「声が大きいだけでございます」

 

お妙婆が包みの残りを畳みながら、ぽつりと言った。

 

「田の飯も、畑の飯も、腹に入れば人を動かします。どちらが上という話ではございません」

 

 

相談は、思ったより平和に終わった。

庄屋は村の者に、若様の自宅畑で小さく試すだけだと伝えてくれるという。俺は、まだ人手も種も求めない、収穫前に広げない、と何度も念を押した。

念を押しすぎて、最後には笑われた。

 

帰り道、くろすけは行きより少し機嫌がいいように見えた。

はたはたをもらったからか、尻尾がゆっくり揺れている。

 

「小さく済んだな」

 

俺が言うと、お妙婆が隣で歩きながら答えた。

 

「食べ方を考える仕事が増えました」

 

「聞こえない」

 

「若様」

 

「聞こえた」

 

山裾の別宅が見えてくると、物置横から、もこの鳴き声がした。

めえ、と一度だけ。

小屋の入口から白い毛の塊が顔を出し、口には干し草がはみ出している。留守番の不満か、単にこちらを見つけただけかは分からない。

 

くろすけが先に駆け、もこの小屋の前で止まった。

もこは毛を少し膨らませ、また干し草を噛み始める。

 

俺は畑の方を見た。

木札が春風に揺れている。雑穀、豆、芋。土の下では、まだ何も見えない。

だが、見えないうちに話だけは小さく通した。

 

「さて、次は山菜の乾かし場か」

 

お妙婆が何気なく言った。

 

俺は畑から物置横へ視線を移す。

 

くろすけが俺の袖を軽く咥えた。

もこが干し草を噛みながら、めえと鳴いた。

 

「お前ら、俺を働かせる相談だけは妙に早いな」

 

 

*1
東から吹く冷たい冷風、たびたび飢饉を起こした

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