異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
春の風はまだ少し冷たいが、陽の当たる道端には若草の匂いが出てきていた。
俺は山裾の別宅から村の中心へ向かう道を歩きながら、何度目かのため息をついた。
昨日、自宅畑へ雑穀、豆、芋を植えた。
植えたからには世話をするしかない。そこまでは、まあいい。よくはないが、俺が決めたことだ。
問題は、村に何も言わずにいると、後で妙な形で話が膨らむことだった。
「若様、足が鈍っておりますよ」
後ろからお妙婆の声が飛ぶ。
お妙婆は小さな包みを背負い、俺よりよほど足取りが軽い。中身は庄屋への手土産で、朝に焼いた粥の平たい塊と山菜味噌だ。
「仕事が増える予感がする」
「相談に行かずに揉めるよりは、ようございます」
それはそうだ。
くろすけは俺の横を歩いていた。
黒い毛に春の光が乗り、足元の土を踏む音はほとんどしない。たまに道端の草へ鼻を寄せ、また何事もなかったように戻ってくる。
もこは家で留守番だ。
小屋に干し草を多めに入れ、水桶も洗ってきた。村の真ん中で、綿の塊が庄屋の庭を食い荒らすのも困る。
庄屋の家は、村の道が少し広くなったところにある。
門田甚兵衛の家は、立派ではあるが、領主屋敷のような堅さはない。庭先には農具が干され、縁側には編みかけの縄が置かれ、土間からは大根を刻むような音がした。
俺が門の前に立つと、中から甚兵衛さんが出てきた。
白髪交じりの髪を後ろでまとめ、腰は少し曲がっているが、目はよく動く。
「若様。お妙婆様も。これはまた、朝から」
甚兵衛さんは俺に頭を下げ、それからくろすけを見て、さらに深く頭を下げた。
「くろすけ様も、お越しで」
くろすけは縁側の方を一度見てから、庭の端へ行き、そこで伏せた。
ただ伏せただけなのに、庄屋の家の奥で犬の鳴き声が一つ止まった。さっきまで短く吠えていたはずなのに、今は物音もしない。
「……ご無理はなさらんでよろしいので」
甚兵衛さんが家の奥へ向けて言った。誰に言ったのかは知らない。たぶん犬だ。
俺たちは縁側に通された。
お妙婆が包みを開くと、焼いた粥の香ばしい匂いと山菜味噌の苦い匂いが、春の風に混ざった。甚兵衛さんの表情が少し緩む。
「これはありがたい。山菜味噌ですな」
「朝の残りで申し訳ないですが」
庄屋の家の女衆がお茶を出してくれた。湯気の立つ茶碗を受け取ると、指先がじんわり温まる。
春とはいえ、座っていると膝から冷えてくる。地面の下にはまだ冬の湿り気が残っている。
「それで、若様。今日は田のことでございましょうか」
甚兵衛さんは茶を置き、声を少し低くした。
身構えている。
無理もない。領主家の三男が、神狼を連れて朝から庄屋の家へ来たのだ。米の作付けを変えろとか、そういう面倒な話だと思われても仕方ない。
「田ではない。口を出す話でもない」
俺が先に言うと、甚兵衛さんの肩がほんの少し落ちた。
その落ち方が正直すぎて、俺は少し笑いそうになった。
「うちの自宅畑の話だ。今年、雑穀と豆と芋を植えた。米の代わりに村中へ広げる話ではない。俺とお妙婆で世話できる範囲で、米を助ける作物を小さく試すだけだ」
甚兵衛さんは俺の顔を見て、お妙婆の顔を見た。
「雑穀、豆、芋だけでございますか。菜は」
「山菜もあるし、交換もできる。食卓から消す気はない。けれど、今年の春は少し冷えるだろう。米だけに腹を預けるのが、少し気になった」
「こち*1の話で?」
「そこまで大げさにするつもりはない。春が少し寒い年くらい、これまでもあったはずだ。ただ、寒いなと思った時に何もしないで、夏に困ってから慌てるのは嫌だ」
俺は茶碗の湯気を見た。
「何かあった時に、椀へ混ぜるものが少しある。それくらいの話だ」
甚兵衛さんはしばらく黙っていた。
庭の端でくろすけが耳を動かす。奥の犬はまだ静かだ。たぶん、息だけしている。
「若様のお家の畑で試すなら、好きになさればよろしいかと」
甚兵衛さんは、ようやくそう言った。
「ただ、村の者は見ますぞ。若様が畑にいつもと違うものを入れたとなれば、何事かと」
「だから先に来た。勝手に噂で膨らむと、面倒になる」
「面倒、でございますか」
「面倒だ。俺が米を見限ったとか、村の作付けを変えるとか、田吾作爺の仕事に文句をつけたとか、そういう話になったら最悪だろう」
「それは、まあ」
甚兵衛さんは苦笑した。
お妙婆が横から口を挟む。
「畑は、若様とわたくしで世話できる範囲でございます。昨日、雑穀、豆、芋を入れましたが、草取りも水の具合も、これからでございます。大勢の手を借りて広げる段ではございません」
「種も、村へ配るほどはない」
俺は頷く。
「うまくいくかも分からない。土に合わないかもしれないし、虫に食われるかもしれないし、俺が草取りから逃げるかもしれない」
「最後のは若様次第でございます」
お妙婆が即座に刺してきた。
甚兵衛さんが声を立てて笑った。
「それなら安心しました。いや、変ですが」
「安心していい。俺は村全体を動かすほど勤勉じゃない」
「そこを胸を張られましても」
庄屋の家の女衆が、焼き魚と味噌汁と米の贅沢な食事をもってきてくれた。
「先に食べてから話すか」
「若様、相談に来たのでございますよ」
「腹が空くと判断が雑になる。前世でも今世でも同じだ」
お妙婆は呆れた顔をしながらも、自分も一つ取った。
甚兵衛さんも箸をつける。
焼き魚ははたはたの丸干しのようで身は小さいのに味が濃い。ほろっとした白身に、干物らしい塩気と内臓まわりのほろ苦さが混じって、派手ではないけど妙に後を引く。頭からいけるところはいって、骨の硬いところだけ少し避ける。
味噌汁、米と合わさって最高の贅沢だ。
くろすけが顔を上げた。
匂いにつられたらしい。
大好きな魚を俺にもよこせ、といった感じか。
甚兵衛さんが家の者に何かを頼むと、身を崩して粥と混ぜたものが出てきた。
「くろすけ様へ、粗末なものですが」
くろすけは俺を見た。
俺が頷くと、静かに起きて小皿の前へ来る。ガツガツ食べ始めて、一瞬で食べ終えている。皿を舐め回す前にお妙婆に見られて、何事もなかったように庭の端へ戻った。
「賢いですなあ」
甚兵衛さんが感心した。
「賢いが、たまに畑の縄を咥えて歩く」
「それは、畑の守りをしたかったのでございましょう」
「結果的に線はまっすぐだった。そこが腹立たしい」
甚兵衛さんはまた笑った。
笑いが出ると、場の固さが抜けた。
「若様。ひとつ、お願いしてもよろしいか」
来た。
俺は茶碗を置いた。
「村全体へ広げる話はしない」
「そこではございません。うまくいったら、食べ方を教えていただきたい」
甚兵衛さんは真面目な顔で言った。
「雑穀も豆も芋も、村に全くないものではございません。ただ、米が少ない時は、どうしても寂しい飯になる。若様のお家で、腹にたまる食べ方が見えれば、来年の話がしやすくなります」
俺は天井を見た。
春の薄い光が軒の下を斜めに切っている。
「……面倒が増えた」
「増えましたな」
お妙婆が涼しい顔で茶を飲む。
「まだ収穫もしていないのに、食べ方の宿題か」
「飯の話は、畑より先に口が動きますので」
「分かった。ただし、小さく試す。うちで食べる。余裕があれば少し味見してもらう。それだけだ」
「十分でございます」
「それから、田吾作爺には俺からも伝える。米を軽んじたわけではないと」
「それはよろしいかと。田吾作爺は頑固ですが、筋を通せば怒鳴るだけで済みます」
「怒鳴るのは確定なのか」
「声が大きいだけでございます」
お妙婆が包みの残りを畳みながら、ぽつりと言った。
「田の飯も、畑の飯も、腹に入れば人を動かします。どちらが上という話ではございません」
相談は、思ったより平和に終わった。
庄屋は村の者に、若様の自宅畑で小さく試すだけだと伝えてくれるという。俺は、まだ人手も種も求めない、収穫前に広げない、と何度も念を押した。
念を押しすぎて、最後には笑われた。
帰り道、くろすけは行きより少し機嫌がいいように見えた。
はたはたをもらったからか、尻尾がゆっくり揺れている。
「小さく済んだな」
俺が言うと、お妙婆が隣で歩きながら答えた。
「食べ方を考える仕事が増えました」
「聞こえない」
「若様」
「聞こえた」
山裾の別宅が見えてくると、物置横から、もこの鳴き声がした。
めえ、と一度だけ。
小屋の入口から白い毛の塊が顔を出し、口には干し草がはみ出している。留守番の不満か、単にこちらを見つけただけかは分からない。
くろすけが先に駆け、もこの小屋の前で止まった。
もこは毛を少し膨らませ、また干し草を噛み始める。
俺は畑の方を見た。
木札が春風に揺れている。雑穀、豆、芋。土の下では、まだ何も見えない。
だが、見えないうちに話だけは小さく通した。
「さて、次は山菜の乾かし場か」
お妙婆が何気なく言った。
俺は畑から物置横へ視線を移す。
くろすけが俺の袖を軽く咥えた。
もこが干し草を噛みながら、めえと鳴いた。
「お前ら、俺を働かせる相談だけは妙に早いな」