異世界日本の山村もふもふ生活記 ~春夏秋冬の飯テロ暮らし~ 作:瑞牆さん
翌朝、俺はまだ布団の温かさを諦めきれずにいた。
春とはいえ、山裾の朝は冷える。
「若様、竹林へ行ってきてくだされ」
台所から、お妙婆の声が飛んできた。
声の調子だけで、断れない用事だと分かる。
「竹林は俺を呼んでない」
「筍が呼んでおります」
「聞こえない」
二度寝を決めようとすると、くろすけに布団をはがされた。
黒い毛の先に朝の薄い光が乗り、尻尾だけがゆっくり揺れている。俺が動くのを待っていた顔だ。
台所へ行くと、お妙婆は籠と小さな鍬を用意していた。
「竹林の端に筍が出始めました。そのままにしておくと、伸びすぎたものが混んで、後で面倒でございます」
「後で面倒なら、今も面倒だ」
「食べる分は、土から顔を出したばかりの小さいものだけ。大きく伸びた芽は、蹴っ飛ばして倒してきてくだされ」
「後になると竹用の鋸で切ることになりますぞ」
「蹴っ飛ばすだけなら得意だ」
「食べられるものまで蹴らんでくだされ」
俺は籠と鍬を持ち、くろすけに先導されて裏の竹林へ向かった。
家の脇では、もこが小屋の入口から顔だけ出していた。白い毛の塊が、干し草をくわえたままこちらを見る。
「留守番だ」
めえ、と返事のような声がした。
返事か不満かは分からない。干し草を噛んだままなので、たぶん半分は不満だ。
竹林は裏手、山へ入る道の少し脇にある。
朝露を吸った落ち葉が足の下でしっとり沈み、竹の葉が頭の上でかさかさ鳴った。
くろすけは迷わず奥へ進んだ。
そして、前足で地面を軽く押す。
見ると、落ち葉の間から、茶色い先がほんの少し出ていた。
言われなければ石か根っこに見えたかもしれない。
「それは食べる方か」
くろすけは鼻先を近づけ、すぐに横へどいた。
掘れ、ということらしい。
俺は小鍬で周りの土を崩した。
土はまだ冷たく、湿り気を含んでいる。筍の皮に鍬を当てないように少しずつ掘ると、丸く太った根元が出てきた。大きくはない。片手に収まるくらいだ。
「これを朝飯にするのは、だいぶ贅沢だな」
くろすけが耳を動かした。
食べるものだと理解している顔だ。ただ、肉でも魚でもないので、期待は半分に見える。
そのあとも、くろすけは鼻先と前足で場所を示した。
出たばかりのものは三つだけ掘った。お妙婆の言う通り、食べる分だけだ。
一方で、すでに膝くらいまで伸びた芽もあった。
細いのに勢いだけはある。放っておけば、ここに竹が増えて、竹林が混みすぎる。
「悪いな。お前は飯ではなく、管理対象だ」
俺は足で根元を踏み、ぐっと力を入れて倒した。
ぱきり、と乾いた音がする。若い竹の匂いが少し強くなった。
前世で、後でやろうと思っていた問題が、膨れ上がってひどい目にあった時の顔が頭をよぎる。
あとでやろうは馬鹿野郎か…
何本か倒していると、くろすけが急に立ち止まった。
竹の根元、落ち葉の下に隠れるように、小さい筍がもう一つある。
「それは持って帰れと」
くろすけは筍を見て、俺を見た。
「お妙婆に怒られない数だな?」
今度は尻尾が一度だけ揺れた。
便利なようで、責任は俺に来る合図だ。
結局、籠の中には小筍が四つ入った。
倒した芽は、竹林の端に寄せる。道を塞がないようにして、乾けば焚き付けの足しになるかもしれない。
家へ戻ると、お妙婆は土間で湯を沸かしていた。
「よい大きさでございますな」
お妙婆は小筍を受け取り、皮をむいた。
外の皮は土と朝露をまとって固いが、中へ進むほど白く、みずみずしい。俺は桶の水を替え、洗浄魔法で包丁とまな板を清めた。
「アク抜きしないのか」
「出たばかりでございますから、少しだけ刺身にいたしましょう。残りは湯を通します」
お妙婆は薄く、薄く切った。
刃が入るたびに、筍の白い断面が光る。皿に並ぶと、朝の土から出てきたものとは思えない涼しさがあった。
小皿には醤油。
それから、お妙婆が削った削り節が少し。
「米より先に、これか」
「朝採りは待ちませぬ」
その言い方はずるい。
俺は一切れを箸で取り、醤油をほんの少しだけつけた。
口に入れると、まず水気が来た。
冷たいわけではない。ただ、竹林の土の中にあった水が、そのまま白い身に閉じ込められていたような瑞々しさだ。
噛むと、ぱきりと音がした。
柔らかいのに、歯を押し返す芯がある。青い竹の匂いそのものが鼻へ抜け、後からほのかな甘みが追いかけてくる。えぐみは一切ない。
醤油の塩気がその水気を締め、削り節の香りがふわりと乗る。
たった一切れなのに、飯とは別の贅沢があった。
「……これは、面倒でも掘る価値がある」
「でしょう」
お妙婆は当然のように頷いた。
くろすけにも、湯を通した端を少しだけ出した。
くろすけは匂いを嗅ぎ、ゆっくり口に入れ、しばらく噛んだ。
そして俺の方を見た。
「魚ほどではない、という顔だな」
尻尾が半分だけ揺れた。
正直でよろしい。
もこには筍ではなく、柔らかい若草を少し足してやった。
筍の匂いに鼻を寄せたが、草の方へ口を伸ばす。白い毛が小屋の入口でふくらみ、満足そうに噛んでいる。
朝飯は、筍の刺身のほかに、湯を通した筍を刻んで粥へ少し入れたものだった。
粥のやわらかさの中で、筍の歯触りだけが小さく残る。噛むたび、ぱきりと春が鳴った。
醤油を少し落とすと、米の湯気と筍の青い香りが合わさり、朝の体にちょうどよかった。
食べ終える頃には、俺はもう働いた気になっていた。
だが、お妙婆は許してくれない。
「では、乾燥棚でございます」
「今、竹林管理という重要任務を終えた」
「朝飯で報酬も受け取りました」
前払い制だったらしい。
物置横には、前から山菜を干す話があった。
もこ小屋の近くは日当たりがいいが、近すぎると干し草や水桶の動線とぶつかる。風は通したい。雨は避けたい。
俺とお妙婆は、物置の壁、もこ小屋、水桶を見ながら場所を決めた。
「ここだな。壁から少し離す。風は抜ける。雨は軒でだいぶ避けられる」
「もこの水替えにも邪魔になりませぬ」
棚の材料は、物置に残っていた細い板と、古い木枠だった。
使えるものを選び、土を払い、表面を生活魔法で軽く乾かす。湿ったまま組むと歪む。強く乾かすと割れる。
こういう加減が、地味に面倒だ。
くろすけは山の方へ少し消えたかと思うと、細い枝を咥えて戻ってきた。
見事に曲がっていた。
「これは、何に使えと」
くろすけは得意げに胸を張った。
枝は乾いていて軽い。だが、棚の支えにするには曲がりすぎている。
「芸術点は高い」
お妙婆が横から見て、少し笑った。
「風向きを見る棒にしましょうか」
「採用されるのか」
曲がった枝は、棚の脇に立てることになった。
布切れを少し結べば、風の向きが見える。くろすけはそれで満足したらしく、棚の横に伏せた。曲がった枝を見張っているようにも見える。
棚は簡単なものだ。
腰より少し高い位置に木枠を組み、細い竹を渡し、その上に薄いすだれを置く。下からも風が通るよう、地面には直接触れさせない。
上には古い板を少し斜めにかけ、急な雨が当たりにくいようにする。
俺は修繕魔法で緩い継ぎ目を締め、釘の代わりに縄を使うところは、お妙婆に結び方を見てもらった。
縄はきつすぎても木が割れる。緩すぎても風で揺れる。
昼前、昨日までに採って灰汁を抜いた山菜を少し並べた。
こごみ、うどの薄切り、ふきの葉の若いところ。全部を一度に干すほど量はない。
まずは試しだ。
俺は乾燥魔法を弱くかけた。
山菜の表面から水気が逃げ、葉が少し縮む。
「もう少し強くすれば早いな」
そう言って少し強めた瞬間、青い香りがふっと薄くなった。
お妙婆が咎めるような目でこちらを見た。
「若様」
「今のは試験だ」
「香りが逃げました」
「試験結果が出た」
結局、乾燥魔法は表面の水気を飛ばす程度にして、あとは風に任せることにした。
棚の横の曲がった枝につけた布切れが、かすかに揺れている。くろすけの持ってきた枝が、意外な顔で役に立っていた。
◇
夕方になると、山菜は朝よりずいぶん縮んでいた。
色はまだ少し残り、近づくと青い香りがする。生の時の勢いとは違う。乾いて軽くなった分、香りがぎゅっと寄った感じだ。
お妙婆は一つ摘んで、指で折り具合を見る。
「明日、もう少し干せばよろしいでしょう。湿りが残りすぎると傷みます」
「冬に戻したら、汁に入るか」
「入ります。味噌にも、粥にも」
冬。
まだ春なのに、その言葉だけで肩が少し重くなる。
雪、冷たい水、米の心配、もこの毛、くろすけの寝床。考えるだけで面倒が積もる。
けれど、棚の上の縮んだ山菜を見ると、面倒が少し形になっていた。
今日干したものは小さい。
村をどうこうする量ではない。
それでも、冬の椀にひとつまみ入れば、春の匂いが戻る。
「保存食が増えるほど、冬の面倒が減る」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
お妙婆が満足そうに頷く。
「その通りでございます」
「言い聞かせているだけだ」
「言い聞かせて動けるなら、上等でございます」
くろすけが立ち上がり、俺の袖を軽く咥えた。
物置の向こう、沢へ続く道の方を見ている。
「今日はもう働いた」
くろすけは袖を離さない。
もこが小屋の入口で、めえと鳴いた。干し草を噛みながら、なぜかこちらを見ている。
お妙婆が山菜の籠を持ち上げながら言った。
「明日は沢の様子も見ておきましょうか。春の魚も、今のうちでございます」
くろすけの尻尾が、ゆっくり揺れた。