「ふぅー、久々のベッド、だっ!」
なんとか宿を確保した俺は、部屋に入るなり迷うことなくベッドへと飛び込んだ。身体が吸い込まれるように沈み込み、ふかふかの掛け布団が全身を優しく包み込む。思わず頬を擦り寄せると、ほのかに香る洗いたての布の匂いが鼻腔をくすぐった。
……やばい。これは駄目なやつだ。
ものの数秒で、この場所から二度と動きたくないという衝動に支配される。流石は都会の宿。教会で使っていた質素なベッドとは格が違う。これまで布団の良し悪しなど気にしたこともなかったが、そんな俺でもはっきりとわかるほどに品質が段違いだった。きっと相当高価なものを使っているのだろう。
人を堕落させるベッドとは、まさにこういうものを言うに違いない。
このまま眠ってしまっても、きっと誰も責めはしないはずだ――などと都合のいいことを考えていた、その時。
コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「サダメー、居るー?」
扉越しに聞こえてきたのはミオの声だった。
「ん、んー……?」
すでに半分ほど意識が沈みかけていた俺は、かろうじて返事をする。正直、このまま眠りの底へ落ちてしまいたい気分なのだが。
「入るよー……って、もう寝ようとしてたの? 部屋借りてまだ数分しか経ってなくない?」
返事を聞いたからか、ミオは遠慮なく扉を開けて入ってきた。彼女の部屋は俺の隣で、つい二、三分前に別れたばかりだというのに、もうこちらへ来たらしい。荷物だってほとんどないのだから、もう少し自分の部屋でくつろいでもよかっただろうに。
何か急ぎの用事だろうか。……いや、そんなことより眠い。
「はあ。ご飯とお風呂、まだだったでしょう? さっき職員の人に聞いたんだけど、この宿は食事も浴場もないんだって。全部各自で済ませてくれってさ。一応、近くの浴場とレストランは教えてもらったから、早く行こ」
「……えぇ?」
どうやら用件は夕食と風呂のことらしい。そういえば教会で支給された携帯食料は、道中でとっくに食べきってしまった。この宿にフードサービスがないというのは予想外だ。こんなに上等なベッドがあるのに、飯が出ないとは何事だろう。
風呂もないとなると、本当にここは“休むためだけの場所”なのだろう。おそらく受験者向けの仮宿といったところか。合理的と言えば合理的だが、少々不便ではある。
だが今の俺にとって最大の問題は、そんなことではなかった。
動きたくない。
ベッドの魔力と旅の疲れが合わさり、強烈な眠気が全身を支配している。正直、ここから一歩たりとも出たくない。
「んー……俺もう寝たいから、一人で行って来いよ。なんか美味しそうなもんあったら持ち帰りよろしくー」
うつ伏せのまま手をひらひらさせてそう告げると、次の瞬間。
「んなっ!?」
信じられないものを見るような声が返ってきた。
「何言ってんのよ! 都会なんて初めてなんだから、一人じゃ怖くて行けないよー! 変な人に絡まれるのも嫌だし、一緒に来てよー!!」
ミオは半ば叫びながらベッドに近寄り、俺の肩をがくがくと揺さぶり始める。
「んえぇ……?」
視界がぐらぐらと揺れ、せっかく掴みかけていた眠りが遠ざかっていく。まいったな。本当に眠いのに、彼女のわがままは収まりそうにない。
この感覚、どこかで覚えがあると思ったら――休日に子供から無理やり起こされる父親の気分だ。
……ああ、そうか。
前世で、日曜日の朝っぱらから「遊びに連れてって!」とせがんでいたのは俺だったな。隣町のジャ〇コまで車を出させたことも一度や二度ではない。
前世のお父さん、小さい頃に散々振り回して本当に申し訳ありませんでした。
心の中でそっと頭を下げる。
「ほら、早く起きて! ご飯なくなっちゃうかもしれないよ!」
ぐいぐいと腕を引かれ、観念するしかないと悟った俺は、大きくため息をついた。
結局――俺は彼女のわがままを聞き入れる羽目になったのだった。