気づいた時には、すでに遅かった。
金髪で目つきの悪い男が、いつの間にか馬車の中に立っていたのだ。しかも、その手には――ついさっきまで自分が握っていたはずのブザーがある。
何が起こったのか理解できず、思考が一瞬完全に停止した。
頭が真っ白になる。
だが、その沈黙を破ったのはマヒロだった。
「何奴でござるか? いつ頃からこの馬車に侵入したでござるか?」
マヒロは鋭い視線を男へ向けながら問い詰める。
「拙者、先程まで見張りをしておったが、まったく気配を感じなかったでござるが」
その言葉で、ようやく思考が動き出した。
……そうだ。マヒロはさっきまで見張りをしていたはずだ。それなのに、この男の存在にまったく気づけなかったらしい。
こんな狭い馬車の中で、気配を悟られず侵入するなど普通は不可能だ。何か魔法か、特殊な道具でも使ったのか。
「はっはっはっは。さて、いつ頃だろうねー?」
男は軽薄そうな笑みを浮かべながら、適当な調子で答えた。
その態度に、マヒロの眉がぴくりと動く。
「……その手に持っている物を返されよ」
言いながら、マヒロは腰の刀――雷電に手をかけた。
まだ抜刀こそしていないが、明らかに戦闘態勢だ。今は警告に留めているものの、相手の返答次第ではいつでも斬りかかる覚悟だろう。
「返すー?」
男はわざとらしく首をかしげる。
「はは。折角苦労していいもん奪ったのに、返すわけねーだろ?」
「何?」
マヒロの声が低くなる。
だが男は気にした様子もなく、指先でブザーをくるくる回した。
「それに、これで応援を呼ぶつもりだったんだろ?」
「ッ!? なんでそのことを……」
思わず声が漏れる。
このブザーが応援要請用の魔道具だということは、ついさっきのミーティングで聞いたばかりだ。外部の人間が知っているはずがない。
どうやってその情報を知った?
まさか――作戦会議の時点から、この馬車に潜んでいたのか?
いや、そんなはずはない。
もしそうなら、かなり長時間この空間にいたことになる。その間、誰一人として気づかなかったなどあり得ない。
……いや、待て。
そこで、ふとある記憶がよみがえった。
ミーティングの時、先生が注意していた“厄介な魔道具”の話。
「……いや、もしかしてそのマント……」
「おっ、気づいちゃった?」
男の口元がニヤリと歪む。
薄緑色のマント。
そして、やや大きめのブーツ。
記憶が繋がった。
「完全に姿を消すマントと、足音を殺すブーツ……闇取引で出回ってる魔道具か」
「はっはっはっは。せ~か~い」
男は楽しそうに笑った。
どうやら図星らしい。
まさか、本当にそれを使っている奴に出くわすとは思わなかった。しかも、姿を消すマントと無音のブーツを組み合わせて、完全に気配を断っていたのだ。
……こいつ、かなり手慣れている。
「くそ、それを返せ!」
考えている余裕はない。
ブザーを奪われたままでは応援が呼べない。焦りに駆られ、思わず男へ飛びかかった。
「返さぬのなら、成敗致す!」
同時に、マヒロも雷電を抜き放ち、一直線に男へ突進する。
だが――
「んじゃ、そろそろ“あの場所”に着きそうだし、俺はこれにて失礼するよ」
「ッ!?」
自分たちが男に迫った、その瞬間だった。
男は左腕に巻きつけていた奇妙な装置を作動させた。
巻き取り機のような装置から、勢いよくロープが射出される。
ロープは後方の木の枝へと飛び、器用に絡みついた。
「それじゃあな、ガキども」
次の瞬間、男はそのまま馬車から飛び降りた。
ロープに引かれるようにして、あっという間に距離が開く。
地面へ着地した男は、こちらを挑発するように軽く手を振った。
そして――
ふっと姿が消えた。
おそらく、再びマントの力を使ったのだろう。
……あのマント、想像以上に厄介だ。
「う、うわあぁぁぁぁ!?」
「おわっ!?」
男が消えた直後、今度は別の異変が起こった。
自分たちが乗っている馬車が、突然大きく揺れ始めたのだ。
馬車を引いていた魔導馬が、何かに驚いたように激しく暴れ出している。
車体が上下に跳ね、まともに立っていられない。
まずい。
このままでは振り落とされる。
「くっそ! さっきからマジでなんなんだ……!」
必死に座席へしがみつきながら、思わず悪態が口をつく。
その瞬間だった。
――眩い光。
自分たちの乗る馬車の真下から、強烈な光が溢れ出した。
次の瞬間。
耳をつんざくような轟音とともに――
激しい大爆発が起こった。