「はあ……はあ……はあ……」
当時十五歳だった俺は、一つ年上の姉とともに、近くの山へ山菜採りに出かけていた。
家は両親共働きで、決して貧乏というほどではない。だが、贅沢ができるほど裕福でもなかった。だからこそ、山で山菜を採り、川で魚を捕まえて食費を浮かすのは、俺たちにとって珍しいことではなかった。
山や川に野生の魔物が出る危険性は、子供でも知っている常識だ。
だが、俺たちが足を運んでいた村近くの山には、“タリスターの花”が自生している。魔物が嫌うその花のおかげで、そこは安全地帯として知られていた。
――少なくとも、そのはずだった。
「……っ」
山菜採りに夢中になっていた、その時だった。
気配を感じて顔を上げた瞬間、目の前に現れたのは――
【飢えた大狼《スターグウルフ》】
巨大で、獰猛なウルフ系統の魔物。
奴は涎を垂らしながら低く唸り、今にも飛びかかってきそうな体勢を取っていた。
頭が真っ白になる。
何故、こんな場所に――?
タリスターの花があるはずの山に、どうしてこんな危険な魔物がいる?
理解が追いつかない。だが、それ以上に――恐怖で身体が動かなかった。
後に分かったことだが、本来群生していたタリスターの花は、何者かによって根こそぎ抜かれていたらしい。
だが、あの時の俺たちがそんな異変に気付けるはずもない。
当たり前に存在していたものが、ある日突然すべて消えているなど――普通は想像すらしないのだから。
「――っ!」
動けない俺を見て、奴は真っ先にこちらへ狙いを定めた。
その瞬間。
「下がって!」
姉の声が響く。
次の瞬間、重力が圧し掛かるようにして魔物の動きが鈍った。
姉の魔法――重力操作。
完全に使いこなせていたわけではない。相手を自在に浮かせ、叩き落とすほどの精度はなかった。
それでも、地面へ押さえつける程度なら可能だった。
だが、それはあくまで時間稼ぎに過ぎない。
魔物との戦いは、最終的に“魔力の押し合い”になる。純粋な力で勝る相手を、長く拘束し続けることなどできない。
「くっ……!」
案の定、魔物は強引に抵抗を始めた。
そのうえ、奴の咆哮が山に響き渡る。
「グルァアアアアアアッ!!」
その圧に、姉の身体がわずかに揺らいだ。
――まずい。
抑え込みが、崩れる。
助けを呼んでも間に合わない。
そう悟った姉は、俺に向かって叫んだ。
「逃げて!」
「でも……!」
見捨てるようで、足が動かない。
だが――俺が残ったところで、何もできない。
その現実を、嫌というほど理解してしまった。
「……っ!」
歯を食いしばり、俺は背を向けて走り出した。
山を転げ落ちるように駆け下りる。
怖かった。
魔物の存在が。迫り来る死が。どうしようもない無力さが。
すべてが、心を押し潰していく。
「はあ……はあ……! だ、誰か……助けて……!」
声を張り上げたいのに、息が続かない。
かすれた声が、情けなく空気に溶ける。
「お願いだ……誰か、来てくれ……!」
涙で視界が滲む。
その時だった。
「グルルルルルルルル……!」
「……えっ?」
目の前の道を塞ぐように、再び奴が現れた。
足が止まる。
頭が、真っ白になる。
さっきまで姉に抑えられていたはずの魔物が、どうしてここにいる?
別個体――?
いや、違う。
奴の口元には、血と涎が混じっていた。
ついさっき、何かを喰ったばかりのような痕跡。
――嘘だ。
そんなはずはない。
そうであってほしくない。
「ガアアアアアアアアアアアアアッ!!」
咆哮とともに、奴が飛びかかってくる。
終わった。
逃げられない。
抵抗もできない。
――死ぬ。
膝から崩れ落ちる。
妙に冷静な思考が、頭の中をよぎる。
どれくらい痛いのか。
どれくらいで意識が途切れるのか。
どうせ助からないのなら、せめて恐怖を紛らわせたい――そんな逃避じみた考えすら浮かんでいた。
その時。
「創造せよ。すべてを退ける鉄壁の防壁を」
声が、聞こえた。
「……?」
幻聴かと思った。
だが次の瞬間。
「【要塞の壁《フォール》】」
轟音とともに、巨大な鉄の壁が出現した。
「キャンッ?!」
突進してきた魔物は、そのまま頭から激突し、情けない悲鳴を上げる。
「……な、何が……」
状況が理解できない。
その間に、ひとりの男が軽やかに壁を飛び越え、俺の前へと降り立った。
「ふう……間に合ったようだね。大丈夫かい?」
青い長髪を揺らしながら、男は穏やかな声でそう言った。
「ッ……あ、あんたは……?」
驚きと困惑が入り混じる中、俺は問いかける。
すると男は、わずかに微笑み――
「私はリーフ・エンドレッド。しがない旅行者さ」
そう名乗りながら、こちらへ手を差し伸べてきた。
――リーフ・エンドレッド。
この男との出会いが、俺の人生を大きく変えることになるなど――
あの時の俺は、まだ知る由もなかった。