「グルルルルルルルルルルルルルルッ!!!」
「ひいっ!?」
喉の奥を震わせるような低い唸り声が、空気を震わせた。
俺は思わず肩をすくめ、情けない悲鳴を漏らす。
「ふむ……多少痛めつければ逃げ帰るかとも思ったが、どうやらその程度で引く相手ではなさそうだね」
俺がリーフの手を借りてようやく立ち上がると、魔物は再び威嚇の唸りを上げた。鉄壁の防壁越しであっても、その攻撃性はひしひしと伝わってくる。全身を押し潰されるような圧に、思わず身が竦んだ。
だが――
目の前に立つリーフという男は、驚くほど落ち着いていた。
この巨大な壁を一瞬で創り出したのも、間違いなく彼の魔法だろう。これほどの魔法を扱える人間が、ただの旅行者のはずがない。
疑問はいくつも浮かぶ。
だが今は、それどころではなかった。
「それじゃあ……この一撃で終わりにしようか」
「ッ!?」
軽い調子でそう言うと、リーフは何の躊躇いもなく魔法を解除した。
次の瞬間、鉄壁の防壁は霧散するように消え去る。
無防備になるはずの状況。それでも彼の背中には一切の隙がなかった。
不思議と、震えが収まっていく。
――この人なら、大丈夫だ。
そんな確信にも似た安心感が、胸の奥に芽生えていた。
「創造せよ。敵を穿つ無数の真槍を――【飛槍限《フライスピット》】」
リーフが手のひらを前へ突き出し、静かに詠唱を紡ぐ。
その瞬間――
空間が歪んだ。
何もなかったはずの空中に、次々と“槍”が生まれていく。
一本や二本ではない。
数え切れないほどの槍が、彼の周囲に浮かび上がっていた。
「なっ……」
言葉を失う。
壁を創り出すだけでも異常なのに、今度は武器の生成。
こんな魔法、見たことも聞いたこともない。
「グッ、ガアアアアアアアアアアアッ!?」
次の瞬間、無数の槍が一斉に放たれた。
まるで豪雨のように降り注ぐそれらは、逃げ場を一切与えない。
魔物の巨体が、瞬く間に貫かれていく。
肉を裂き、骨を砕き、血を撒き散らしながら――
わずか数秒。
それだけで、決着はついた。
「よし……こんなところかな」
リーフが軽く息を吐く。
その足元には、全身を穴だらけにされ、血を噴き出しながら倒れ伏す【飢えた大狼】の死骸があった。
ぴくりとも動かない。
完全な絶命。
姉が必死に抑え込むのがやっとだった相手を、まるで虫でも払うかのように――
圧倒的だった。
「……」
何も言えなかった。
ただ、その光景に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「さて……周囲に他の魔物はいなさそうだね。君、怪我はないかい?」
「あっ、は、はい!?」
優しく声をかけられて、ようやく我に返る。
言葉がうまく出てこない。喉が張り付いたように動かない。
「とりあえず、ここは危険だ。一度山を――」
「あ、あの!」
「ん?」
引き留めるように声を上げる。
震える声で、それでも必死に言葉を絞り出した。
「……姉が、まだ……」
その一言で、すべてを察したのだろう。
リーフは一瞬だけ目を伏せ――静かに頷いた。
「はあ……はあ……はあ……」
事情を説明し、了承を得た俺は、リーフとともに再び山を登っていた。
足は重い。
それでも止まれない。
魔物に襲われた可能性は高い。
それでも――
まだ、間に合うかもしれない。
そんな淡い期待が、心のどこかに残っていた。
分かっている。
あの状況で、無事なはずがないことくらい。
それでも信じたかった。
ほんのわずかな可能性でも、すがりついていたかった。
「……はあ……はあ……ね、姉ちゃん……?」
息を切らしながら、俺は呼びかける。
そして――
辿り着いたその場所で、現実を突きつけられた。
折れた木々が、あちこちに散乱している。
激しい戦闘の痕跡。
そして、その中心に――
姉が、いた。
腹は無惨に食い千切られ、内臓が露出している。
首はあらぬ方向へとねじ曲がり、もはや人の形を保っていない。
「――」
声が、出なかった。
頭の中が、真っ白になる。
理解が、追いつかない。
目の前にあるのは、紛れもない現実のはずなのに――
それを、現実として認識することができなかった。