「ま、まじんさま?」
耳を疑いながら、俺は思わず聞き返した。今、確かに“魔神”と言ったのか。それとも“マジン”という別の神の名なのか――だが、その淡い期待は次の言葉であっさりと打ち砕かれる。
「はい。魔神アスラ様こそ、愚かな人類をお救いくださる真の救世主だと、私は考えております。いえ、考えるまでもなく――あの御方こそが救世主なのです」
「ッ?! 魔神アスラって……童話や絵本に出てくる、あの魔神アスラのことか?」
彼女は躊躇いもなく頷いた。その瞬間、俺の中で確信が固まる。この女は本気で、あの“魔神”を崇拝している。
魔神アスラ――それは魔物を統べる存在として、数多の物語に登場する象徴的な存在だ。多くの場合、世界を脅かす“悪”として描かれ、子どもですらその名を聞けば恐怖を覚えるような存在である。魔物の祖とも言われ、この世界に災厄をもたらした張本人だという説すらある。
だが、目の前の女は違った。そんな存在を“救世主”だと言い切ったのだ。
「そうです。アスラ様が魔物をこの世界に生み出したのは、人類を正しく導くためなのです」
「……どういう意味だ?」
彼女は相変わらずの笑顔のまま、滔々と語り始める。人間の傲慢さ、欲深さ、他の生物を顧みない支配欲――それらを抑制するために、魔物という脅威を生み出したのだと。
そして最後に、彼女は迷いなく言い放った。
「人類は一度、アスラ様の手によって粛清されるべきなのです」
「粛清って……それはつまり」
「皆殺しです」
あまりにも狂った結論だった。救済のために滅ぼす――理屈として成立しているようで、その実ただの破綻した思想だ。
だが、それ以上に俺の中で引っかかったのは別のことだった。
――タリスターの花。
彼女が差し出したそれを見た瞬間、全てが繋がった。あの日、山から消えていた魔物避けの花。あれがなければ、魔物が活発になるのは当然だ。そして――姉が死んだ理由も。
「……お前らのせいだ」
気づいた時には、声が漏れていた。次の瞬間には、抑え込んでいた感情が一気に爆発していた。
俺は彼女の腕を掴み、怒鳴り散らす。姉の死、学園での挫折、自分の人生が壊れたこと――その全ての原因が目の前にいると理解した瞬間、理性など消し飛んでいた。
首を締め上げ、殺意に任せて力を込める。もうどうなってもいい。ただ、この女だけは――。
だが、次の瞬間。
「くださいっ!!」
首筋に鋭い痛みが走った。針のようなものが突き刺さり、身体が焼けるように熱くなる。
「ぐあああああああっ?!」
全身が内側から燃えるような感覚に襲われ、力が抜ける。地面に崩れ落ち、呼吸すらまともにできない。
――毒か?
そう思ったが、彼女は違うと言った。
「安心してください。それは毒ではありません。タリスターの花から抽出した薬――“魔薬《マラック》”です」
魔薬。違法な薬物。だが、その効果は絶大だった。
荒れ狂っていた感情が、嘘のように静まっていく。呼吸が整い、思考がクリアになっていく。代わりに、身体の奥から妙な力が湧き上がってくる感覚があった。
「どうです? 力が満ちてくるでしょう?」
確かに、その通りだった。今まで感じたことのない魔力の高まり。自分が別人になったかのような錯覚。
その状態で、彼女は提案してきた。
タリスターの花を集めれば、この力を与える、と。
危険な取引だという自覚はあった。だが――その時の俺には、それを拒む理由がなかった。
「……わかった。その話、乗る」
そう口にした瞬間、自分の中で何かが決定的に変わった気がした。
彼女は、初めて心から嬉しそうに笑った。
それからの俺は、変わった。
魔薬を使い、力を手に入れ、タリスターの花を刈り尽くす日々。やがて仲間が集まり、集団となり、気づけば周囲から恐れられる存在になっていた。
最初は花を集めるだけだった。だが次第に、それだけでは足りなくなった。
金を奪い、食料を奪い、女を奪い――ついには命までも奪うようになった。
他人から奪う快感。それは、想像以上に甘美だった。
泣き叫ぶ声も、命乞いも、すべてが心地よく響く。
かつて自分が奪われた側だったことなど、もうどうでもよかった。
――奪われるくらいなら、奪う側になればいい。
その単純な理屈が、今の俺の全てだった。
そして俺は、笑っていた。かつての自分では考えられないほど、心の底から。