『……うそ……』
目の前に広がる光景を理解するまで、わずかながら時間を要した。つい先ほどまで開始地点にいたはずの使い魔――大鷹が、瞬きの間に拙者たちの目前へと現れている。しかも、その巨体にもかかわらず、接近に気づく気配すらなかった。
人間の感覚では到底追いつけぬ速度。それを音もなく実現するなど、常識では考えられない。
(……何をしたのでござる? 魔法か、それとも――)
思考が追いつかぬまま、ただ疑問だけが募る。
『いやー、危ない危ない。ゴールまで行かれてたら、さすがに追いつけなかったよ』
遠方から、のんびりとした声が届く。ライラック師範だ。こちらへ向かって歩いてくるその姿は、まるで散歩でもしているかのように余裕に満ちている。
『……先生……』
フィー殿が、かすかに声を漏らす。
『驚いたかい? ウチの大鷹《ホーク》は、最高速度で二千キロを超える。秒速にして、およそ七百メートルほどかな。だから二秒もあれば、ゴールまで一直線さ』
『っ!? い、一キロを二秒もかからずに……!? そんなの、ずるすぎるよ……!』
『はは、ごめんごめん。でも、これも試験だからね。あっさり突破されても、教師としての立場がない。だから、少しだけ本気を出させてもらうよ』
『……少し、どころじゃない気がするんですけど……』
フィー殿の呟きは、至極もっともであった。
どうやら転移などではなく、単純に“速さ”そのもので追い抜いてきたらしい。鳴雷の速度が時速百キロ程度であることを考えれば、その差は歴然。もはや視認できないレベルの速度――まさに別次元である。
「むむむ……」
思わず唸る。だが、驚いてばかりもいられない。
『さて……私が到着するまでの間、この子が相手をしよう。君たちは、どう動くかな?』
『うぅ……どうしよう、マヒロちゃん……』
フィー殿の不安げな声が耳に届く。対するライラック師範は、依然としてゆったりと歩みを進めている。余裕の表れか、それともこちらの出方を観察しているのか――いずれにせよ、完全に主導権は握られている。
(……まだ時間はある)
捕まるまでの猶予は、わずかながら残されている。その間に打開策を見出さねばならない。
そして――導き出された結論は、一つ。
「……フィー殿。この者は拙者が引き受ける。フィー殿は、その隙に終着点へ向かってくだされ」
『っ!? マヒロちゃん!? 何言ってるの!?』
驚愕と戸惑いの入り混じった声が返ってくる。だが、これ以外に策はない。拙者が足止めとなり、フィー殿がゴールへ辿り着く。それが現状における最善手。
逃げ続けるだけでは、いずれ追いつかれる。それならば、ここで一度、流れを断ち切るしかない。
「早く行くでござる、フィー殿。時間は必ず稼ぐゆえ、安心して進まれよ!」
『そ、そんな……! マヒロちゃん、一緒に合格して海に行こうって約束したじゃん!?』
フィー殿は首を横に振る。だが――
「……心配には及ばぬ。約束は、命に代えてでも果たす所存。この者を退け次第、すぐに追いつくでござるよ」
あえて穏やかな声で、微笑みを浮かべながら告げる。無論、それは偽りではない。拙者もまた、皆と共に海へ行く日を楽しみにしているのだから。
『……マヒロちゃん……』
一瞬の逡巡の後、フィー殿は小さく頷いた。
『……気をつけてね』
「うむ! 後ほど合流するでござる!」
その言葉を背に受け、フィー殿は横手へと駆け出した。これでよい。これで、全力で戦える。
「ピェェェェェッ!!」
だが、大鷹は拙者など意に介さず、フィー殿の後を追おうとする。
――それだけは、させぬ。
瞬時に判断する。刀を一度鞘へ収め、代わりに全身から殺気を放つ。
「……おい、貴様」
「ピエッ!?」
『っ!?』
鋭く、低く――ただ一言。
その一声に込めた意思は明確だった。
――拙者を無視するというのなら、その首、刎ねる。
大鷹は動きを止め、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。その反応で十分だ。意識を引きつけることには成功した。
「貴様の相手は拙者だ。先へ行きたくば――まずは拙者を倒してみせよ!」