「ウソだろ? 雨なんて聞いてねーぞ?」
「やだー。まだ来たばっかりなのにー」
「ママー! あっちのお空まっくろになってるー!」
「そうね。危ないから今日はもう泳ぐのやめましょう」
「ちぇっ。予報じゃ晴れだって言ってたのによ。当てになんねぇな」
海水浴客達は、徐々に暗くなっていく空を見上げながら口々に不満を漏らしていた。
先程まで眩しいほどの青空が広がっていたというのに、今では遠くの水平線から黒雲が押し寄せてきている。
その異変に気付いた客達も少しずつ海から上がり始めていた。
だが――。
皆にはただの雨雲にしか見えていない。
しかし、自分だけは違った。
胸の奥で得体の知れない不安が膨れ上がっていく。
何故だろうか。
その光景を見ていると、嫌でもあの日の記憶が蘇ってくる。
あの日もそうだった。
突然空が曇り始め、どこか不気味な空気が辺りを包み込んだ。
そして、その数日後――奴らは現れた。
「しょうがない。今日はテントで大人しくしてるか」
『サダメー。ミオにもテントに戻るよう伝えて……って、聞いてる?』
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
過去の記憶が脳裏をよぎった瞬間、呼吸が乱れた。
胸が締め付けられる。
心臓の鼓動が嫌に速い。
周囲の声が遠くなり、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。
嫌な予感がする。
これはただの雨じゃない。
何かが近付いている。
そんな根拠のない確信が頭から離れなかった。
「なあ? なんか浮いてねぇか?」
不意に聞こえた男の声に意識が引き戻される。
「え? どこどこ?」
「ほら、あそこだよ」
「んー?」
海水浴客の一人が沖を指差していた。
連れの男はまだ見えていないらしく、目を細めながら海を眺めている。
そのやり取りにつられるように、自分も沖へ視線を向けた。
かなり遠い。
何があるのかは判別しづらい。
だが確かに何かが見えた。
海面に無数の影が浮かんでいる。
しかも一つや二つではない。
水平線近くまで続いているのではないかと思うほど大量だ。
「なんだアレ? 魚か?」
『ねえ……なんか近付いて来てない?』
偶然近くにいたソンジさんとフィーも異変に気付いたようだった。
二人はいつの間にか双眼鏡を取り出し、沖の様子を観察している。
その表情は徐々に険しくなっていた。
「フィー。ちょっと貸してくれ」
『え? う、うん』
双眼鏡を受け取り、自分も沖を覗き込む。
すると海面に浮かぶ無数の背びれのようなものがはっきり見えた。
それらは波間に揺れながら、ゆっくりとこちらへ向かって進んでいる。
最初は魚の群れかと思った。
だが違う。
大きすぎる。
数も異常だ。
仮に大型魚だったとしても、これほどの数が一斉に岸へ向かって来る理由がない。
嫌な汗が背中を伝う。
そして――。
次の瞬間。
波が大きく揺れた。
その拍子に、一体の頭部が海面から僅かに姿を現す。
「――ッ!」
全身に戦慄が走った。
見えた。
確かに見えた。
それは魚ではない。
こちらを見ていた。
濁った瞳でもなければ、虚ろな目でもない。
獲物を見定める捕食者の目だった。
生きている。
そして明確な意思を持っている。
双眼鏡を握る手に力が入る。
嫌な予感は、もう予感ではなくなっていた。
「……いや、違う」
乾いた声が漏れる。
「あれは魚じゃない」
胸の鼓動がさらに激しくなる。
見間違いであってほしかった。
だが、そんな願いは虚しく消え去る。
自分は知っている。
あの姿を。
あの気配を。
あの異様な存在感を。
残された可能性は一つしかなかった。
「……魔物だ」
呟いた瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
しかも一体や二体ではない。
あの数は異常だ。
まるで軍勢。
まるで――侵略部隊。
「まさか……」
最悪の想像が脳裏をよぎる。
「村を襲うつもりなのか……!?」
黒雲の下。
無数の影はなおも海を進み続けていた。
真っ直ぐ、この海岸へ向かって。