「ぐっ……くそっ……!」
敗走。
それ以外に表現のしようがなかった。
魔海の大行進は失敗した。
我々は命からがら海へ逃げ帰り、その場を離脱することしかできなかった。
三百を超えていた兵達は、わずか数十名にまで減少。
いや、生き残った者達も満身創痍だった。
私自身も重傷を負い、まともに動くことすらできない。
情けない話だ。
相手はたった一人だったというのに。
「まさか、あれほどとはな……」
脳裏にあの男の姿が蘇る。
冷たい夜風が吹く砂浜。
そこで奴は一人、我々を待ち構えていた。
豪華な鎧など着ていない。
伝説の勇者らしい神々しい装いでもない。
ボロボロのマントを羽織り、炎で作り出した剣を一本持っていただけ。
見た目だけなら、その辺の流浪人と大差ない。
むしろ貧相ですらあった。
だからこそ油断した。
まさかあの男が勇者だとは思わなかった。
だが――
戦いが始まった瞬間、その認識は粉々に砕かれた。
強い。
ただひたすらに強かった。
陸上とはいえ、こちらには数があった。
三百を超える兵力。
魚人族の精鋭達。
多少の犠牲を出したとしても押し潰せるはずだった。
普通なら。
常識で考えるなら。
だが勇者には、その常識が通用しなかった。
膨大な魔力。
異常な身体能力。
恐るべき戦闘技術。
そして戦場全体を把握する洞察力。
どれを取っても規格外だった。
私の部下達は次々と薙ぎ倒されていく。
十人死ぬのに五秒もかからない。
剣が振るわれるたびに血が舞い、魔法が放たれるたびに命が消えた。
まるで嵐だった。
いや、嵐ですら生ぬるい。
あれは災害だ。
人の姿をした災厄そのものだった。
魔海の大行進が始まってから一分。
たった一分で私は撤退を決断した。
いや、違うな。
今思えば、あの戦いは始まる前から終わっていたのかもしれん。
「グリムフィッシャー様」
声が聞こえる。
意識を現実へ引き戻された。
「これ以上喋られると傷口が開きます。今は安静になさってください」
スクイッドだった。
私の腹部へ包帯を巻きながら心配そうな顔をしている。
「ちっ……」
自然と舌打ちが漏れた。
勇者から受けた傷が疼く。
腹部に走る激痛に顔を歪めながら、私は再びベッドへ身体を沈めた。
悔しい。
ただそれだけだった。
十死怪にまで上り詰めたこの私が。
魔王軍最強格の一角である私が。
あの男にはまるで歯が立たなかった。
それ以上に耐え難かったのは――
魔王様へ失態を晒してしまったことだ。
「……」
拳を握り締める。
折角認めていただいたというのに。
期待をかけていただいたというのに。
結果は惨敗。
無様にも程がある。
魔王様は今頃どう思われているだろうか。
失望されたのではないか。
見限られたのではないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
「お待ちください……魔王様」
震える声で呟く。
「このグリムフィッシャー、必ずや汚名を返上してみせます」
目を閉じる。
浮かぶのは絶対の主の姿。
「誰も成し遂げられなかった偉業を成し遂げ、人類を滅ぼし、この失態を払拭してみせましょう」
そうだ。
今回は失敗した。
だが次は違う。
次こそ成功させる。
魔海の大行進を成し遂げる。
人類を蹂躙する。
そして勇者をこの手で討ち取る。
あの男を殺し、その首を魔王様へ捧げることができれば、きっと再び認めていただけるはずだ。
いや、それだけではない。
功績次第では魔王様の右腕となることも夢ではない。
私はまだ終わっていない。
まだ這い上がれる。
そう信じていた。
そう信じて疑わなかった。
だが――
運命とは残酷なものだ。
魔海の大行進から数か月後。
私の願いは無残にも打ち砕かれる。
魔王様直々に告げられたのだ。
十死怪の称号剥奪を。
それは勇者に敗れた時以上の絶望だった。