「出でよ――魔導結界!!」
「魔導……結界?」
本格的に異形の姿へと変貌したグリムフィッシャーが、両手を合わせて不気味な合掌の構えを取る。
その口から飛び出したのは聞き慣れない単語だった。
魔導結界。
普通の結界でもなければ、魔障結界とも違う。
一体何をするつもりだ――そう警戒した瞬間だった。
「沈め。全ての地よ」
低く響く詠唱と共に、異変が起こる。
「なっ!?」
足元に冷たい感触が走った。
見れば、地面を覆うように海水が広がり始めている。
「海水……だと!?」
結界の中へ大量の水が流れ込んでくる。
だが、すぐに違和感に気付いた。
ヒビが入った訳ではない。
結界の維持が途切れた様子もない。
外部から浸水しているのではなく、まるで空間そのものから水が生み出されているかのようだった。
「まさか……これが奴の奥の手か」
嫌な予感が胸をよぎる。
そして、その予感は最悪の形で的中した。
「全ての地を無限の海原へと変えよ――【無限海牢《むげんかいろう》】!!」
轟くような宣言と共に、水位が一気に上昇した。
「無限……海牢?」
聞き返した自分に、グリムフィッシャーは愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「そうだ。魔導結界とは、ただの結界ではない」
ゆっくりと両腕を広げるグリムフィッシャー。
その姿は、まるで自らの世界を支配する王のようだった。
「術者の理想を具現化し、思い描いた世界を生み出す特別な結界。それが魔導結界だ!」
周囲の水位はさらに増していく。
足首だった水面は、すでに膝近くまで達していた。
「この【無限海牢】は私のためだけに創り上げた世界。たとえ陸であろうが、空であろうが、結界の内側に存在する全てを海へと変える!」
グリムフィッシャーは誇らしげに胸を張る。
「どんな戦場であろうと魚人族の本領を発揮できる。高い魔力と類稀なる才能を必要とする故、貴様らのような下等生物には決して辿り着けぬ領域だ! ふはははははは!!」
高笑いが結界内に響き渡る。
「……」
自分は黙ったまま周囲を見渡した。
どうやら魔導結界というのは、単純な防御結界ではないらしい。
術者にとって最も都合の良い環境そのものを創り出す能力。
そしてグリムフィッシャーが生み出した世界は、魚人族にとって絶対的な優位を誇る海だった。
つまり――。
どんな場所であろうと、奴は常に本来の力を発揮できる。
くそ。
ただでさえ圧倒的な強敵だというのに、さらに有利な戦場まで用意してきやがった。
「ちっ……!」
舌打ちをしながら、自分はすぐにマヒロを抱き上げる。
そしてグリムフィッシャーから距離を取るように後退した。
今の至近距離では危険すぎる。
もし奴が仕掛けてきた場合、彼女を守り切れる自信がない。
少しでも遠ざけなければ。
「ふははははは!! 距離を置いてどうする気だ?」
グリムフィッシャーは余裕たっぷりに笑う。
「どこへ逃げようと無意味! この結界が完全に海へと変わるまで残り三十秒!」
水位は刻一刻と上昇している。
まるで死へのカウントダウンだ。
「この空間が完全に海中と化した時、勝負は一瞬で終わるだろう! もっとも、貴様程度なら今の状態でも十分だがな!」
「……」
反論はしなかった。
いや、できなかった。
奴の言うことは事実だからだ。
距離を取ったところで状況は何も変わらない。
逃げ場はない。
結界の外へ出る手段もない。
そして三十秒後には、この空間全てが海の底になる。
そうなればグリムフィッシャーの独壇場だ。
地上ですらまともに勝負にならなかった相手。
本領を発揮した状態の奴を倒すなど、ほぼ不可能と言っていい。
だが――。
「……なら、やるしかないか」
自分は静かに呟く。
まだ終わった訳じゃない。
完全に浸水する前なら、わずかな勝機が残されている。
三十秒。
そう言ったが、実際にはそんな猶予はない。
奴が自由に泳げる水深に達した時点で状況は一変する。
そう考えれば残された時間は十秒あるかどうか。
本当に一瞬だ。
「待ってろよ、マヒロ」
結界の端へ彼女を静かに降ろす。
「すぐにケリをつけてやる」
残された手段は一つしかない。
一撃。
たった一度の攻撃に全てを賭ける。
失敗すれば終わり。
次はない。
自分はゆっくりと腰を落とし、全身の筋肉に力を込める。
固く握り締めた右拳。
その拳に、残された力の全てを集中させた。
心臓が激しく鼓動する。
肺が焼けるように熱い。
それでも構わない。
絶対に奴を倒す。
そして――マヒロを守り抜く。
その決意だけを胸に、自分は迫り来る絶望へと拳を向けた。