「……ふう」
残された時間は、あと十秒。
その間にグリムフィッシャーへ致命傷を与え、この結界から脱出しなければならない。
冷静に考えれば絶望的だ。
地上ですら圧倒された相手を倒し、その上で浸水し続ける結界から生還する。
まともな方法では到底不可能だろう。
だが――不思議なことに、自分の頭は冴え渡っていた。
追い詰められているはずなのに焦りはない。
むしろ余計な思考が削ぎ落とされ、必要な情報だけが鮮明に見えている。
勝機はある。
そんな確信にも似た直感が胸の奥で静かに燃えていた。
「……魔力を右腕に集中」
思い付いた策を確実に実行するため、自分は一つひとつ工程を口に出しながら確認する。
まずは体内を巡る魔力を右腕へ集約する。
すると、じわりと熱が生まれ始めた。
最初は暖を取る時のような微かな温もり。
しかし、それは瞬く間に増大していく。
肘。
前腕。
上腕。
右腕全体が焼けた鉄のように熱を帯び始めた。
やがて熱は痛みに変わる。
皮膚の下で業火が暴れているかのような灼熱。
気付けば腕そのものが焼失してもおかしくないほどの熱量になっていた。
炎属性の魔力を一点へ圧縮している影響だろう。
だが、それでいい。
むしろ狙い通りだ。
「……内側で炎を生成するイメージを」
さらに意識を集中させる。
炎を生み出す。
だが、外へ放出してはいけない。
拳に纏わせるのでもない。
体内。
右腕の内部だけで燃え盛る炎を想像する。
常識的に考えれば自殺行為だった。
少しでも制御を誤れば、自分の腕が先に吹き飛ぶ。
だが今の状況では他に選択肢がない。
外へ出した炎は海水に呑まれて消される。
だからこそ、炎は内に秘める必要があった。
限界まで圧縮し。
限界まで閉じ込める。
そして最後の瞬間に解き放つ。
「ぐっ……!」
イメージが完成した瞬間、激痛が全身を突き抜けた。
骨の内側で炎が燃えている。
筋肉が焼かれている。
そんな錯覚を覚えるほどの痛みだった。
思わず歯を食いしばる。
だが、それでも集中は切らさない。
ここで止まれば全てが終わる。
「……爆ぜる焔よ」
詠唱を開始する。
「火の球として右腕に聚合し――」
右腕が赤熱し始める。
皮膚の隙間から赤い光が漏れ出し、脈動するように明滅した。
「眼前に映りし標的へ――」
熱量はさらに上昇する。
もはや右腕は一つの爆弾だった。
「爆炎の一撃を与えん――!」
詠唱が進むにつれ、右腕は異様なまでに膨張していく。
赤黒く染まり、血管が浮かび上がる。
その光景は傍から見れば異形そのものだった。
「ぬっ!?」
グリムフィッシャーの表情が変わる。
先ほどまでの余裕は消え失せていた。
「なんだ、その力は……!?」
警戒。
困惑。
そして僅かな焦り。
奴の顔にはそれらが浮かんでいた。
自分が何をしようとしているのか理解できないのだろう。
だが、危険だけは本能で察したらしい。
「何を企んでいるか知らぬが、させるものか!!」
グリムフィッシャーが叫ぶ。
次の瞬間、下半身から伸びた無数の触手が一斉に襲い掛かってきた。
赤と白の巨大な触手。
四方八方から迫るそれは、まるで生きた壁だった。
一本でも捕まれば終わる。
全身の骨を砕かれ、そのまま海の底へ沈められるだろう。
だが――。
「……」
不思議なことが起きた。
触手が遅い。
あまりにも遅い。
まるで時が引き延ばされたように、全ての動きが鮮明に見えていた。
以前にもあった。
死線の中で一度だけ経験した感覚。
世界がスローモーションになる現象。
極限の集中状態。
その感覚が再び訪れていた。
触手の軌道。
力の流れ。
防御の隙間。
全てが見える。
そして――。
一本だけ道があった。
勝利へ続く細い一本道が。
「……スゥ」
深く息を吸う。
残り五秒。
海水はすでに胸元近くまで達していた。
本来なら満足に動くことすら難しい。
だが関係ない。
「脱兎跳躍《ラジャスト》」
身体強化を発動。
全身の筋肉が弾けるように躍動する。
そして――。
「はあっ!!」
地面を蹴った。
瞬間。
景色が吹き飛ぶ。
縮地にも似た超加速。
迫る触手の隙間を縫い、自分の身体は一直線にグリムフィッシャーへ迫った。
「なっ!?」
奴の目が見開かれる。
間に合わない。
もう対応はできない。
全ての攻撃を見切り、懐へ飛び込んだ時点で勝負は決していた。
後は――。
この拳を叩き込むだけ。
右腕の中で暴れ狂う炎。
限界まで圧縮された熱量。
ありったけの魔力。
ありったけの想い。
その全てを乗せて。
自分は拳を振り抜いた。
「【火球《フレール》】――」
右腕が眩く輝く。
「【
咆哮と共に放たれた拳は、真っ直ぐグリムフィッシャーの腹部へと突き刺さった。
次の瞬間――。
轟音。
そして爆発。
圧縮されていた炎が一気に解放され、凄まじい衝撃波となって炸裂する。
「が……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
グリムフィッシャーの絶叫が響く。
異形の巨体は爆発に呑まれ、そのまま砲弾のような勢いで吹き飛ばされた。
結界内の海水が激しく揺れ、衝撃が周囲へと荒れ狂う。
サダメの渾身の一撃は、ついに魔導結界の主へ届いたのだった。