「……」
あれからどれほどの時間が経ったのでござろうか。
あやつを斬った後の記憶はほとんど残っておらぬ。
気が付けば拙者は、暗く静かな無意識の海を漂っていた。
身体はぴくりとも動かない。
ただ水面に浮かぶ木の葉のように、流れに身を任せているだけ。
右も左も分からぬ。
上も下も分からぬ。
周囲はどこまでも真っ暗で、目を開けているのか閉じているのかすら判別できなかった。
身体の感覚もない。
重さもない。
痛みもない。
まるで自分という存在そのものが消えてしまったかのような、不思議な感覚だった。
生きているのか。
それとも死んでいるのか。
それすら分からぬ。
このまま永遠に漂い続けるのではないか。
そんな不安が胸をよぎる。
黄泉の国とは案外このような場所なのかもしれぬ。
だが、それは駄目でござる。
拙者はまだ死ねぬ。
まだ果たしていない約束がある。
まだ守りたい者達がおる。
だから――。
「……ん?」
その時だった。
何か暖かなものが唇に触れた。
不思議な感覚だった。
柔らかくて。
暖かくて。
どこか安心する。
それだけではない。
身体の奥へじんわりと熱が広がり、冷え切っていた心まで温められていくような気がした。
一体これは何なのでござろう。
訳も分からぬまま、その温もりに身を委ねる。
すると――。
「……ん」
薄っすらと意識が浮上し始めた。
身体は相変わらず動かない。
けれど、先程までよりも周囲の状況を認識できるようになっていた。
「……んん」
重たい瞼をゆっくりと開く。
霞んだ視界。
ぼやけた景色。
その中に、一つの顔が映り込んだ。
「……」
誰かがいる。
しかも物凄く近い。
吐息が触れそうなほど近く。
いや――。
実際に触れている。
唇に感じる温もり。
頬を掠める息遣い。
ぼやけた視界の向こうにいる人物を見て、拙者はゆっくりと理解した。
サダメ。
目の前にいるのはサダメだった。
「……ん」
そこでようやく現状を把握する。
なるほど。
そういうことでござったか。
拙者達はまだ海の中にいる。
身体が浮いているように感じるのもそのため。
あの魚人の魔物との戦いの後、結界が崩壊し、そのまま海中へ投げ出されたのでござろう。
そして気を失っていた拙者を助けるため、サダメは必死に人工呼吸をしてくれていたのだ。
つまり――。
今、唇が触れているのもそのため。
命を救うための行為。
それ以上でもそれ以下でもない。
理屈では理解している。
理解しているのでござるが――。
「……」
何故でござろう。
この温もりがとても心地良い。
苦しさも不安も薄れていく。
まるで冷えた身体が陽だまりに包まれているかのようだった。
生死の境を彷徨っているというのに。
こんな状況だというのに。
願わくば、この暖かさをもう少し感じていたい。
そう思ってしまう自分がいた。
「……んっ」
胸の奥が不思議と落ち着く。
安心する。
嬉しい。
そんな感情が静かに込み上げてくる。
これまで感じたことのない感覚だった。
生まれて初めて味わう感情かもしれぬ。
「……」
再び瞼が重くなる。
意識が遠のいていく。
本当なら抗うべきなのかもしれない。
だが、不思議と怖くなかった。
先程まで感じていた孤独も不安も、いつの間にか消えていたからだ。
きっとサダメが傍にいてくれるから。
そう思うだけで心が温かくなる。
意識が沈んでいく。
けれど、それは先程の暗闇とは違った。
無意識の世界には、もう闇しかなかった空間は存在しない。
遥か上方から柔らかな光が差し込んでいる。
優しくて。
暖かくて。
どこか懐かしい光。
まるで誰かが手を差し伸べてくれているようだった。
その光を見上げながら、拙者は静かに目を閉じる。
ああ。
この光をもっと浴びていたい。
ずっと見ていたい。
そう思ってしまうほど、その光は眩しく、美しかった。
ありがとう、サダメ。
そんな感謝の気持ちを胸に抱きながら、拙者の意識は再び穏やかな眠りへと沈んでいった。