転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第8章ー75

 「……」

 

 あれからどれほどの時間が経ったのでござろうか。

 

 あやつを斬った後の記憶はほとんど残っておらぬ。

 

 気が付けば拙者は、暗く静かな無意識の海を漂っていた。

 

 身体はぴくりとも動かない。

 

 ただ水面に浮かぶ木の葉のように、流れに身を任せているだけ。

 

 右も左も分からぬ。

 

 上も下も分からぬ。

 

 周囲はどこまでも真っ暗で、目を開けているのか閉じているのかすら判別できなかった。

 

 身体の感覚もない。

 

 重さもない。

 

 痛みもない。

 

 まるで自分という存在そのものが消えてしまったかのような、不思議な感覚だった。

 

 生きているのか。

 

 それとも死んでいるのか。

 

 それすら分からぬ。

 

 このまま永遠に漂い続けるのではないか。

 

 そんな不安が胸をよぎる。

 

 黄泉の国とは案外このような場所なのかもしれぬ。

 

 だが、それは駄目でござる。

 

 拙者はまだ死ねぬ。

 

 まだ果たしていない約束がある。

 

 まだ守りたい者達がおる。

 

 だから――。

 

 「……ん?」

 

 その時だった。

 

 何か暖かなものが唇に触れた。

 

 不思議な感覚だった。

 

 柔らかくて。

 

 暖かくて。

 

 どこか安心する。

 

 それだけではない。

 

 身体の奥へじんわりと熱が広がり、冷え切っていた心まで温められていくような気がした。

 

 一体これは何なのでござろう。

 

 訳も分からぬまま、その温もりに身を委ねる。

 

 すると――。

 

 「……ん」

 

 薄っすらと意識が浮上し始めた。

 

 身体は相変わらず動かない。

 

 けれど、先程までよりも周囲の状況を認識できるようになっていた。

 

 「……んん」

 

 重たい瞼をゆっくりと開く。

 

 霞んだ視界。

 

 ぼやけた景色。

 

 その中に、一つの顔が映り込んだ。

 

 「……」

 

 誰かがいる。

 

 しかも物凄く近い。

 

 吐息が触れそうなほど近く。

 

 いや――。

 

 実際に触れている。

 

 唇に感じる温もり。

 

 頬を掠める息遣い。

 

 ぼやけた視界の向こうにいる人物を見て、拙者はゆっくりと理解した。

 

 サダメ。

 

 目の前にいるのはサダメだった。

 

 「……ん」

 

 そこでようやく現状を把握する。

 

 なるほど。

 

 そういうことでござったか。

 

 拙者達はまだ海の中にいる。

 

 身体が浮いているように感じるのもそのため。

 

 あの魚人の魔物との戦いの後、結界が崩壊し、そのまま海中へ投げ出されたのでござろう。

 

 そして気を失っていた拙者を助けるため、サダメは必死に人工呼吸をしてくれていたのだ。

 

 つまり――。

 

 今、唇が触れているのもそのため。

 

 命を救うための行為。

 

 それ以上でもそれ以下でもない。

 

 理屈では理解している。

 

 理解しているのでござるが――。

 

 「……」

 

 何故でござろう。

 

 この温もりがとても心地良い。

 

 苦しさも不安も薄れていく。

 

 まるで冷えた身体が陽だまりに包まれているかのようだった。

 

 生死の境を彷徨っているというのに。

 

 こんな状況だというのに。

 

 願わくば、この暖かさをもう少し感じていたい。

 

 そう思ってしまう自分がいた。

 

 「……んっ」

 

 胸の奥が不思議と落ち着く。

 

 安心する。

 

 嬉しい。

 

 そんな感情が静かに込み上げてくる。

 

 これまで感じたことのない感覚だった。

 

 生まれて初めて味わう感情かもしれぬ。

 

 「……」

 

 再び瞼が重くなる。

 

 意識が遠のいていく。

 

 本当なら抗うべきなのかもしれない。

 

 だが、不思議と怖くなかった。

 

 先程まで感じていた孤独も不安も、いつの間にか消えていたからだ。

 

 きっとサダメが傍にいてくれるから。

 

 そう思うだけで心が温かくなる。

 

 意識が沈んでいく。

 

 けれど、それは先程の暗闇とは違った。

 

 無意識の世界には、もう闇しかなかった空間は存在しない。

 

 遥か上方から柔らかな光が差し込んでいる。

 

 優しくて。

 

 暖かくて。

 

 どこか懐かしい光。

 

 まるで誰かが手を差し伸べてくれているようだった。

 

 その光を見上げながら、拙者は静かに目を閉じる。

 

 ああ。

 

 この光をもっと浴びていたい。

 

 ずっと見ていたい。

 

 そう思ってしまうほど、その光は眩しく、美しかった。

 

 ありがとう、サダメ。

 

 そんな感謝の気持ちを胸に抱きながら、拙者の意識は再び穏やかな眠りへと沈んでいった。

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