下へ。
さらに下へ。
ただ、生き延びるためだけに。
銀鏡の翼龍は崩れゆく大地を砕きながら、闇の底へと潜り続けた。
巨体が岩盤を押し潰すたび、轟音が地下を震わせる。
しかし、その音さえ人類を遠ざけることはできなかった。
背後からは容赦なく追撃が飛ぶ。
結界越しに放たれる魔法。
狙い澄ました術式。
岩壁ごと貫く一撃。
逃げる最中も幾度となく攻撃を受け、銀色の鱗には新たな傷が刻まれ続ける。
通路は歪だった。
場所によっては身体を無理やり捻じ込まなければ進めないほど狭く、またある場所では崩れかけた岩盤が行く手を塞ぐ。
それでも止まれない。
止まれば、その瞬間に終わる。
――逃げろ。
――生きるために。
ただその一念だけで、巨体を前へと押し進める。
だが。
それでもなお、人類は追ってくる。
どれほど地下深く潜ろうとも。
どれほど複雑に入り組んだ道を選ぼうとも。
決して追跡を諦めない。
まるでこちらの思考を見透かしているかのように、最短の経路を選び、退路を潰し、逃げ場を削っていく。
――くそ……。
怒りよりも先に、焦燥が胸を満たした。
――油断さえ、しなければ……。
逃げながら、己の愚かさを噛み締める。
故郷で蹂躙した人類。
あれこそが、人という種のすべてだと思い込んでいた。
恐怖に震え。
力の差に絶望し。
ただ蹂躙されるだけの弱き存在。
だが、この国の人類は違った。
空気を満たす濃密な魔力。
その環境へ適応し、長い年月をかけて磨き上げられた魔法技術。
結界の完成度。
連携の速さ。
攻撃の正確さ。
どれを取っても、故郷で出会った者たちとは比べものにならない。
彼らは、この土地で生き抜くために進化していた。
そして。
進化したのは人類だけではない。
知らぬ間に、自分自身の立場も変わっていた。
狩る者だと思っていた。
だが今は違う。
狩られているのは、自分だった。
――もう……駄目だ。
逃走を続ける中で、その事実を悟る。
体内には、なお火球の熱が燻り続けている。
焼かれた臓腑は魔力の流れを乱し、思うように力が巡らない。
【百夜の咆哮《ホワイト・ブレス》】を放つだけの余力も、もはや残されていなかった。
そして――。
ついに、その時は訪れる。
行き止まり。
巨大な地下空洞の最奥。
これ以上、下へ進む道はない。
銀鏡の翼龍は荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと頭を持ち上げた。
岩壁の向こう。
遠く離れた場所からでも、人類の魔力ははっきりと感じ取れる。
着実に、こちらへ近づいている。
――見つかるな……。
胸の奥で、小さな願いが生まれる。
このまま気付かれずに済めば。
ほんの少しでも時間が稼げれば。
傷は癒え、再び戦えるかもしれない。
そんな淡い希望は――。
あまりにも脆かった。
魔力探知。
こちらを探る人類の術式が、瞬く間に己の存在を暴き出す。
逃れられない。
もう、隠れることもできない。
――……ここまでか。
完全に追い詰められた。
逃げ道はない。
頭上では、数人の人類が止めを刺すべく魔法を展開しながら降下してくる。
彼らの姿を見つめながら。
銀鏡の翼龍は静かに思う。
――まだ、死にたくない。
その想いだけが、胸の奥で燃えていた。
――こんなところで、終わってたまるものか……。
それは、最強としての誇りではない。
世界を支配したいという欲望でもない。
ただ、生きたい。
その一心だけだった。
残された魔力を、最後の一滴まで絞り出す。
向ける先は敵ではない。
自分自身。
ゆっくりと口を開き、凍てつく吐息を吐き出す。
吹き荒れた冷気が、自らの巨体を包み込んだ。
鱗を覆い。
翼を閉ざし。
四肢を凍らせ。
全身が、分厚い氷へと閉じ込められていく。
さらに吐息は止まらない。
己を中心に氷を積み重ね、逃げてきた通路を塞ぎ、幾重にも氷壁を築き上げる。
誰も近づけぬように。
誰にも見つけられぬように。
巨大な氷柱は天へ向かって伸び、やがて空洞そのものを覆い尽くすほどの氷塊へと姿を変えていった。
それは守りだった。
外敵を拒む最後の砦。
それは檻だった。
己を永い眠りへ閉じ込める牢獄。
そして――。
いつか目覚める日まで命を繋ぐ、巨大な棺でもあった。
銀鏡の翼龍は洞穴の最奥で、氷に抱かれるように静かに横たわる。
深い闇の中。
誰も辿り着けぬ世界の底で。
長く、果てしない眠りへ落ちていく。
その瞳に最後まで宿っていたのは、絶望ではない。
再び目覚める、その日への執念。
そしていつか、人類へ雪辱を果たすという、消えることのない意志だった。