転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第9章ー90

 ――……。

 

 どれほどの時が流れたのか。

 

 銀鏡の翼龍自身にも、もはや正確な年月は分からなかった。

 

 百年か。

 

 あるいは数百年か。

 

 それとも、さらに長い時が過ぎ去っているのか。

 

 確かなことは一つだけ。

 

 あの死地から逃れ、自らを氷へ閉じ込めて以来、想像を絶する歳月が流れたという事実だけだった。

 

 あの時、自分は死を覚悟していた。

 

 誇りを捨て、命だけを繋ぐために氷へ身を沈めた。

 

 目覚めることなど、二度とないかもしれない。

 

 そんな覚悟すらしていた。

 

 だが――。

 

 彼は死ななかった。

 

 分厚い氷塊の奥深く。

 

 誰にも届かぬ棺の中で、銀鏡の翼龍は今なお存在し続けていた。

 

 かつて人類の魔法によって砕かれた鱗。

 

 勇者の火球に焼き尽くされかけた臓腑。

 

 そのすべてが、永い時の流れとともに少しずつ癒えていく。

 

 体内を巡る魔力も、完全ではないながら確かな循環を取り戻しつつあった。

 

 ――生きて……いるのか。

 

 その実感だけが、胸の奥で静かに広がる。

 

 しかし、それは決して自由を意味しなかった。

 

 氷はなおも彼の全身を封じ込めている。

 

 翼は動かない。

 

 爪も動かない。

 

 尾も、首も。

 

 巨大な身体は、まるで岩そのものになったかのように一切動かなかった。

 

 ただ一つ。

 

 意識だけが、ゆっくりと目覚め始めていた。

 

 ――あと……どれほど待てばいい。

 

 許されている動作は、瞬きだけ。

 

 わずかに動く瞳で、氷越しに揺らめく淡い光を見つめながら、彼は果てしない思考を繰り返す。

 

 生き延びた。

 

 確かに命は繋いだ。

 

 だが、このまま動けなければ何の意味がある。

 

 ここから出られなければ。

 

 世界へ戻れなければ。

 

 それは死と何が違う。

 

 ――いや。

 

 違う。

 

 死よりも、なお残酷だった。

 

 死には終わりがある。

 

 だが、この拘束には終わりが見えない。

 

 世界から完全に切り離され。

 

 誰にも知られず。

 

 誰とも交わることなく。

 

 ただ永遠にも等しい時間だけが流れ続ける。

 

 それは、生きながら棺へ閉じ込められることと何も変わらなかった。

 

 ――どうにかして……抜け出さねば。

 

 何度も考える。

 

 何度も思考を巡らせる。

 

 だが答えは出ない。

 

 魔力は回復しつつあるとはいえ、まだ完全ではない。

 

 そして何より、この氷は自ら築き上げた最後の砦だった。

 

 外敵を拒む守りであると同時に、自らを閉じ込める牢獄でもある。

 

 壊そうにも壊せない。

 

 動こうにも動けない。

 

 考えれば考えるほど思考は堂々巡りとなり、出口のない迷路へ迷い込んでいく。

 

 その時だった。

 

 「――ほお? 其方が噂の龍《ドラゴン》というものか?」

 

 ――ッ!?

 

 静寂だけが支配していた氷海が、一瞬で異変に包まれた。

 

 視界の端から、赤い色がじわりと滲み始める。

 

 それは炎の赤ではない。

 

 夕焼けの赤でもない。

 

 まるで大量の鮮血を流し込んだかのような、不気味で濃密な深紅だった。

 

 氷の内部を侵食するように、その色はゆっくりと広がっていく。

 

 同時に。

 

 はっきりとした「声」が響いた。

 

 ――誰だ!?

 

 銀鏡の翼龍は反射的に瞬きを繰り返す。

 

 警戒。

 

 困惑。

 

 そして本能的な危機感。

 

 だが、顔一つ動かせない彼には周囲を見渡す術すらない。

 

 声は確かに聞こえる。

 

 すぐ近くにいるはずなのに。

 

 視界のどこにも姿はない。

 

 「そう身構える必要はない。私は貴様へ危害を加えるつもりは一切ない」

 

 落ち着き払った声音だった。

 

 威圧はない。

 

 敵意もない。

 

 だが、それにもかかわらず。

 

 言葉の一つひとつから、圧倒的な格の違いが伝わってくる。

 

 存在そのものが、自分とは異なる。

 

 そう本能が告げていた。

 

 ――姿を現せ。

 

 視線だけを左右へ巡らせる。

 

 だが何も見えない。

 

 前方も。

 

 左右も。

 

 背後は岩盤。

 

 足元は氷。

 

 気配すら感じ取れない。

 

 それなのに、確かに「そこ」にいる。

 

 この異様な現象を前にして、銀鏡の翼龍は一つの結論へ辿り着く。

 

 ――人族ではない。

 

 断言できた。

 

 こんな芸当が、人類にできるはずがない。

 

 姿を見せることなく意識へ直接語りかけ。

 

 氷そのものを血のような赤へ染め上げる。

 

 そんな存在を、彼はこれまで一度も見たことがなかった。

 

 ならば。

 

 目の前にいるのは、一体何者なのか。

 

 警戒は消えない。

 

 それでも同時に、胸の奥では抑え切れない好奇心が静かに膨らんでいく。

 

 ――……貴様は、一体、何者だ。

 

 長い沈黙が流れた。

 

 やがて、その沈黙を楽しむように小さな笑みを含んだ吐息が響く。

 

 「私は――――」

 

 一拍置き。

 

 深紅に染まった氷海へ、その名が静かに響き渡ろうとしていた。

 

 「名は――――――――――」

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