――……。
どれほどの時が流れたのか。
銀鏡の翼龍自身にも、もはや正確な年月は分からなかった。
百年か。
あるいは数百年か。
それとも、さらに長い時が過ぎ去っているのか。
確かなことは一つだけ。
あの死地から逃れ、自らを氷へ閉じ込めて以来、想像を絶する歳月が流れたという事実だけだった。
あの時、自分は死を覚悟していた。
誇りを捨て、命だけを繋ぐために氷へ身を沈めた。
目覚めることなど、二度とないかもしれない。
そんな覚悟すらしていた。
だが――。
彼は死ななかった。
分厚い氷塊の奥深く。
誰にも届かぬ棺の中で、銀鏡の翼龍は今なお存在し続けていた。
かつて人類の魔法によって砕かれた鱗。
勇者の火球に焼き尽くされかけた臓腑。
そのすべてが、永い時の流れとともに少しずつ癒えていく。
体内を巡る魔力も、完全ではないながら確かな循環を取り戻しつつあった。
――生きて……いるのか。
その実感だけが、胸の奥で静かに広がる。
しかし、それは決して自由を意味しなかった。
氷はなおも彼の全身を封じ込めている。
翼は動かない。
爪も動かない。
尾も、首も。
巨大な身体は、まるで岩そのものになったかのように一切動かなかった。
ただ一つ。
意識だけが、ゆっくりと目覚め始めていた。
――あと……どれほど待てばいい。
許されている動作は、瞬きだけ。
わずかに動く瞳で、氷越しに揺らめく淡い光を見つめながら、彼は果てしない思考を繰り返す。
生き延びた。
確かに命は繋いだ。
だが、このまま動けなければ何の意味がある。
ここから出られなければ。
世界へ戻れなければ。
それは死と何が違う。
――いや。
違う。
死よりも、なお残酷だった。
死には終わりがある。
だが、この拘束には終わりが見えない。
世界から完全に切り離され。
誰にも知られず。
誰とも交わることなく。
ただ永遠にも等しい時間だけが流れ続ける。
それは、生きながら棺へ閉じ込められることと何も変わらなかった。
――どうにかして……抜け出さねば。
何度も考える。
何度も思考を巡らせる。
だが答えは出ない。
魔力は回復しつつあるとはいえ、まだ完全ではない。
そして何より、この氷は自ら築き上げた最後の砦だった。
外敵を拒む守りであると同時に、自らを閉じ込める牢獄でもある。
壊そうにも壊せない。
動こうにも動けない。
考えれば考えるほど思考は堂々巡りとなり、出口のない迷路へ迷い込んでいく。
その時だった。
「――ほお? 其方が噂の龍《ドラゴン》というものか?」
――ッ!?
静寂だけが支配していた氷海が、一瞬で異変に包まれた。
視界の端から、赤い色がじわりと滲み始める。
それは炎の赤ではない。
夕焼けの赤でもない。
まるで大量の鮮血を流し込んだかのような、不気味で濃密な深紅だった。
氷の内部を侵食するように、その色はゆっくりと広がっていく。
同時に。
はっきりとした「声」が響いた。
――誰だ!?
銀鏡の翼龍は反射的に瞬きを繰り返す。
警戒。
困惑。
そして本能的な危機感。
だが、顔一つ動かせない彼には周囲を見渡す術すらない。
声は確かに聞こえる。
すぐ近くにいるはずなのに。
視界のどこにも姿はない。
「そう身構える必要はない。私は貴様へ危害を加えるつもりは一切ない」
落ち着き払った声音だった。
威圧はない。
敵意もない。
だが、それにもかかわらず。
言葉の一つひとつから、圧倒的な格の違いが伝わってくる。
存在そのものが、自分とは異なる。
そう本能が告げていた。
――姿を現せ。
視線だけを左右へ巡らせる。
だが何も見えない。
前方も。
左右も。
背後は岩盤。
足元は氷。
気配すら感じ取れない。
それなのに、確かに「そこ」にいる。
この異様な現象を前にして、銀鏡の翼龍は一つの結論へ辿り着く。
――人族ではない。
断言できた。
こんな芸当が、人類にできるはずがない。
姿を見せることなく意識へ直接語りかけ。
氷そのものを血のような赤へ染め上げる。
そんな存在を、彼はこれまで一度も見たことがなかった。
ならば。
目の前にいるのは、一体何者なのか。
警戒は消えない。
それでも同時に、胸の奥では抑え切れない好奇心が静かに膨らんでいく。
――……貴様は、一体、何者だ。
長い沈黙が流れた。
やがて、その沈黙を楽しむように小さな笑みを含んだ吐息が響く。
「私は――――」
一拍置き。
深紅に染まった氷海へ、その名が静かに響き渡ろうとしていた。
「名は――――――――――」