――ッ!?
まるで自分の思考を見透かしたかのような絶妙な間で、その謎の存在は己の名を名乗ろうとした。
だが、その名を聞き取ることはできなかった。
いや、正確には違う。
確かに耳には届いたはずなのに、その名はまるで最初から存在しなかったかのように脳裏から零れ落ち、記憶に留めることができなかった。
「私はな、この地に“美しい龍が眠っている”という噂を耳にしてな。半信半疑ではあったが、退屈しのぎに様子を見に来たというわけだ」
赤く染まった氷海の中で、その声だけが不思議なほど鮮明に響き渡る。
「だが……なるほど。噂は誇張ではなかったようだな。その銀色の翼、鏡のように光を映す鱗――やはり、其方で間違いあるまい。そうであろう?」
――……。
言葉の意味を完全に理解できたわけではない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この存在は、純粋な好奇心だけで自分のもとを訪れたらしい、ということだ。
「退屈しのぎ」という言葉には、わずかな苛立ちを覚えた。
だが、不思議と怒りは湧かなかった。
相手から敵意も殺意も感じられないからだ。
それどころか、その声音には獲物へ向ける興味ではなく、まるで至高の芸術品を前にした鑑賞者のような陶酔すら滲んでいた。
「しかし……まだ傷は完全には癒えておらぬか。万全の姿であれば、さらに美しく映えたであろうに」
心底残念そうな響き。
その言葉に、銀鏡の翼龍は否応なく己の姿を意識させられる。
全身に刻まれた無数の裂傷。
欠け落ち、ひび割れた銀色の鱗。
かつて誰も寄せつけなかった絶対的な威容は、今では見る影もない。
自分が、ここまで無様な姿へ成り果てるなど――あの頃は想像すらしたことがなかった。
「ふむ……この氷塊は、其方自身の魔力で形成されたものだな」
謎の存在は、すでに全てを見透かしているかのように呟く。
「己を氷で包み、その内部でゆっくりと傷を癒している。理にかなった選択だ。だが……完治には、まだしばらく時を要するであろう」
そして、少しだけ沈黙が流れた。
「そうだな。であれば――こうしよう」
――?
唐突な言葉に、銀鏡の翼龍は思考を巡らせる。
「其方の傷が完全に癒えた時、私が迎えに来よう」
――なっ!?
予想だにしなかった提案だった。
その言葉の意味を理解するまで、一瞬の間が生まれる。
「美しき姿を取り戻した暁には、其方を私の配下として迎え入れる。どうだ?」
問いかけでありながら、その声には揺るぎない確信が宿っていた。
「このまま誰にも知られぬまま眠り続け、時と共に朽ち果てるよりは……幾分か、ましであろう?」
――……。
なるほど。
観光目的という話は、おそらく口実に過ぎなかったのだろう。
本当の目的は、この勧誘だった。
正体も知れぬ存在の配下となる。
それは屈辱でもあり、不安でもある。
だが――。
このまま永遠に氷の中で眠り続けるだけの生涯など、望むものではない。
外へ出られる可能性があるのなら。
たとえどのような手段であろうと、その機会を掴むべきだ。
――わかった。好きにするといい。
言葉を発することはできない。
代わりに、銀鏡の翼龍は静かに一度だけ瞬きをした。
その意思は、確かに伝わったのだろう。
「うむ。交渉成立だな」
満足げな声が、静かな氷海へと溶けていく。
「では、私は一度失礼しよう。この状態では、私の魔力が介入し、其方の治癒を妨げてしまうようだからな」
「また数十年後か、あるいは数百年後か……いずれ再び会おう」
その言葉を最後に、謎の存在の気配はゆっくりと遠ざかっていく。
赤く染まっていた氷塊も、まるで何事もなかったかのように、本来の透き通った輝きを取り戻していった。
やがて、静寂だけが残る。
銀鏡の翼龍は、再び待つことを選んだ。
約束の日が訪れる、その時まで。
永く、永く続く眠りの中で――。