夏休みが終わる前日。
学園本館最上階にある理事長室では、理事長リーフ・エンドレッドと教諭アサヒ・コールスタッシュの二人が、これといって緊張感のない雑談を交わしていた。
――少なくとも、俺はそう思っていた。
「俺が、レールステンに?」
思わず眉をひそめる。
自分の耳を疑った。
「そう。君に彼の個別指導を任せたいと思ってね」
理事長は、まるで大したことではないと言わんばかりに涼しい顔で答える。
だが、その内容は俺にとって、とんでもないものだった。
サダメ・レールステン。
この夏、盛大に問題を起こした挙句、とんでもない功績まで引っ提げて帰ってきた生徒。
そんなガキの面倒を、俺に見ろというのだ。
「夏休みに馬鹿をやらかしたガキに、俺が鍛錬をつけろって? なんでそんな面倒くせー役を俺がやらにゃいけないんですかね」
肩をすくめ、わざとらしくため息を吐く。
「炎魔法なら、
「キリヤ先生は今、危険度の高い依頼で学園を離れている。君と違ってね」
「……それ、嫌味っすか?」
口の端が引きつる。
図星だった。
この学園の教員は、表向きは生徒へ魔法を教える教育者だ。
だが、その実態はそれだけではない。
騎士団や王国から指名を受ければ、学園の外へ赴き、強力な魔物の討伐や危険区域の調査など、冒険者や騎士団だけでは対処しきれない案件を請け負う。
つまり――学園そのものが、王国にとって一つの戦力でもあるのだ。
その中でも、キリヤ・オーヴェンは筆頭と言っていい。
圧倒的な実力を持つ炎魔法の使い手であり、その強さゆえに依頼も絶えない。
一方の俺はというと――学園の外へ出ることがほとんどない。
もちろん、これには事情がある。
そして、その事情については理事長も承知しているはずだ。
だからこそ、わざわざそこを突くような言い方をされると腹が立つ。
「冗談はさておいて」
理事長の声音が、わずかに低くなった。
先ほどまでの軽い雰囲気が消える。
「君にしか頼めないことなんだ」
「……」
「彼は勇者に対して、並々ならぬ思いを抱いてこの学園へ来た。そんな彼を、放っておけるかい?」
「いや、んなこと知ったこっちゃないんですけど」
ぶっきらぼうに返す。
だが、理事長は気にした様子もなく、穏やかな笑みを浮かべていた。
「そんな言い方をしなくてもいいじゃないか」
「事実でしょうが」
「それに――彼には確かな力がある」
その一言で、理事長の表情から笑みが少しだけ消えた。
「彼は、あの“十死怪”を討伐した」
「……」
「あれほどの存在を、僅か十六歳でだ。冒険者や騎士団の精鋭であっても、そう簡単に成し遂げられる偉業ではない」
淡々と語られる言葉。
だが、その一つ一つには確かな重みがあった。
「彼には、間違いなく素質がある。ならば、その才能を見つけた私たちが、導かずに終わらせるわけにはいかないだろう」
理事長の視線が、真っ直ぐこちらへ向けられる。
「私たちが胡坐をかいて、彼の可能性を腐らせるわけにはいかない」
「……」
軽口を返そうとして――やめた。
もう、そんな空気ではなかった。
「頼む」
短い言葉。
それから、理事長はゆっくりと続けた。
「どうか彼の夢を、君の手で叶えてほしい」
「……」
「これは――君にしか頼めないことなんだ」
真っ直ぐな眼差しだった。
逃げ道を塞ぐような圧がある。
だが、それは強引なものではない。
誠実で。
だからこそ、重かった。
……本気だ。
この人は、本気でサダメ・レールステンを次世代の勇者に育て上げようとしている。
だからこそ、俺には分からなかった。
――なぜ、そこまでする?
『あんなこと』があったというのに。
奴が、同じ運命を辿らないとでも思っているのか。
「……はあ」
結局、俺の口から出てきたのは深いため息だった。
「わーっりましたよ」
諦めたように頭を掻く。
「やれるだけのことはやっときますよ。言っときますけど、保証はしませんからね?」
理事長の表情が、ほんのわずかに和らいだ。
「……ああ。ありがとう」
断れない空気だった。
――いや。
正確には、断る理由を自分自身が持てなかったのだ。
サダメ・レールステン。
あのガキが何を目指しているのか。
どこまで進めるのか。
それは、俺にも分からない。
まあ、いい。
もし途中で心が折れるなら、それまでの話だ。
進むのか。
退くのか。
結局のところ、それを決めるのは本人自身なのだから。
自分は、ただ火を投げ込むだけ。
その火が燃え広がるのか。
それとも、途中で消えてしまうのか。
それは本人次第だ。
……だが。
もし、あいつが本当に勇者を目指すというのなら。
その火が消えないように、薪をくべるくらいはしてやってもいい。
こうして俺は――。
サダメ・レールステンの個別指導を受け持つこととなった。