サダメたちが迷宮を攻略している頃――。
地上では、すでに夜が深まっていた。
厚い雲が月を覆い、魔法学園の広大な敷地は、ほとんど完全な闇に包まれている。
窓から漏れるわずかな明かりを除けば、視界を照らすものはほとんどない。
風が吹く。
木々の葉が擦れ合い、夜の静寂の中へ乾いた音を響かせていた。
そんな中――ひとりの男が、誰もいない校舎の廊下を歩いていた。
トービス・ライラック。
魔法学園の教員であり、実直で堅物な性格として知られる男である。
彼は今日も遅くまで事務仕事に追われ、ようやく帰宅しようとしていたところだった。
だが。
この学園には、長年にわたって続いている一つの暗黙の習慣がある。
――その日の最後に帰る教員は、必ず校内を見回る。
明文化された規則ではない。
それでも、誰もが当然のように守っている。
生徒たちを預かる教員としての責務。
あるいは、長い年月の中で自然と根付いた習わしと言うべきか。
学園そのものに、外部から侵入することは容易ではない。
敷地の周囲には強固な結界が張り巡らされ、さらに複数の防衛用魔道具も設置されている。
盗賊や魔物が侵入する可能性など、限りなく低い。
そのため、警備兵を常駐させる必要すらない。
万が一、外部から異常な存在が侵入すれば、教員寮に設置された警戒魔道具が即座に反応し、警報を発する仕組みになっている。
――だが。
問題は、外ではない。
内側だ。
夜更けに勝手に外へ出ようとする生徒。
立入禁止区域へ忍び込む生徒。
危険な魔法実験を、教員に隠れて行う生徒。
そして――本人に悪意はなくとも、本人の想像を遥かに超える事故を引き起こす生徒。
そうした「内部の問題」は、これまでにも何度か発生していた。
だからこそ。
夜間の巡回は、今も続けられている。
「……うむ。今日も特に異常はないかな」
ライラックは低く呟いた。
最後に足を運んだ中庭を見渡す。
風に揺れる木々。
静まり返った校舎。
人の気配はない。
異常なし。
そう判断したライラックは、ようやく帰路へ就こうと踵を返した。
その時だった。
「……ん?」
ふと。
視界の端に、僅かな違和感が映り込む。
ライラックは足を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
視線の先。
普段なら完全に闇へ沈んでいるはずの旧棟。
その二階にある、一室。
そこから――微かな光が漏れていた。
「……あそこは……」
ライラックは目を細める。
その部屋が何なのか、彼はよく知っていた。
魔法学園二年。
ソンジ・マートス。
天才的な魔道具開発者であり、学園内でも異例の待遇を受けている生徒。
理事長リーフ・エンドレッド直々の許可によって空き教室を研究室として与えられ、通常授業への参加を一部免除される代わりに、自由研究を続けている。
彼女の技術力は教員陣からも高く評価されており、学園で使用されている魔道具の整備や、新型魔道具の開発にも協力している。
――いわば、学園にとって欠かすことのできない頭脳の一人だ。
だからこそ。
ライラックは、その光を見た瞬間に違和感を覚えた。
「……妙だな」
眉間に皺が寄る。
確か、ソンジは今日から数日間、迷宮攻略任務へ同行しているはずだ。
担当教諭であるアサヒ・コールスタッシュからも、その旨は報告を受けている。
つまり――。
今、この学園にソンジはいない。
それなのに。
彼女の研究室には、明かりが灯っている。
「……まさか」
胸の奥を、嫌な感覚が撫でた。
もし、何者かが学園へ侵入しているのだとしたら。
そして、よりにもよってソンジの研究室へ入り込んでいるのだとしたら――。
中には、危険な試作魔道具がいくつもある。
未完成の魔道具。
扱いを誤れば事故に繋がりかねない装置。
そして――あの転送装置。
その存在を知っているからこそ、ライラックの表情は険しくなった。
「……盗難、か?」
可能性の一つが脳裏をよぎる。
ライラックは静かに息を吸った。
そして、足運びを変える。
石畳を踏めば、本来なら靴音が響く。
だが、彼は意図的に気配を殺した。
一歩。
また一歩。
音を立てず、旧棟へ近づいていく。
廊下へ入る。
階段を上る。
その間も、二階から漏れる光は消えない。
むしろ。
近づけば近づくほど、その異常さが鮮明になっていく。
――誰かいるのか。
ライラックは警戒を強める。
研究室の前へ続く廊下。
そこには、人の気配がない。
静かすぎる。
だからこそ――不気味だった。
やがて。
彼は研究室の扉を視界に捉えた。
扉の隙間から、細い光が漏れている。
ライラックは足を止めた。
そして、ゆっくりと息を整える。
何がいる。
何が起きている。
まだ、何も分からない。
それでも。
この先に何かがあることだけは、確かだった。
夜の学園に、ただ一つ灯る不審な光。
それはまだ小さな異変に過ぎない。
だが――。
この時のライラックは知らなかった。
その光こそが。
この後、学園を揺るがすことになる“異変”の始まりだったということを。