「……」
息を殺し、慎重に扉の前までたどり着いたライラックは、ゆっくりと身を屈めた。
扉は完全には閉まっていない。
僅かに開いた隙間から、室内を覗き込む。
まずは――魔力感知。
意識を集中させ、部屋の空気に漂う魔力の流れを読み取っていく。
生物が発する魔力。
特に、人間特有の魔力波形を探る。
――反応なし。
ライラックは眉を寄せた。
室内に、人間らしき魔力は一切感じられない。
しかし、それだけで安全と判断するほど、彼は楽観的ではなかった。
魔力を遮断する魔道具。
気配を隠蔽する術式。
あるいは、単純に感知範囲の外へ逃れる方法。
魔術の世界には、探知を欺く手段などいくらでも存在する。
「反応がない=誰もいない」とは限らない。
それが、長年教員を務めてきたライラックの経験則だった。
その時――。
コトン。
室内から、小さな音が響いた。
「……」
ライラックの目が鋭くなる。
コトン。
まただ。
金属でも、木材でもない。
何か軽い物体が、机の上から滑り落ちたような音。
だが、その間隔が妙に不規則だった。
コトン。
……コトン。
まるで、誰かが室内で何かを弄っているようにも聞こえる。
「……誰か、いるのか?」
低く問いかける。
返事はない。
侵入者が研究室を物色している。
そう考えるのが自然だった。
だが――おかしい。
人の気配が、まるでない。
魔力も感じない。
それなのに、物音だけが聞こえてくる。
まるで――。
“人の手を介さず、勝手に物が動いている”
そんな印象すら受ける。
ライラックは警戒を解かぬまま、さらに目を細めた。
扉の隙間から、室内をくまなく確認する。
机の下。
棚の陰。
ロッカーの隙間。
部屋の奥。
……人影はない。
「……?」
数秒間、沈黙が続いた。
やがて。
「……はあ」
ライラックは小さく息を吐き出した。
どうやら、本当に無人らしい。
僅かに張り詰めていた肩の力が抜ける。
――とはいえ。
念には念を入れる。
それが彼の性格だった。
「念のために、よろしく頼むよ」
そう呟くと、ライラックは右手を軽く開いた。
すると、その掌から灰色の小さな鼠が姿を現す。
彼の使い魔――【
手のひらほどの大きさしかない小さな鼠だが、その探索能力は非常に優秀だ。
床へ降り立った瞬間。
使い魔は、まるで命令を理解しているかのように駆け出した。
机の下へ潜り込む。
棚の裏へ回り込む。
ロッカーの隙間へ身体を滑り込ませる。
さらには、人間なら到底入り込めないような僅かな隙間まで、次々と調べていく。
まさに、“隙間という隙間”を探り尽くすような探索だった。
やがて――数十秒。
小さな鼠が、ライラックの足元へ戻ってくる。
そして、ちょこんと首を横へ振った。
――異常なし。
「ここまでやれば、流石に大丈夫だろう」
ライラックは、わずかに苦笑する。
どうやら侵入者の類ではないらしい。
「まったく……」
改めて室内へ視線を向ける。
「この前、“機材の電源は必ず切るように”と注意したばかりだというのに」
呆れたように呟きながら、ライラックは室内へ足を踏み入れた。
そして、ようやく気づく。
部屋の中には、複数の魔導機器が並んでいた。
そのほとんどが稼働したままだ。
小さな駆動音を立てながら装置が動き続け、いくつもの画面には淡い光が表示されている。
どうやら、これが外から見えていた明かりの正体だったらしい。
「……なるほど」
さらに、先ほどから聞こえていた物音にも気づく。
コトン。
ちょうどその時、また一つ音が鳴った。
視線を向ける。
すると、机の上に設置された装置から、小さな部品が一つ排出されていた。
一定の処理が完了するたびに、部品を自動で排出する仕組みらしい。
つまり――。
先ほどから聞こえていた音も、この装置の作動音だったのだ。
原因が分かり、ライラックは思わず頭を掻いた。
「……まったく」
大きな問題ではなかった。
だが、別の意味で頭が痛い。
「研究熱心なのは結構だが、これでは火事の原因にもなりかねないぞ……」
誰もいない室内へ向けて、ぼやく。
もちろん、返事はない。
ソンジ本人は今頃、迷宮の中だ。
ならばせめて、自分が消しておくべきだろう。
ライラックは机へ歩み寄った。
「ええと……確か、ここをこうして……」
以前、ソンジ本人から教えられた操作方法を思い出しながら、慎重に機器を操作していく。
カチ。
まず一つ。
モニターが暗くなる。
続いて、別の装置へ手を伸ばす。
カチ。
また一つ。
稼働していた機器が停止し、ファンの回転音が少しずつ消えていく。
部屋を満たしていた機械音が、一つ、また一つと静まっていく。
やがて――。
最後のモニターが、ゆっくりと暗転した。