転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第9章ーおまけ5

 「これでおしまい……っと」

 

 最後のパソコンの電源を落とす。

 

 途端に、研究室を満たしていた機械音が一斉に消えた。

 

 先ほどまで回転していたファンの音も、装置の駆動音もない。

 

 残されたのは、夜の静寂だけだった。

 

 機械が発していた熱が僅かに室温を保っているものの、それも時間と共に失われていくだろう。

 

 暗闇の中、窓から差し込む月明かりだけが、入口付近の床を淡く照らしていた。

 

 「……さて」

 

 作業を終えたライラックは、小さく息を吐く。

 

 これで火事の心配もない。

 

 後は帰るだけだ。

 

 そう思い、踵を返した。

 

 ――その時。

 

 コトン。

 

 静まり返った室内に、小さな音が響いた。

 

 「……ん?」

 

 ライラックの足が止まる。

 

 コトン。

 

 まただ。

 

 何か軽い物体同士が触れ合ったような音。

 

 しかし、妙だった。

 

 一定の間隔で鳴っているようにも聞こえるが、人間が何かを操作しているような規則性とは少し違う。

 

 まるで、何かが勝手に動いているような――。

 

 「……まだ何かが動いている?」

 

 ライラックは振り返った。

 

 先ほど、追跡鼠には部屋の隅々まで調べさせた。

 

 人影はなかった。

 

 魔力反応もなかった。

 

 それでも――。

 

 音は、確かに存在している。

 

 「……いや」

 

 一度は帰ろうとしたものの、ライラックは小さく首を振った。

 

 「もう一度だけ確認しておくか」

 

 もし単なる野生の鼠なら、大した問題ではない。

 

 だが、ここはソンジの研究室だ。

 

 一般的な研究室ならば存在しないような、特殊な魔道具や試作品がそこら中に転がっている。

 

 もし、魔道具に宿った使い魔だったら。

 

 あるいは、自律稼働を目的として作られた試作品だったら。

 

 放置するわけにはいかない。

 

 最悪の場合、誰もいない研究室が、そのまま実験場と化してしまう可能性すらある。

 

 「……まったく。最後の最後まで手間をかけさせてくれる」

 

 ぼやきながら、ライラックは魔力を練り上げた。

 

 指先から伸びた魔力が天井へ走る。

 

 次の瞬間。

 

 カッ。

 

 消えていた照明が再び灯った。

 

 白い光が研究室を満たし、無数の机や棚、工具、魔導機器が一斉に姿を現す。

 

 「追跡鼠《チェイス》、再探索」

 

 ライラックが命じる。

 

 灰色の小さな鼠が、再び床を駆け出した。

 

 机の下。

 

 棚の裏。

 

 ロッカーの隙間。

 

 さらには天井近くの梁にまで登り、僅かな隙間を一つずつ確認していく。

 

 ライラック自身も周囲へ視線を走らせながら、その様子を見守った。

 

 やがて――。

 

 追跡鼠が戻ってくる。

 

 そして、先ほどと同じように小さく首を振った。

 

 ――異常なし。

 

 「……やはり、誰もいない」

 

 ライラックは眉を寄せる。

 

 ならば、あの音は何なのか。

 

 その答えを求めるように耳を澄ませる。

 

 コトン。

 

 コトン。

 

 聞こえる。

 

 間違いない。

 

 一定の周期で、何かが作動している。

 

 「……空耳にしては、規則的すぎるな」

 

 ライラックは顎へ手を添え、考え込む。

 

 そして、一つの可能性へ思い至った。

 

 「……魔道具、か」

 

 それならば説明がつく。

 

 この研究室にあるのは、完成した魔道具だけではない。

 

 むしろ、未完成の試作品の方が多いくらいだ。

 

 開発途中で放置された装置。

 

 実験のために一時的に稼働させた機器。

 

 あるいは、本人すら忘れてしまった何か。

 

 そのどれかが、電源を切られた後も動き続けているのかもしれない。

 

 「はあ……それはそれで厄介だぞ」

 

 ライラックの表情が険しくなる。

 

 自律稼働型の魔道具が暴走すれば、精密機器を破壊するだけでは済まない。

 

 場合によっては研究室そのものを損壊させ、最悪の場合は旧棟全体に被害が及ぶ可能性すらある。

 

 ソンジの技術力が天才的であることは、ライラックも認めている。

 

 だが――。

 

 天才が作ったものだからこそ、凡人には予測できない挙動をすることもある。

 

 「帰ったら説教確定だな、これは……」

 

 そう呟きながら、ライラックは捜索を始めた。

 

 机の下へ屈み込む。

 

 棚を一段ずつ確認する。

 

 床に転がっている細かな部品を拾い上げ、魔力反応がないか確かめる。

 

 だが、どこにも異常は見当たらない。

 

 それでも――。

 

 コトン。

 

 また鳴った。

 

 「……!」

 

 ライラックが顔を上げる。

 

 今度は、音の方向がはっきりと分かった。

 

 ――床。

 

 しかも、かなり近い。

 

 「……ここか?」

 

 ライラックは音のした場所へ歩み寄った。

 

 床板の一角。

 

 他の場所と比べると、僅かに盛り上がっている。

 

 「……妙だな」

 

 しゃがみ込み、指先を伸ばす。

 

 床板の隙間に触れる。

 

 その瞬間――。

 

 「――なっ!?」

 

 視界が、白く弾けた。

 

 「ッ!?」

 

 何が起きたのか理解する暇すらなかった。

 

 足元から、猛烈な魔力が噴き上がる。

 

 次の瞬間。

 

 足元の感覚が消えた。

 

 床がなくなったような感覚。

 

 重力そのものが、裏返ったかのような錯覚。

 

 「な、何だこれは――!?」

 

 ライラックが咄嗟に手を伸ばす。

 

 だが、掴めるものは何もない。

 

 空間そのものが歪んでいる。

 

 いや。

 

 歪んでいるのではない。

 

 ――引き裂かれている。

 

 まるで見えない巨大な口に、身体ごと呑み込まれていくようだった。

 

 「くっ……!」

 

 魔力を放とうとする。

 

 だが、間に合わない。

 

 身体が一気に引き込まれる。

 

 視界が白く染まる。

 

 研究室も。

 

 机も。

 

 棚も。

 

 そして、自分自身の身体すら。

 

 すべてが光の中へと溶けていく。

 

 「――――ッ!」

 

 声を上げることすらできなかった。

 

 次の瞬間。

 

 ライラックの姿は、研究室から完全に消え失せた。

 

 何事もなかったかのように。

 

 部屋には、静寂だけが残される。

 

 そして――。

 

 床板の隙間。

 

 誰にも見つからない場所で。

 

 淡い光が、ゆっくりと点滅していた。

 

 それは小さな魔法陣。

 

 いや――。

 

 魔力の流れを見れば、それが何なのかは明白だった。

 

 転移魔法陣。

 

 先ほどまで何の変哲もなかった床の下で、ひっそりと起動していたそれは、まるで何者かを待ち構えていたかのように。

 

 数度だけ明滅すると――。

 

 やがて、何事もなかったように光を失った。

 

 残された研究室には、誰もいない。

 

 ただ、静寂だけがあった。

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