「これでおしまい……っと」
最後のパソコンの電源を落とす。
途端に、研究室を満たしていた機械音が一斉に消えた。
先ほどまで回転していたファンの音も、装置の駆動音もない。
残されたのは、夜の静寂だけだった。
機械が発していた熱が僅かに室温を保っているものの、それも時間と共に失われていくだろう。
暗闇の中、窓から差し込む月明かりだけが、入口付近の床を淡く照らしていた。
「……さて」
作業を終えたライラックは、小さく息を吐く。
これで火事の心配もない。
後は帰るだけだ。
そう思い、踵を返した。
――その時。
コトン。
静まり返った室内に、小さな音が響いた。
「……ん?」
ライラックの足が止まる。
コトン。
まただ。
何か軽い物体同士が触れ合ったような音。
しかし、妙だった。
一定の間隔で鳴っているようにも聞こえるが、人間が何かを操作しているような規則性とは少し違う。
まるで、何かが勝手に動いているような――。
「……まだ何かが動いている?」
ライラックは振り返った。
先ほど、追跡鼠には部屋の隅々まで調べさせた。
人影はなかった。
魔力反応もなかった。
それでも――。
音は、確かに存在している。
「……いや」
一度は帰ろうとしたものの、ライラックは小さく首を振った。
「もう一度だけ確認しておくか」
もし単なる野生の鼠なら、大した問題ではない。
だが、ここはソンジの研究室だ。
一般的な研究室ならば存在しないような、特殊な魔道具や試作品がそこら中に転がっている。
もし、魔道具に宿った使い魔だったら。
あるいは、自律稼働を目的として作られた試作品だったら。
放置するわけにはいかない。
最悪の場合、誰もいない研究室が、そのまま実験場と化してしまう可能性すらある。
「……まったく。最後の最後まで手間をかけさせてくれる」
ぼやきながら、ライラックは魔力を練り上げた。
指先から伸びた魔力が天井へ走る。
次の瞬間。
カッ。
消えていた照明が再び灯った。
白い光が研究室を満たし、無数の机や棚、工具、魔導機器が一斉に姿を現す。
「追跡鼠《チェイス》、再探索」
ライラックが命じる。
灰色の小さな鼠が、再び床を駆け出した。
机の下。
棚の裏。
ロッカーの隙間。
さらには天井近くの梁にまで登り、僅かな隙間を一つずつ確認していく。
ライラック自身も周囲へ視線を走らせながら、その様子を見守った。
やがて――。
追跡鼠が戻ってくる。
そして、先ほどと同じように小さく首を振った。
――異常なし。
「……やはり、誰もいない」
ライラックは眉を寄せる。
ならば、あの音は何なのか。
その答えを求めるように耳を澄ませる。
コトン。
コトン。
聞こえる。
間違いない。
一定の周期で、何かが作動している。
「……空耳にしては、規則的すぎるな」
ライラックは顎へ手を添え、考え込む。
そして、一つの可能性へ思い至った。
「……魔道具、か」
それならば説明がつく。
この研究室にあるのは、完成した魔道具だけではない。
むしろ、未完成の試作品の方が多いくらいだ。
開発途中で放置された装置。
実験のために一時的に稼働させた機器。
あるいは、本人すら忘れてしまった何か。
そのどれかが、電源を切られた後も動き続けているのかもしれない。
「はあ……それはそれで厄介だぞ」
ライラックの表情が険しくなる。
自律稼働型の魔道具が暴走すれば、精密機器を破壊するだけでは済まない。
場合によっては研究室そのものを損壊させ、最悪の場合は旧棟全体に被害が及ぶ可能性すらある。
ソンジの技術力が天才的であることは、ライラックも認めている。
だが――。
天才が作ったものだからこそ、凡人には予測できない挙動をすることもある。
「帰ったら説教確定だな、これは……」
そう呟きながら、ライラックは捜索を始めた。
机の下へ屈み込む。
棚を一段ずつ確認する。
床に転がっている細かな部品を拾い上げ、魔力反応がないか確かめる。
だが、どこにも異常は見当たらない。
それでも――。
コトン。
また鳴った。
「……!」
ライラックが顔を上げる。
今度は、音の方向がはっきりと分かった。
――床。
しかも、かなり近い。
「……ここか?」
ライラックは音のした場所へ歩み寄った。
床板の一角。
他の場所と比べると、僅かに盛り上がっている。
「……妙だな」
しゃがみ込み、指先を伸ばす。
床板の隙間に触れる。
その瞬間――。
「――なっ!?」
視界が、白く弾けた。
「ッ!?」
何が起きたのか理解する暇すらなかった。
足元から、猛烈な魔力が噴き上がる。
次の瞬間。
足元の感覚が消えた。
床がなくなったような感覚。
重力そのものが、裏返ったかのような錯覚。
「な、何だこれは――!?」
ライラックが咄嗟に手を伸ばす。
だが、掴めるものは何もない。
空間そのものが歪んでいる。
いや。
歪んでいるのではない。
――引き裂かれている。
まるで見えない巨大な口に、身体ごと呑み込まれていくようだった。
「くっ……!」
魔力を放とうとする。
だが、間に合わない。
身体が一気に引き込まれる。
視界が白く染まる。
研究室も。
机も。
棚も。
そして、自分自身の身体すら。
すべてが光の中へと溶けていく。
「――――ッ!」
声を上げることすらできなかった。
次の瞬間。
ライラックの姿は、研究室から完全に消え失せた。
何事もなかったかのように。
部屋には、静寂だけが残される。
そして――。
床板の隙間。
誰にも見つからない場所で。
淡い光が、ゆっくりと点滅していた。
それは小さな魔法陣。
いや――。
魔力の流れを見れば、それが何なのかは明白だった。
転移魔法陣。
先ほどまで何の変哲もなかった床の下で、ひっそりと起動していたそれは、まるで何者かを待ち構えていたかのように。
数度だけ明滅すると――。
やがて、何事もなかったように光を失った。
残された研究室には、誰もいない。
ただ、静寂だけがあった。