「おわっ!?」
さっきまで床に這いつくばり、妙な魔法陣を調べていたはずだった。
それが――次の瞬間。
ライラックの身体は、何の支えもない空中へと放り出されていた。
「なっ――!?」
足裏に感じていたはずの床が、突然消え失せる。
反射的に手足をばたつかせるが、掴めるものは何もない。
当然だ。
そこには、床も壁もない。
ただ、暗闇だけが広がっていた。
「うおおおおっ!?」
重力に引かれ、身体が真っ逆さまに落下していく。
ほんの数秒。
だが、本人にとっては随分と長く感じられた。
そして――。
――ドンッ!
「ぐっ……!」
両手と両膝が、硬い地面へ勢いよく叩きつけられた。
鈍い衝撃が全身を駆け抜ける。
「いっててて……」
情けない声を漏らしながら、ライラックはしばらくその場に蹲った。
やがて、恐る恐る手首を動かしてみる。
……動く。
次に指を握り、開く。
こちらも問題ない。
足も同様に動かしてみる。
「……骨は大丈夫そうだな」
痛みはあるものの、どうやら大きな怪我はないらしい。
軽い打撲程度で済んだことに安堵しつつ、ライラックはゆっくりと立ち上がった。
しかし――。
「……ここは……?」
立ち上がったところで、別の問題に気付く。
暗い。
とにかく暗い。
目を凝らしてみても、何も見えない。
天井がどこにあるのか。
壁がどこまで続いているのか。
そもそも、自分がどれほど広い空間にいるのか。
何一つとして分からなかった。
「……転移させられた、ということだけは間違いないな」
先ほどまで自分がいたのは、ソンジの研究室。
そして、床にあった妙な盛り上がりへ触れた瞬間、この場所へ飛ばされた。
ならば、これは転移魔法。
そこまでは疑いようがない。
問題は――。
「一体、どこへ飛ばされたんだ……?」
周囲を警戒しながら、ライラックは魔力を練り上げる。
「灯せ、【月光蝶《ムート・フライ》】」
短い詠唱。
次の瞬間、彼の手元から淡い白光が生まれた。
光は瞬く間に一匹の蝶へと姿を変える。
拳ほどの大きさをした白い蝶。
その羽は月明かりを思わせる淡い光を放ちながら、ふわりと宙へ浮かび上がった。
「……」
ライラックの周囲を旋回する月光蝶。
その光によって、ようやく周囲の様子が少しずつ明らかになっていく。
無機質な床。
滑らかな壁。
一定間隔で並ぶ柱。
そして、遠くまで続いているように見える空間。
「……少なくとも、さっきの研究室ではないな」
机もない。
棚もない。
魔導機器も工具もない。
見慣れた研究室とは完全に別の場所だった。
それどころか、妙に人工的だ。
自然にできた洞窟のような凹凸はなく、壁も床も一定の規則性を保っている。
「地下施設……か?」
ライラックは呟きながら、周囲を見渡す。
閉鎖された空間特有の圧迫感がある。
外気も感じられない。
窓もない。
入口らしきものすら、今のところ見当たらない。
「照明のスイッチでもあればいいんだが……」
月光蝶を先行させながら、ライラックは慎重に歩き始めた。
何があるか分からない以上、無闇に走り回るのは危険だ。
一歩。
また一歩。
靴底が床を踏みしめる音だけが、広い空間へ静かに響いていく。
そして――。
――コン。
「……!」
ライラックの足が止まった。
聞き間違いではない。
確かに、何かが鳴った。
金属同士が軽く触れ合ったような、小さな音。
「……この音」
ライラックは眉を寄せる。
どこかで聞いたことがある。
いや――。
忘れるはずがない。
先ほどまでいた研究室で、何度も聞こえていた音だ。
「……やっぱりか」
ライラックは周囲を見回す。
「この音、ここから響いていたんだな……」
研究室では、誰もいないはずなのに一定の間隔で音が鳴っていた。
原因を探して床へ触れたところ、自分はこの場所へ転移した。
ならば、答えはおそらく一つ。
研究室の床下に、この空間へ繋がる何かが仕掛けられていたのだ。
「研究室の床……」
ライラックは、先ほど自分が触れた場所を思い返す。
「僅かに盛り上がった床板。そして、その下から聞こえていた音」
さらに――。
「触れた瞬間に発動した転移魔法陣」
一つ一つの情報を頭の中で整理していく。
点だった情報が、少しずつ線へと繋がっていく。
「つまり、あれは単なる転移魔法陣じゃない」
ライラックは確信を深める。
「研究室から、特定の場所へ移動するために設置された転移装置……か」
そこで、ふと過去の記憶が蘇った。
ソンジとの会話。
研究材料。
魔導素材。
そして――保管場所。
「……そういえば」
ライラックは顎へ手を添えた。
「彼女、以前に研究材料を安全に保管できる場所が欲しいと言っていたな」
確か、理事長にも相談していた。
研究室だけでは保管しきれない素材が増えてきたため、専用の保管場所が欲しい――そんな話だったはずだ。
そして、理事長から空き教室の一部を使用する許可も得ていた。
「待てよ……」
ライラックは歩みを止めた。
視線を周囲へ巡らせる。
人目につかない場所。
研究室から直接移動できる。
外部から簡単には侵入できない。
そして、これほど大掛かりな転移装置をわざわざ設置する理由。
すべてを考え合わせれば――。
「……なるほどな」
ライラックは小さく息を吐いた。
ようやく、この場所の正体に辿り着いた。
「ここは、研究室専用の保管庫ってわけか」
月光蝶の淡い光が、無機質な壁面を静かに照らす。