転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第10章ー2

 銀鏡の翼龍を打ち倒してから、どれほどの時間が経ったのだろう。

 

 肌に張り付いていた死の緊張が、ようやく少しずつ溶けていく。

 

 奴を討伐した直後、自分とマヒロは深い洞穴の底に取り残されていた。

 

 全身がまともに動かない。

 指一本にすら、思うように力が入らなかった。

 

 戦いの最中は気力だけで身体を動かしていたが、終わってしまえば残ったのは限界をとうに超えた肉体だけだった。

 

 もし、このまま誰にも見つけてもらえなかったら。

 

 そう考えるだけで、背筋が冷たくなる。

 

 銀鏡の翼龍を倒した。

 それだけなら、自分たちは確かに勝った。

 

 だが、ここから脱出できなければ、その勝利には何の意味もない。

 

 ――そんな状況に陥っていた自分たちを救ってくれたのは、上から差し出された一本のロープだった。

 

 ソンジさんたちが協力し、慎重に、慎重に自分たちを引き上げてくれる。

 

 ロープに身体を預け、少しずつ地上へ近づいていく。

 

 ただ、それだけのことなのに。

 

 「……」

 

 頭の中は、不安で埋め尽くされていた。

 

 ロープが切れたらどうなる?

 

 途中で誰かの体力が尽きたら?

 

 自分たちの体重に耐えきれず、ロープが外れたら?

 

 考えれば考えるほど、胸の奥が締め付けられていく。

 

 戦闘中には感じなかった、別種の恐怖だった。

 

 敵と戦っているときなら、自分の意思で動くことができる。

 攻撃することも、逃げることも、最後まで足掻くこともできる。

 

 だが、今は違う。

 

 身体は動かない。

 自分にはどうすることもできない。

 

 ただ、他人に命を預けるしかない。

 

 ――「動けない」という事実が、これほどまでに心を弱らせるとは思わなかった。

 

 そういえば、と。

 

 ふと、前世の記憶が脳裏をよぎる。

 

 遊園地の絶叫マシン。

 自分は、あれが大の苦手だった。

 

 安全装置がある。

 事故なんて滅多に起こらない。

 頭ではそう理解している。

 

 それでも、身体を乗り物に預け、重力に身を任せるあの感覚だけは、どうしても好きになれなかった。

 

 今思えば、あれも同じだったのかもしれない。

 

 自分の意思では止められない。

 自分の身体を、自分以外の何かに委ねる。

 

 ただ――。

 

 今の状況は、そんな遊園地のアトラクションとは比べものにならない。

 

 安全保証など、どこにもない。

 

 もしロープが切れれば、そのまま地面へ叩き落とされる。

 

 もし途中で何かが起これば、誰も助けに来られない。

 

 命を賭けた、文字通りの「委ねる恐怖」だった。

 

 それでも。

 

 ロープは切れなかった。

 

 ソンジさんたちの力も尽きなかった。

 

 そして――。

 

 ようやく身体が地面に降ろされた瞬間。

 

 「……っ」

 

 膝から力が抜け、その場に座り込んだ。

 

 土と岩の感触が身体に伝わってくる。

 

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 生きている。

 

 ただ、それだけ。

 

 たったそれだけの事実が、涙が出そうになるほどありがたかった。

 

 ――それはさておき。

 

 救出が終わった後、自分たちはその場で休息を取ることになった。

 

 誰も反対しなかった。

 

 反対する余力すらなかった、と言った方が正しいかもしれない。

 

 全員、限界だった。

 

 筋肉は悲鳴を上げ、魔力はほとんど枯渇している。

 それだけではない。

 

 死闘を終えたばかりの精神も、とうに擦り切れていた。

 

 この状態で無理に脱出を試みれば、次は本当に命を落とす。

 

 だからこそ、今必要なのは戦うことではない。

 

 ――回復だ。

 

 幸いにも、周囲に漂っていた魔力を帯びた冷気は、いつの間にか消え去っていた。

 

 先ほどまで、吐いた息すら凍り付きそうだった寒さが和らいでいる。

 

 肌に触れる空気も、少しずつではあるが、人の住む世界に近い温度へと戻りつつあった。

 

 「……やっぱり、そういうことか」

 

 そう考えると、ある一つの答えに行き着く。

 

 ――あの冷気は、銀鏡の翼龍が放っていたものだったのだろう。

 

 あの巨大な魔物が存在していたからこそ、この場所は異常なまでの極寒に包まれていた。

 

 そう考えれば、あの魔物が生きているだけで迷宮そのものの環境すら支配していたことになる。

 

 改めて思い返す。

 

 あんな化け物と、自分たちは真正面から戦ったのだ。

 

 そして――倒した。

 

 その事実を実感した瞬間、遅れて恐怖が込み上げてきた。

 

 背筋が、ぞくりと震える。

 

 よく生きていたな。

 

 本当に。

 

 あんな相手を倒して、自分たちはまだ生きている。

 

 それだけでも奇跡に近い。

 

 だが。

 

 そんな感慨に浸っている場合でもなかった。

 

 銀鏡の翼龍が消えたことで、今まで迷宮を覆っていた氷も、やがて溶け始めるはずだ。

 

 壁に張り付いている分厚い氷。

 

 天井から伸びる巨大な氷柱。

 

 床を覆う凍結した大地。

 

 それらは時間とともに少しずつ形を変え、やがて水へと変わっていく。

 

 ――それは、希望でもあった。

 

 凍り付いていた道が開ける。

 閉ざされていた場所を進めるようになる。

 

 もしかしたら、今まで見つからなかった脱出口が見つかるかもしれない。

 

 けれど。

 

 同時に、それは新たな危険の始まりでもある。

 

 氷が溶ければ、地形は変わる。

 

 凍結によって支えられていた岩盤が崩れれば、落盤が起こる可能性がある。

 

 氷の下に隠れていた亀裂が姿を現すかもしれない。

 

 今まで安全だった足場が、突然崩れ落ちることだって考えられる。

 

 何より――。

 

 この迷宮が、今までとはまったく違う姿へ変貌する可能性がある。

 

 「……急がないとな」

 

 小さく呟く。

 

 身体はまだ重い。

 

 魔力も戻っていない。

 

 今すぐ動けと言われても、正直かなり厳しい。

 

 それでも。

 

 休めるだけ休んだら、ここを出なければならない。

 

 氷が完全に溶けてしまう前に。

 

 地形が大きく変化してしまう前に。

 

 そして何より――。

 

 この死の迷宮から、生きて帰るために。

 

 だからこそ。

 

 その前に、ここを出なければならない。

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