転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第10章ー3

 「皆、そのままでいい。身体を起こさなくて構わないから、耳だけはこちらに向けてくれ」

 

 結界の内側。

 

 淡い光に満たされた空間で、ソンジさんが静かに語り出した。

 

 外では未だ、氷の大地が軋んでいる。

 

 時折、遠くから低い音が響いてくるたび、崩れた氷や岩が地面へ落ちているのだと分かる。

 

 銀鏡の翼龍が消えたことで、あれほどまでに肌を刺していた冷気はすっかり弱まっていた。

 

 それでも、完全に暖かくなったわけではない。

 

 だが、ソンジさんが張ってくれた魔力結界のおかげで、少なくとも凍えながら耐える必要はなかった。

 

 全員が限界に近い。

 

 横になったまま壁にもたれている者。

 目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えている者。

 

 誰もが疲労困憊で、今すぐ立ち上がれと言われれば、それだけで悲鳴を上げそうな状態だった。

 

 それでも。

 

 ソンジさんの声が聞こえれば、自然と意識がそちらへ向く。

 

 「現状の確認と、これからの行動について話そう。動けるようになってから考えるより、今ここで方向を定めておいた方がいい」

 

 疲労で思考が鈍っているにもかかわらず、先を見据える冷静さだけは失っていない。

 

 さすがは迷宮経験者。

 

 こういう状況で何を優先すべきなのか、よく分かっている。

 

 「まず、ざっと計算したところ、今いる地点は落下地点からおよそ一キロ下層だ」

 

 「よくそこまで把握できましたね」

 

 「落下速度と着地までの時間を思い出して、そこから逆算しただけさ。正確とは言い難いけど、大きくは外れていないはずだよ」

 

 なるほど。

 

 あの短い落下時間から、そこまで推測したのか。

 

 相変わらず、こういうところは抜け目がない。

 

 「じゃあ、その距離を私が運べばいいってことですね?」

 

 ミオが小さく手を挙げる。

 

 まだ顔色は優れない。

 

 それでも、その瞳にははっきりとした意志が宿っていた。

 

 「そうなる。ミオ君、魔力が全快した場合、どれくらい持ちそうかな?」

 

 「正確な測定をしたことはないですけど……魔力が満タンなら、問題なく運べると思います」

 

 「了解だ。ありがとう」

 

 ミオの返答に、ソンジさんが頷く。

 

 つまり、少なくとも上へ戻るための手段そのものはある。

 

 ミオの風魔法を使えば、落下した一キロもの距離を戻ることは可能。

 

 ならば、あとは体力と魔力を回復させればいい。

 

 ――問題は、その先だ。

 

 「では、ミオ殿の回復を待ち、出立するのでござるな?」

 

 マヒロが確認する。

 

 「うん。その方向で考えてる。ただ――問題はその先なんだ」

 

 その一言で、空気がわずかに重くなった。

 

 上へ戻る。

 

 言葉にすれば簡単だ。

 

 だが、落下する前に見たものを思い出せば、そんな簡単な話ではない。

 

 『……魔物、ですね』

 

 自分が呟くと、ソンジさんは黙って頷いた。

 

 「そう。上へ向かうには、あの群れをどう突破するかを考えなければならない」

 

 あの魔物の群れ。

 

 落下する直前に見た、異常な数の魔物たち。

 

 あれだけの数が相手となれば、たとえ一体一体が銀鏡の翼龍ほど強くなくても、まともに戦えばこちらの消耗が激しすぎる。

 

 ましてや、今の自分たちは満身創痍だ。

 

 そんな状況で戦闘を繰り返せば、いくらなんでも身体が持たない。

 

 ――だが。

 

 「それなら拙者の出番でござる!」

 

 突然、マヒロが勢いよく立ち上がった。

 

 「拙者にはまだ余力がある。道を切り拓くのが剣士の務め! 魔物の十や百、まとめて斬り伏せてみせよう!!」

 

 「いや、さすがに数が……」

 

 「問題ござらん! 信じてくだされ!」

 

 「いや、その……そういう意味じゃなくてね」

 

 即答するソンジさん。

 

 思わず苦笑してしまう。

 

 マヒロらしいと言えば、実にマヒロらしい。

 

 だが、ソンジさんの表情から笑みが消える。

 

 「君の実力を疑っているわけじゃない」

 

 静かな声だった。

 

 「ただ、仲間の体力と魔力の消耗を考えると、無理な戦闘は避けたい。それが全体の生存率を最も高める」

 

 「……むぅ」

 

 マヒロは悔しそうに唇を噛んだ。

 

 反論したいのだろう。

 

 だが、ソンジさんの言葉が正しいことも理解している。

 

 だからこそ、何も言い返せない。

 

 「……」

 

 沈黙が流れる。

 

 自分もまた、その会話を聞きながら、内心では同じ不安を抱えていた。

 

 魔物の群れ。

 

 あの圧倒的な数。

 

 今は銀鏡の翼龍が消えたことで冷気が収まっている。

 

 だが、時間が経てば、あの魔物たちが再び集結する可能性は十分にある。

 

 そして――。

 

 自分自身の身体も問題だ。

 

 ミオの治癒によって致命傷は癒えている。

 

 傷そのものは、戦うことに支障がない程度まで回復している。

 

 だが、腕にはまだ痺れが残っていた。

 

 剣を握ってみても、以前のような感覚が戻ってこない。

 

 握力も完全には戻っていない。

 

 無理に戦えば、再びあの死線を越えられる保証などどこにもなかった。

 

 「他の皆の消耗を考えると、戦闘は極力避ける。それが最善だ」

 

 そこで、ソンジさんがこちらへ視線を向ける。

 

 「……君もそう思うだろう? サダメ君」

 

 不意に名前を呼ばれ、わずかに息を呑んだ。

 

 だが、すぐに頷く。

 

 「……そう、ですね」

 

 否定できる理由はなかった。

 

 むしろ、今の自分たちに必要なのは、勝つことではなく生き残ることだ。

 

 「よし。それじゃ、方針は決まりだ」

 

 ソンジさんは指を一本立てる。

 

 「第一に、ミオ君の魔力が回復するまで、ここで休憩」

 

 もう一本。

 

 「第二に、その間に外部から救助が来る可能性にも期待する」

 

 そして最後の一本を立てる。

 

 「第三に、救助が来なければ、回復次第こちらから上へ向かう」

 

 『下手に動くよりは、生存率が高い選択……ということですね』

 

 「うん。騎士団が異変に気づいていれば、すでに調査隊が動いているはずだ。案外、早く辿り着いてくれるかもしれない。三番目の選択肢は、最悪の場合ってところだね」

 

 確かに。

 

 銀鏡の翼龍が消え、あれほど異常だった迷宮の冷気まで収まった。

 

 外にいる人間が、この異変に気づかないはずがない。

 

 少なくとも、何かがおかしいと判断して調査に乗り出す可能性は十分にある。

 

 ――そうであってほしい。

 

 今の自分たちは、わずかな希望に縋るしかない。

 

 助けが来る保証なんてない。

 

 それでも、無理に動いて死ぬよりはずっといい。

 

 こうして結局、自分たちはミオの回復を待ちながら、救助の可能性にも賭けるという結論に落ち着いた。

 

 今は動かない。

 

 それが正しい。

 

 何もしないことは、不安を増幅させる。

 

 時間が経つほど、魔物が集まってくるかもしれない。

 

 氷が溶ければ、迷宮そのものが姿を変えるかもしれない。

 

 それでも。

 

 無謀に動くよりは、遥かに賢明な選択だった。

 

 結界の柔らかな光に包まれながら、自分たちは再び身体を横たえる。

 

 戦うためではない。

 

 逃げるためでもない。

 

 ――生きて帰るために、今は休む。

 

 再び歩き出す、その時まで。

 

 自分たちはただ、静かに体力の回復を待つのだった。

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