「皆、そのままでいい。身体を起こさなくて構わないから、耳だけはこちらに向けてくれ」
結界の内側。
淡い光に満たされた空間で、ソンジさんが静かに語り出した。
外では未だ、氷の大地が軋んでいる。
時折、遠くから低い音が響いてくるたび、崩れた氷や岩が地面へ落ちているのだと分かる。
銀鏡の翼龍が消えたことで、あれほどまでに肌を刺していた冷気はすっかり弱まっていた。
それでも、完全に暖かくなったわけではない。
だが、ソンジさんが張ってくれた魔力結界のおかげで、少なくとも凍えながら耐える必要はなかった。
全員が限界に近い。
横になったまま壁にもたれている者。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えている者。
誰もが疲労困憊で、今すぐ立ち上がれと言われれば、それだけで悲鳴を上げそうな状態だった。
それでも。
ソンジさんの声が聞こえれば、自然と意識がそちらへ向く。
「現状の確認と、これからの行動について話そう。動けるようになってから考えるより、今ここで方向を定めておいた方がいい」
疲労で思考が鈍っているにもかかわらず、先を見据える冷静さだけは失っていない。
さすがは迷宮経験者。
こういう状況で何を優先すべきなのか、よく分かっている。
「まず、ざっと計算したところ、今いる地点は落下地点からおよそ一キロ下層だ」
「よくそこまで把握できましたね」
「落下速度と着地までの時間を思い出して、そこから逆算しただけさ。正確とは言い難いけど、大きくは外れていないはずだよ」
なるほど。
あの短い落下時間から、そこまで推測したのか。
相変わらず、こういうところは抜け目がない。
「じゃあ、その距離を私が運べばいいってことですね?」
ミオが小さく手を挙げる。
まだ顔色は優れない。
それでも、その瞳にははっきりとした意志が宿っていた。
「そうなる。ミオ君、魔力が全快した場合、どれくらい持ちそうかな?」
「正確な測定をしたことはないですけど……魔力が満タンなら、問題なく運べると思います」
「了解だ。ありがとう」
ミオの返答に、ソンジさんが頷く。
つまり、少なくとも上へ戻るための手段そのものはある。
ミオの風魔法を使えば、落下した一キロもの距離を戻ることは可能。
ならば、あとは体力と魔力を回復させればいい。
――問題は、その先だ。
「では、ミオ殿の回復を待ち、出立するのでござるな?」
マヒロが確認する。
「うん。その方向で考えてる。ただ――問題はその先なんだ」
その一言で、空気がわずかに重くなった。
上へ戻る。
言葉にすれば簡単だ。
だが、落下する前に見たものを思い出せば、そんな簡単な話ではない。
『……魔物、ですね』
自分が呟くと、ソンジさんは黙って頷いた。
「そう。上へ向かうには、あの群れをどう突破するかを考えなければならない」
あの魔物の群れ。
落下する直前に見た、異常な数の魔物たち。
あれだけの数が相手となれば、たとえ一体一体が銀鏡の翼龍ほど強くなくても、まともに戦えばこちらの消耗が激しすぎる。
ましてや、今の自分たちは満身創痍だ。
そんな状況で戦闘を繰り返せば、いくらなんでも身体が持たない。
――だが。
「それなら拙者の出番でござる!」
突然、マヒロが勢いよく立ち上がった。
「拙者にはまだ余力がある。道を切り拓くのが剣士の務め! 魔物の十や百、まとめて斬り伏せてみせよう!!」
「いや、さすがに数が……」
「問題ござらん! 信じてくだされ!」
「いや、その……そういう意味じゃなくてね」
即答するソンジさん。
思わず苦笑してしまう。
マヒロらしいと言えば、実にマヒロらしい。
だが、ソンジさんの表情から笑みが消える。
「君の実力を疑っているわけじゃない」
静かな声だった。
「ただ、仲間の体力と魔力の消耗を考えると、無理な戦闘は避けたい。それが全体の生存率を最も高める」
「……むぅ」
マヒロは悔しそうに唇を噛んだ。
反論したいのだろう。
だが、ソンジさんの言葉が正しいことも理解している。
だからこそ、何も言い返せない。
「……」
沈黙が流れる。
自分もまた、その会話を聞きながら、内心では同じ不安を抱えていた。
魔物の群れ。
あの圧倒的な数。
今は銀鏡の翼龍が消えたことで冷気が収まっている。
だが、時間が経てば、あの魔物たちが再び集結する可能性は十分にある。
そして――。
自分自身の身体も問題だ。
ミオの治癒によって致命傷は癒えている。
傷そのものは、戦うことに支障がない程度まで回復している。
だが、腕にはまだ痺れが残っていた。
剣を握ってみても、以前のような感覚が戻ってこない。
握力も完全には戻っていない。
無理に戦えば、再びあの死線を越えられる保証などどこにもなかった。
「他の皆の消耗を考えると、戦闘は極力避ける。それが最善だ」
そこで、ソンジさんがこちらへ視線を向ける。
「……君もそう思うだろう? サダメ君」
不意に名前を呼ばれ、わずかに息を呑んだ。
だが、すぐに頷く。
「……そう、ですね」
否定できる理由はなかった。
むしろ、今の自分たちに必要なのは、勝つことではなく生き残ることだ。
「よし。それじゃ、方針は決まりだ」
ソンジさんは指を一本立てる。
「第一に、ミオ君の魔力が回復するまで、ここで休憩」
もう一本。
「第二に、その間に外部から救助が来る可能性にも期待する」
そして最後の一本を立てる。
「第三に、救助が来なければ、回復次第こちらから上へ向かう」
『下手に動くよりは、生存率が高い選択……ということですね』
「うん。騎士団が異変に気づいていれば、すでに調査隊が動いているはずだ。案外、早く辿り着いてくれるかもしれない。三番目の選択肢は、最悪の場合ってところだね」
確かに。
銀鏡の翼龍が消え、あれほど異常だった迷宮の冷気まで収まった。
外にいる人間が、この異変に気づかないはずがない。
少なくとも、何かがおかしいと判断して調査に乗り出す可能性は十分にある。
――そうであってほしい。
今の自分たちは、わずかな希望に縋るしかない。
助けが来る保証なんてない。
それでも、無理に動いて死ぬよりはずっといい。
こうして結局、自分たちはミオの回復を待ちながら、救助の可能性にも賭けるという結論に落ち着いた。
今は動かない。
それが正しい。
何もしないことは、不安を増幅させる。
時間が経つほど、魔物が集まってくるかもしれない。
氷が溶ければ、迷宮そのものが姿を変えるかもしれない。
それでも。
無謀に動くよりは、遥かに賢明な選択だった。
結界の柔らかな光に包まれながら、自分たちは再び身体を横たえる。
戦うためではない。
逃げるためでもない。
――生きて帰るために、今は休む。
再び歩き出す、その時まで。
自分たちはただ、静かに体力の回復を待つのだった。