『……うぅ。くちゃい……』
結界の柔らかな光の中。
沈黙に包まれていた休息の空気を、フィーの小さな声がそっと揺らした。
『……』
その場にいた全員の視線が、一斉にフィーへ集まる。
フィーはやや涙目になりながら、自分の袖口をつまみ上げ、鼻先へ近づけていた。
そして、わざわざ確認するまでもなかったのだろう。
『……やっぱり、くちゃい……』
しゅん、と眉を下げる。
「ああ……そういえば……」
自分も思い出した。
銀鏡の翼龍が出現した、あの混乱の最中。
フィーは恐怖で身体を硬直させてしまい、その場で失禁していた。
しかも、その後は地面に突っ伏したまま、しばらく動けなかったのだ。
あれだけの極限状態だったのだから、仕方がない。
むしろ、あの状況で失禁する程度で済んだのなら、まだマシだったとすら思う。
あの時は全員が生き延びることに必死だった。
誰かの服が汚れているだとか、身体から臭いがするとか、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。
けれど――。
こうして安全な場所まで戻り、ほんの少し心に余裕ができた今となっては、本人にとってかなり耐えがたい問題になっているらしい。
『……これ、どうしよう……』
フィーが自分の服を見下ろす。
「着替え、ある? あるなら替えた方がいいと思うよ」
『……うん。そうする……』
フィーは小さく頷くと、荷袋を引き寄せ、ごそごそと中を漁り始めた。
その姿を見ながら、ふと周囲を見渡す。
確かに、今なら着替える時間くらいはある。
これからいつまた戦闘になるか分からない以上、汚れた服のままよりも、少しでも身体を清潔にしておいた方がいい。
何より、臭いが残ったままでは本人が気になって休めないだろう。
「そういえば拙者も、戦闘の汗で服が少々臭うでござるな」
「……」
マヒロがいたって真面目な顔で自分の服を見下ろした。
そのあまりにも真剣な口調に、思わず吹き出しそうになる。
いや、実際に笑うのは失礼だ。
失礼なんだけど――。
この状況でその台詞は反則だろ。
銀鏡の翼龍との死闘を終え、満身創痍になり、今まさに生死を懸けた脱出作戦を考えているというのに。
その直後に「服が臭う」である。
「……まあ、確かに」
なんとか笑いを堪えながら頷く。
「なら、みんな一回着替えたら? 今しかタイミングないだろうし」
「そうですね」
ソンジさんも頷き、荷袋へ手を伸ばす。
「私も少し汗をかきましたし、着替えておきましょうか」
「私も……」
ミオも小さく頷いた。
フィー、マヒロ、ソンジさん、ミオ。
気づけば、女子全員が「今のうちに着替えておこう」という流れになっていた。
――が。
ここで一つ、大きな問題がある。
結界はそれなりに広い。
全員が横になって休める程度の空間は確保されている。
だが、個室のように仕切られているわけではない。
つまり。
男子がそのまま結界の中に居座っていれば、大問題である。
「サダメ」
ミオに名前を呼ばれた。
それだけで察する。
これは――「見るな」という無言の合図だ。
「分かってる。ギリスケ、後ろ向け」
「なっ!? なんだよ急に?!」
「いいから」
有無を言わせず、ギリスケの肩を掴む。
そのまま身体ごと、結界の外側へ向けさせた。
「お、おい! なんで俺だけ!?」
「俺もいるだろ」
「サダメはいいんだよ!」
「なんでだよ」
即座にツッコミを返す。
「俺はお前が余計なことをしないように監視する役だ」
「俺、信用なさすぎない?!」
「日頃の行いを考えろ」
「……」
ギリスケが黙った。
どうやら反論できないらしい。
外は薄暗い氷の空間。
銀鏡の翼龍が消えたことで冷気はかなり弱まっているが、それでもここが迷宮の深部であることに変わりはない。
今のところ敵の気配は感じない。
だが、何かが潜んでいる可能性だってある。
だから完全に気を抜くことはできない。
それでも、少なくとも今だけは仲間を休ませる必要がある。
「覗くなよ?」
念を押すように言う。
「わーってるって! だからそんな睨むなよー。照れるだろー?」
「なんでだよ」
即座にツッコミを返す。
まったく、こいつは……。
だが、不思議なことに。
そんなくだらないやり取りのおかげで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
死ぬかもしれない。
そんな極限状態を乗り越えた直後だからこそ、こういう何でもない会話が妙にありがたく感じられる。
――だが、それも一瞬だった。
「絶対に動くなよ」
「はいはい、分かってますってぇ~」
軽口を叩くギリスケ。
その声を聞きながら、自分はしっかりと奴の動きを注視する。
少しでも妙な動きをすれば、すぐに止める。
こいつがもし覗いたと発覚すれば、間違いなく制裁が飛ぶ。
そして、なぜか自分まで巻き添えになる未来が容易に想像できる。
――それだけは、全力で阻止しなければならない。
同時に、意識の一部は周囲へ向ける。
結界の外。
薄暗い氷の迷宮。
遠くから聞こえる、氷の軋む音。
敵の気配はない。
だが、それは「安全」という意味ではない。
ここはまだ、迷宮なのだ。
銀鏡の翼龍を倒したからといって、危険がすべて消えたわけではない。
今こうして笑えるのも、ほんの束の間。
自分たちが安らげるのは、この結界に守られている間だけなのだから。