転生勇者が死ぬまで10000日   作:慶名 安

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第10章ー4

 『……うぅ。くちゃい……』

 

 結界の柔らかな光の中。

 

 沈黙に包まれていた休息の空気を、フィーの小さな声がそっと揺らした。

 

 『……』

 

 その場にいた全員の視線が、一斉にフィーへ集まる。

 

 フィーはやや涙目になりながら、自分の袖口をつまみ上げ、鼻先へ近づけていた。

 

 そして、わざわざ確認するまでもなかったのだろう。

 

 『……やっぱり、くちゃい……』

 

 しゅん、と眉を下げる。

 

 「ああ……そういえば……」

 

 自分も思い出した。

 

 銀鏡の翼龍が出現した、あの混乱の最中。

 

 フィーは恐怖で身体を硬直させてしまい、その場で失禁していた。

 

 しかも、その後は地面に突っ伏したまま、しばらく動けなかったのだ。

 

 あれだけの極限状態だったのだから、仕方がない。

 

 むしろ、あの状況で失禁する程度で済んだのなら、まだマシだったとすら思う。

 

 あの時は全員が生き延びることに必死だった。

 

 誰かの服が汚れているだとか、身体から臭いがするとか、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。

 

 けれど――。

 

 こうして安全な場所まで戻り、ほんの少し心に余裕ができた今となっては、本人にとってかなり耐えがたい問題になっているらしい。

 

 『……これ、どうしよう……』

 

 フィーが自分の服を見下ろす。

 

 「着替え、ある? あるなら替えた方がいいと思うよ」

 

 『……うん。そうする……』

 

 フィーは小さく頷くと、荷袋を引き寄せ、ごそごそと中を漁り始めた。

 

 その姿を見ながら、ふと周囲を見渡す。

 

 確かに、今なら着替える時間くらいはある。

 

 これからいつまた戦闘になるか分からない以上、汚れた服のままよりも、少しでも身体を清潔にしておいた方がいい。

 

 何より、臭いが残ったままでは本人が気になって休めないだろう。

 

 「そういえば拙者も、戦闘の汗で服が少々臭うでござるな」

 

 「……」

 

 マヒロがいたって真面目な顔で自分の服を見下ろした。

 

 そのあまりにも真剣な口調に、思わず吹き出しそうになる。

 

 いや、実際に笑うのは失礼だ。

 

 失礼なんだけど――。

 

 この状況でその台詞は反則だろ。

 

 銀鏡の翼龍との死闘を終え、満身創痍になり、今まさに生死を懸けた脱出作戦を考えているというのに。

 

 その直後に「服が臭う」である。

 

 「……まあ、確かに」

 

 なんとか笑いを堪えながら頷く。

 

 「なら、みんな一回着替えたら? 今しかタイミングないだろうし」

 

 「そうですね」

 

 ソンジさんも頷き、荷袋へ手を伸ばす。

 

 「私も少し汗をかきましたし、着替えておきましょうか」

 

 「私も……」

 

 ミオも小さく頷いた。

 

 フィー、マヒロ、ソンジさん、ミオ。

 

 気づけば、女子全員が「今のうちに着替えておこう」という流れになっていた。

 

 ――が。

 

 ここで一つ、大きな問題がある。

 

 結界はそれなりに広い。

 

 全員が横になって休める程度の空間は確保されている。

 

 だが、個室のように仕切られているわけではない。

 

 つまり。

 

 男子がそのまま結界の中に居座っていれば、大問題である。

 

 「サダメ」

 

 ミオに名前を呼ばれた。

 

 それだけで察する。

 

 これは――「見るな」という無言の合図だ。

 

 「分かってる。ギリスケ、後ろ向け」

 

 「なっ!? なんだよ急に?!」

 

 「いいから」

 

 有無を言わせず、ギリスケの肩を掴む。

 

 そのまま身体ごと、結界の外側へ向けさせた。

 

 「お、おい! なんで俺だけ!?」

 

 「俺もいるだろ」

 

 「サダメはいいんだよ!」

 

 「なんでだよ」

 

 即座にツッコミを返す。

 

 「俺はお前が余計なことをしないように監視する役だ」

 

 「俺、信用なさすぎない?!」

 

 「日頃の行いを考えろ」

 

 「……」

 

 ギリスケが黙った。

 

 どうやら反論できないらしい。

 

 外は薄暗い氷の空間。

 

 銀鏡の翼龍が消えたことで冷気はかなり弱まっているが、それでもここが迷宮の深部であることに変わりはない。

 

 今のところ敵の気配は感じない。

 

 だが、何かが潜んでいる可能性だってある。

 

 だから完全に気を抜くことはできない。

 

 それでも、少なくとも今だけは仲間を休ませる必要がある。

 

 「覗くなよ?」

 

 念を押すように言う。

 

 「わーってるって! だからそんな睨むなよー。照れるだろー?」

 

 「なんでだよ」

 

 即座にツッコミを返す。

 

 まったく、こいつは……。

 

 だが、不思議なことに。

 

 そんなくだらないやり取りのおかげで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。

 

 死ぬかもしれない。

 

 そんな極限状態を乗り越えた直後だからこそ、こういう何でもない会話が妙にありがたく感じられる。

 

 ――だが、それも一瞬だった。

 

 「絶対に動くなよ」

 

 「はいはい、分かってますってぇ~」

 

 軽口を叩くギリスケ。

 

 その声を聞きながら、自分はしっかりと奴の動きを注視する。

 

 少しでも妙な動きをすれば、すぐに止める。

 

 こいつがもし覗いたと発覚すれば、間違いなく制裁が飛ぶ。

 

 そして、なぜか自分まで巻き添えになる未来が容易に想像できる。

 

 ――それだけは、全力で阻止しなければならない。

 

 同時に、意識の一部は周囲へ向ける。

 

 結界の外。

 

 薄暗い氷の迷宮。

 

 遠くから聞こえる、氷の軋む音。

 

 敵の気配はない。

 

 だが、それは「安全」という意味ではない。

 

 ここはまだ、迷宮なのだ。

 

 銀鏡の翼龍を倒したからといって、危険がすべて消えたわけではない。

 

 今こうして笑えるのも、ほんの束の間。

 

 自分たちが安らげるのは、この結界に守られている間だけなのだから。

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