『うぅ……十六にもなって漏らしちゃうとは思わなかったよー。滅茶苦茶ハズい……』
「ま、まあ、あんな目に遭ったんだから仕方ないよ」
「そうそう。恥じることじゃないよ」
自分とギリスケが結界の外側を向いて座っていると、背後から女子たちの会話と衣擦れの音が聞こえてくる。
どうやら、着替えが本格的に始まったらしい。
『……』
本来なら、今は周囲の監視に集中するべきだ。
結界の外には、薄暗い氷の迷宮が広がっている。
銀鏡の翼龍が消えたことで冷気はかなり弱まっているとはいえ、ここが迷宮の深部であることに変わりはない。
いつ、どこから魔物が現れるか分からない以上、少しの変化も見逃さないようにしておく必要がある。
――なのだが。
今のところ、外側にはこれといった変化がない。
魔物の気配もない。
異常な音も聞こえない。
そして何より。
隣に座っているギリスケが、妙に大人しい。
普段なら、こういう状況でこそ何かしら余計なことを言い出すはずなのに。
まるで置物のように、黙って前だけを見ている。
そのせいもあって。
どうしても、背後の会話が耳に入ってしまう。
やましい気持ちは――たぶん、ない。
……ないはずだ。
ただ、こうして女子たちの着替え中に背を向けて座っていると、まるで盗み聞きしているような気分になってくる。
耳を塞げばいいのかもしれない。
だが、そうすると逆に「聞こうとしている」みたいで不自然な気もする。
だから結局、そのまま何もせずに耐えるしかない。
うっかり会話に反応したり、振り向いたりしないように、必死で自制する。
そんな中――。
「……ソンジさん、上は履いてなかったんですか?」
「ん? ああ。研究室で着替えようとしてたら、どっか行っちゃってね。探す時間もなかったし、別にいっかなって。Aカップだから、あんま気にしてないし」
「いや、気にしないとダメですよ!?」
「……」
待て。
今、結構とんでもない会話が聞こえた気がするんだが?
思わず反応しそうになる。
だが、寸前で堪えた。
振り向くな。
聞かなかったことにしろ。
何も聞いていない。
自分は今、迷宮の監視をしているだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
しかし、どうしたものか。
緊張が少しずつ解けてきたからなのか、女子たちはいつの間にか、わいわいと談笑しながら着替えを進めている。
それ自体は別にいい。
極限状態を乗り越えたばかりなのだから、こうして少しでも笑える余裕が戻ってきたのは喜ばしいことだ。
ただ――。
会話の内容が、男子二人の存在を完全に忘れているレベルで自由すぎる。
というか。
あの人……本当に着けてなかったんだな。
マジで冗談かと思ってた。
そんなことを考えていると、また背後から声が聞こえてくる。
「であれば、拙者の晒、使うでござるか?」
「お? いいねー! 実はちょっと興味あったんだよねー!」
『あっ。なら私もやってみようかな? マヒロちゃん、巻き方教えてくれる?』
「おー! 二人が興味を持ってくれて感無量! フィー殿、拙者に任せよ!」
『やったー。ねー、せっかくだしミオもやってみない?』
「ええ? 私も?」
「こんな機会も滅多にないし、いいんじゃないかい? 皆でやろーよ!」
「じゃ、じゃあ今日だけなら……」
『いえーい! サラシガールズ結成ー!』
「……」
いや、何が結成されてるんだよ。
思わず心の中でツッコむ。
さっきまで死ぬかもしれない状況だったんだぞ?
銀鏡の翼龍と死闘を繰り広げて。
全員が満身創痍になって。
ようやく安全な場所で休めるようになったと思ったら。
今度はサラシガールズ結成である。
……いや、元気になったのはいいことなんだけどさ。
背後から聞こえてくる楽しげな声。
衣擦れの音。
はしゃぐ笑い声。
それらすべてが、今の自分にとっては精神力を試す罠のように感じられる。
ぶっちゃけ。
気にならないと言えば、嘘になる。
だからこそ困る。
ここで少しでも意識を向けた時点で、男として負けな気がする。
いや、そもそも聞くつもりはない。
聞くつもりはないのだが――。
聞こえてしまうものは、どうしようもない。
……そういうことにしておこう。
そして、もう一つ。
この会話をギリスケが黙って聞き流せるとは思えない。
あいつの性格を考えれば、いつ暴走してもおかしくない。
むしろ、今まで何も言わずに大人しくしていること自体が不自然だ。
――と思い、ふと隣を見る。
「……ん?」
ギリスケは微動だにしていなかった。
外側をじっと見つめたまま、ピクリとも動かない。
「……」
あまりにも静かだ。
普段のギリスケなら、絶対に何か言っている。
「おい、サダメ、今の聞いたか?」だとか。
「なあなあ、ちょっとだけ振り向いてみない?」だとか。
そういう余計なことを言って、こちらに怒られている姿が容易に想像できる。
なのに。
今は何も言わない。
呼吸すら止まっているように見える。
「……」
一瞬、寝ているのかと思った。
だが――。
すぐに異変に気づいた。
ギリスケの目が、妙に見開かれている。
そして。
その顔には、今まで見たことがないほどの真剣な表情が浮かんでいた。
「……おい」
小声で呼びかける。
反応がない。
「ギリスケ?」
やはり、動かない。
まさか――。
「……お前」
嫌な予感がした。
こいつ。
まさか、聞こえている会話に全神経を集中させて――。