「ふう。そろそろ出発しますか」
およそ三十分後。
簡素な食事を終え、器を片付け、装備を整える。
その後、最後に短い休息を挟み――。
ようやく、一行は動き出す準備を終えた。
結界の光がゆっくりと薄れていく。
それまで淡い光に包まれていた空間が、少しずつ本来の薄暗い迷宮へと戻っていく。
周囲を取り囲む氷壁は青白く輝き、その表面には細かな亀裂が走っていた。
静寂が広がる。
誰も口を開かない。
そのせいなのか、誰かが小さく息を吐く音だけが、やけに大きく聞こえた。
『結局、誰も助けに来なかったね』
そんな沈黙を破ったのは、フィーの小さな呟きだった。
「はあ。来てくれたら、だいぶ楽できたんだけどなー」
ギリスケが肩を落とす。
その声にも、どこか諦めが混じっていた。
「仕方ないよ」
ソンジさんが淡々と答える。
「ここは迷宮だ。長居すればするほど、何が起こるかわからない。それに――」
彼女は足元へ視線を落とす。
そして、凍り付いた地面を靴先で軽く踏み鳴らした。
「この地面がいつまで持つかも不明だ。上の魔物が何かしらの理由で減ってくれていることを祈るしかないね」
「……」
言われて、改めて周囲を見渡す。
ここへ落ちてから、すでに二時間近くが経過している。
なんだかんだで迷宮へ入ってから半日以上は経っているはずだ。
つまり――。
日付は、とっくに変わっているだろう。
となれば、外は今頃、真夜中だ。
そんな時間帯に、この迷宮の深部まで救助に向かう。
いくら騎士団でも、簡単なことではないだろう。
そもそも、誰かが自分たちを捜索しているのかどうかすら分からない。
銀鏡の翼龍が消えたことで、周囲を満たしていた冷気は少しずつ弱まっている。
その影響なのか、氷壁には細かな亀裂がいくつも走っていた。
「ピシ……」
遠くから、氷の軋む音が聞こえる。
その直後。
「……ぽた」
どこかで、水滴が落ちる音がした。
氷が溶け始めている。
このままここに留まり続ければ、氷が崩れ、地形そのものが変化する可能性もある。
落盤。
足場の崩壊。
新たな亀裂。
ここが安全な場所でなくなるのに、それほど時間はかからないかもしれない。
救助が来る兆しはない。
ならば――。
自分たちの足で脱出するしかない。
「んじゃ、予定通りお願いするよ、ミオ君」
「はい」
ソンジさんが結界を解除する。
同時に、ミオが一歩前へ出た。
「……」
彼女の周囲に、淡い風の渦が生まれ始める。
髪がふわりと揺れる。
足元の砂埃や小さな氷片が風に巻き上げられ、ゆっくりと周囲を旋回していく。
これで準備は整った。
あとはミオの魔法で上へ戻る。
そして、そのまま迷宮の出口を目指す。
理屈だけで言えば、それだけの話だ。
ここまで来れば、もう妨げるものはない。
――本当に、そうだろうか。
「……」
自分の胸の奥が、わずかにざわついていた。
嫌な予感。
理由は分からない。
何か具体的な危険を感じているわけでもない。
ただ。
妙に落ち着かない。
上の状況が、まったく分からないからだ。
魔物の大群はどうなっている?
あれだけいた魔物たちは、今も上の階層に残っているのか?
道は塞がれていないか?
途中で新たな魔物に遭遇したら?
そして――。
自分たちは本当に、無事に地上まで辿り着けるのか?
考えれば考えるほど、不安が膨らんでいく。
結局のところ、答えは現場で判断するしかない。
それが迷宮攻略というものだ。
どれだけ綿密に作戦を立てても、迷宮はその通りに進ませてくれるとは限らない。
頭では分かっている。
それでも。
(はたして、無事に脱出できるか……)
その問いだけが、胸の奥で静かに反響していた。
「……」
ミオが風を強める。
上へ戻るための魔法が、今まさに発動しようとしていた。
――その時。
「あやつの魔力が感じられず、妙な胸騒ぎがして急ぎ来てみれば――これはどういうことだ?」
突如。
低く響く男の声が、静寂を切り裂いた。
「……え?」
ミオが風を止める。
全員の身体が、一斉に強張った。
今の声。
どこから聞こえた?
誰の声だ?
少なくとも、自分たちの仲間ではない。
その事実を理解した瞬間、全員が反射的に声の方へ振り向いた。
そして。
「……」
言葉を失う。
この場の、ほぼど真ん中。
さっきまで。
いや――少なくとも、自分が見ていた限りでは。
そこには誰もいなかったはずだ。
なのに。
そこに、一人の男が立っていた。