自分たちのすぐ隣に立っていたはずなのに、まったく気配を感じなかった。
いつからそこにいた?
敵か、味方か。
そもそも――こいつは何者だ?
ようやく冷静さを取り戻しかけていた頭が、この男の乱入によって再び掻き乱されていく。
身長は二メートルを優に超える。
逆立った金色の髪がさらに威圧感を増し、三メートルあっても不思議ではない錯覚すら覚える。
全身は黒い鎧に包まれ、手には赤い槍。
男の背丈と同じほどの長さのそれを、細い腕で軽々と握っている。――常識外れの膂力だ。
村には、こんな男はいなかった。
いや、そもそも人間なのかさえ怪しい。
「折角来てやったのに、なにやってんだよ、お前?」
「『だ、ダークボルト……貴様、一体何しに来た?』」
「おいおいおぉぉい、なんだよその言い方ぁ。助けに来てやったんだろぉ?」
「『き、貴様に助けを乞いたつもりはないぞ!?』」
「ばぁーか。お前が魔王様に援軍を送ってくれって言ったんだろぉ?!」
「『わ、私は魔王様に助言を貰いに行っただけで、援軍を頼んだつもりはない!?』」
「けど、もう来ちまったし。んだっはっはっはっは!」
「『貴様、まさか盗み聞きを……』」
「勘違いすんなよ? ちゃんと魔王様から許可は貰ってある」
「『くっ……!?』」
――魔王。
――援軍。
――十死怪。
会話の断片だけで、状況は十分すぎるほど理解できた。
こいつ――ダークボルト。
エイシャと同格の魔王軍幹部。
つまり、確実に“敵”。
一見すれば人の顔立ち。
だが笑った瞬間、鋭い牙が覗く。
猫のように細く裂けた瞳孔。
人の皮を被った魔族――そう断じて間違いない。
――詰んだ。
エイシャ一人でも限界だった。
そこに未知数の怪物が追加。
真正面から戦えば、確実に死ぬ。
ならば――逃げるしかない。
幸いにも、ダークボルトは一度たりともこちらを見ていない。
エイシャとの口論に夢中で、まるで自分たちなど“存在しない”かのようだ。
今しかない。
「ミオ、俺の背中につかまれ」
「えっ? う、うん……」
ミオの耳元で囁く。
状況を理解しきれていない顔のまま、それでも彼女は黙って従い、自分の背にしがみついた。
まだ気づかれていない。
魔導馬まで走る?
――いや、間に合わない。
ならば、脱兎跳躍で一気に距離を取る。
「『ふん。日頃の行いが悪いから信用などされんのだ』」
「んだよ。なんかおめーに悪いことでもしたか? いつ? どこで? なにを?」
――くだらない口論が続く。
その隙に――
「ッ!!」
背を向け、脱兎跳躍《ラジャスト》を発動。
筋肉が弾け、夜の野原を矢のように駆け抜ける。
「『ッ!? しまった?!』」
エイシャがようやく気づいた声が背後から響く。
だが遅い。
わずか一瞬で、数十メートルの距離を引き離す。
「……皆、ごめん」
走り抜ける途中、馬車の残骸と仲間たちの亡骸が視界をよぎる。
胸が締めつけられる。
埋葬すらできない無力さが、刃のように刺さる。
だが――今は生き延びることが最優先だ。
「必ず……必ず戻る」
自分に言い聞かせ、ただ前へ走る。
背中でミオが震えながら、必死にしがみついている。
その温もりが、自分を前へ押し出す。
そして――
背後から、低く楽しげな声が漏れた。
「……ほおぉぉぉお?」