「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
ダークボルトの呼気が、獣の唸り声のように空気を震わせた。
その姿は、もはや先ほどまでの“人型の戦士”ではない。理性の皮を剥がれ、剥き出しになった殺意だけで立つ怪物。腹を空かせた肉食獣が、逃げ場のない獲物を睨み据える――そんな光景そのものだった。
紅天画撃を両手で強く握り込み、腰を極限まで落とす。背骨はしなり、肩は前へ張り出し、四足獣が今にも跳躍する瞬間のような低姿勢。口元からは無意識に垂れた涎が細い糸を引き、地面へと落ちて弾ける。
――分かる。
こいつは、ここからが本気だ。
「【神武流《かぶる》】」
短い詠唱。
だが、その瞬間、ダークボルトの全身が爆ぜるように脈動した。筋肉が縄のように盛り上がり、皮膚の上を黒雷が走る。ぱちり、と乾いた放電音が耳元で弾け、周囲の空気が一瞬だけ焼け焦げた匂いを帯びる。
次の瞬間。
「ぬっ!?」
視界が揺れた。
いや、揺れたのは世界のほうだ。
ダークボルトが一歩踏み込んだだけで、その巨体はすでに勇者の眼前へと到達していた。先ほどまでの疾風迅雷と比べれば、確かに“見える”動き。しかし――重い。踏み込みの一歩が大地を沈ませ、衝撃が足元から骨を震わせる。
勇者は即座に剣を構え、防御の体勢に入る。
――これなら、また防がれる。
そう思った刹那。
「くうっ!?」
轟音。
金属が悲鳴を上げる音とともに、勇者の身体が大きく後方へ弾かれた。
剣で受け止めていたはずの一撃。その衝撃は刃を越え、腕を砕く勢いで全身へ流れ込む。踏ん張った足が地面を抉り、土煙が舞い上がった。
「えっ?!」
体勢を崩し、勇者の正面が一瞬、完全に空く。
それは戦場において、死と同義の“隙”。
「貰ったぁぁぁっ!!」
ダークボルトが咆哮する。
紅天画撃が黒雷を纏い、唸りを上げて振り抜かれる。空気が裂け、耳が痛むほどの圧力が迫る。
「ちっ……!」
だが勇者は、崩れた体勢のまま無理やり剣を振り下ろした。
炎を帯びた刃が叩きつけられ、火花が爆ぜる。
紅天画撃は地面へと打ち込まれ、巨木が倒れるような音とともに大地を割った。
――紙一重。
今の一撃は、間違いなく“死”に触れていた。
「ちっ、やり損ねた!」
ダークボルトの舌打ちは、心底悔しげに響く。
勝利を掴みかけていた獣が、獲物を逃したときの声。
だがこちらは、冷や汗が背を伝う。今の攻防は、これまでとは次元が違う。ひとつ判断を誤れば、即座に命が刈り取られる領域へと踏み込んでいる。
「なるほど……今のは強化系魔法か」
勇者は体勢を立て直しながら、静かに言った。
息は乱れていない。声にも揺らぎはない。まるで、危機を楽しんでいるかのように。
「はっ、さすがに気づいたか。そうだよ。神武流は肉体強化魔法。俺の黒雷《こくらい》による速度強化と合わせれば――近接戦最強ってわけよぉ!」
誇示するようにダークボルトは腕を広げる。
黒雷がその全身を這い、周囲の空気を焦がす。
ただ速いだけではない。
ただ強いだけでもない。
速度とパワー、その両方が極限まで引き上げられている。
――これは、まずい。
誰もがそう思った。
だが当の勇者だけは、まだ笑っていた。
「確かに、近接戦において速度と力は重要だ」
圧倒的な暴力を前にしてなお、余裕を失わないその姿。
まるで、まだ見せていない切り札があると言わんばかりだ。
「だが……」
勇者は剣を静かに構え直す。
その刃に、微かな熱が宿り始める。
「まだ、こっちは“魔法”を使っていない」
その言葉と同時に、剣の刃から紅蓮の炎が噴き上がった。
荒々しく、獰猛に、しかしどこか神聖さを帯びた炎。
炎は風もないのに逆巻き、周囲の闇を焼き払い、戦場の影を赤く染める。
「勝負は――ここからだ」
炎が揺らめき、戦場の温度が一段上がる。
熱気に押されるように、ダークボルトの獣じみた瞳がわずかに細まった。
――勇者が、ついに牙を剥いた。