第4章ー1
ドレーカ村から脱出し、リーヴ村へ辿り着いてから、十年の歳月が流れた。
あの日の恐怖も、血と炎の匂いも、今では遠い夢の残滓のように曖昧になりつつある。忘れてはいけないはずなのに、人の心は存外、穏やかな日々に溶かされていくものらしい。
「エリカさん、洗濯物はここに置いておきますね」
「ありがとう、サダメ。干すのは私がやっておくから」
あれから自分は孤児として教会に引き取られ、シスターのエリカさん、神父、そして同じ境遇でここに来たミオと共に暮らしていた。四人だけの小さな家族のような生活。裕福とは程遠いが、食事があり、屋根があり、安心して眠れる場所がある。それだけで十分すぎるほど幸せだった。
かつての奴隷同然の生活を思えば、今はまるで別世界だ。温かい布団、毎日の食事、叱ってくれる大人、笑い合える仲間。それらすべてが、失って初めて尊さを知るものなのだろう。
前世では娯楽に囲まれて生きていた。ゲーム、漫画、ネット。暇を潰す手段など腐るほどあった。だがこの世界では、それらがなくても意外と不満はない。畑を手伝い、家事をこなし、村の人々と言葉を交わす。単調だが、確かな日常がここにはある。
今、自分は風呂場から運んできた洗濯籠を抱え、所定の場所へ置き終えたところだった。
この教会の洗濯は、すべて手洗いだ。最初に教わった時は指がふやけて真っ赤になり、何度も弱音を吐きそうになった。洗濯機という文明の利器が、どれほど偉大だったかを身をもって知った瞬間でもある。
この世界には家電という概念はほとんど存在しない。魔道具で代用できる場面もあるが、教会のような小さな暮らしでは贅沢品だ。結局のところ、人の手が一番確実で安い。
「その代わりと言ってはなんだけど、おつかいをお願いできる?」
「はい。晩ご飯の材料ですね?」
「ええ。ここに書いてあるものを買ってきて。はい、これ」
エリカさんから小さな巾着袋とメモを受け取る。
十年の時は人を変える。彼女も三十代後半になり、目尻に薄い皺が刻まれていた。それでも変わらぬ穏やかな微笑みと、包み込むような優しさは健在だった。
昔の自分は、彼女に淡い憧れを抱いていた。年上の女性への好意、子供じみた夢想。今思えば顔から火が出るほど恥ずかしい。
だが時が経ち、その感情は自然と形を変えた。今の彼女は、恋の対象というより、家族に近い存在だ。母親とも違う、しかし確かに自分を守ってくれる大人。その安心感が、何よりもありがたかった。
「それじゃあ、行ってきます」
巾着を懐に入れ、教会の扉を開く。
外にはいつもの村の景色。穏やかな風、子供たちの笑い声、土の匂い。
平凡で、かけがえのない日常。
自分はその中へ、今日も一歩踏み出すのだった。