──頂とは、冷たいものだ。
範馬殿の背中には賞賛があった、目を眩ませ天を貫く黄金があった。向けられる賛辞全てが足りぬ程に、向けられる賞賛が一つたりとて的外れな程に。
子のお陰か、今目の前に佇む頂の様な冷たさは癒されていたのだろう。
刃牙、範馬刃牙の親孝行、それがなければ、この男の様に。
「──ふぅむ」
──雪は、冬は、多くから煩われる。
冷たき世界。冷たき光景。味わうには余りにも、舌が凍って動きそうに無い。失い失い、見失い果てそうな銀世界へ如何様に剣を振るう──?
空を切るだけだ、この者を斬って得られるのは孤独のみ。誰が始めた関ヶ原、兵を斬り、民を斬り捨て捨てて、残るのは荒地に残る血潮だけ。
強き人、強き人より更に遠く強く在る人。お前を斬っても俺は、何も手に入らない、か。
──ならば、雪解けさせるだけよ。
美しいその白い髪を血に染めようぞ。遊女も唇を噛み締める珠玉の肌に、紅い糸を引いてやろう。
雪解けの景色を見ないことには、花の美しさも味わえ尽くせない。
「参ったな」
「参った?降参って事でいい?てか帯刀してないし…見る限りは、だけど」
「手合わせはしたい。だが舌が動かん」
「ハハっ、何それ」
『五条悟』が一歩、また一歩と歩みを進める。一見はまるで警戒の足りない、戦う者としては落第点の歩み。だが違う、それは違う。その慢心と傲慢は足りぬが故では無い。満ち足り過ぎているからだ。
満ち足り過ぎて──弱者の工夫が必要無い。
不遜に笑う顔も、肌を刺す殺気を放つ剣豪を前にして尚変わらない態度も、五条悟にとっては変える必要が無いというだけ。
「斬る事に理由は要らん」
「へぇ?」
「斬るなら斬る、斬らないなら斬らない。俺はお前を斬りたいが……──このような夜更けでは、誰にも見て貰えぬ…なッ!」
腰を引く、剣を抜くのではなく腰で抜く。
繰り返した幾千万、繰り出した幾千万。変わらぬ動作、変わらぬ太刀筋。命を絶つには切先三寸、それで満足出来るのならば両手に刀を握ってはいない。
せっかく──『斬る』のだ、常に愉しく。
刃が届く場へ踏み込んだ瞬間、不意討ちに放った横一文字。脳に描くは臓物が飛び散る様。呪力に慣れたこの身体ならば、あの金剛が如き肉の宮をも背骨ごと断ってみせる。
神速にして必殺、前世前前世から積み上げた全てをなぞる一太刀や如何に───、
「──。君、何者?」
「刃が届かない──?」
期待していた手応えは無く、蝋にでも固められた様に右腕が動かなくなる。振り切った筈の腕の完全な静止、サァ、と冷や汗が珠粒となって浮かび上がる。
散々合気を妖術だなんだと言っていたが、アレも技であり業の形だ。だがこれは──理屈が合わん。呪術も唯の技か力の一つだと侮っていた。
「…慢心、傲慢は俺の方だったな。これはこれは、極上とすら表しきれないご馳走ではないか。五条悟、強き人よ、これも呪術か?」
「人の事真っ二つにしようとしておいて、普通に返事してもらえると思ってんの?」
「ああ勿論!さぁ教えてくれ!俺に!」
「──呪術を!!」
純粋に、純朴に。
尊敬と期待を五条悟へと向ける。斬るべき敵と見るには、まだまだ俺の方が足りていない。この世界の頂、その立ち合い。死力を尽くして望まねば勿体なき事この上ない。
──斬り伏せられるか!今の俺の剣で頂を!!
「むんッ───!!!」
刃は届かない。ことは重々承知。だが一太刀目の反応で分かった、刃は防げても『気』は受け慣れてない。
勘が良すぎるのか、殺気を飛ばしてみれば過剰に硬直する。といってもほんの僅かな一間だが十分。
首に目掛けて放つは刺突、同じく左腕が動かなくなるが引けば元通り。次に腕、全身を引きながら刃筋を滑らせ小手を裂く。流れるままに臓腑の全てをもろびださせようと袈裟斬りを、
「うざったいな」
「ほう!そちら側からは掴めると!」
振り下ろした右腕を掴まれる、こちらからは届かない上に向こうは自由自在とは、なんとも理不尽。
引き剥がすにも見た目に削ぐわぬ剛力、呪術なくともぴくりともせぬだろう。
そして何度か振り下ろして
恐らく、五条悟に近づけば近づくだけ遅く、最後には停止と見紛う程度には止められる。離れる分には自由だが、これではどう足掻いても斬れる道が見えん。
何かを纏っているのならば斬れた自信があったがしかし、そも斬る、までに至らせぬとは。
呪力によって形作った我が刃、身体から離れぬ剣が欲しいと望んだものの、掌を返して投げ物が欲しくなる。
「…本当に君って『何』?呪霊の気配はするけど、人っぽいし。呪詛師なら拘束するけど…」
「〜〜〜〜っ、無知とは、無力だな。俺もまだまだ青い」
「話聞いてる?」
「何かと聞かれれば──俺は宮本武蔵だ」
「────」
理を得ぬといった面持ち、呆けている隙に草履を足指で挟み投げる。飛ばした先で同じく止まるが、今はどう止まっていくかを見る、見続ける。
全てを止めるというのなら、光も風も五条悟に届きはしない。何も感じず何も見えず、の筈。
砂埃も雨も、飛来する何もかもを止めては表を歩けやしないだろう。そうはなっていないのなら、何か仕組みがあると見た。
「まぁいいや。大人しくなるまで──少し乱暴しようか」
「お?ぉおおお!?」
──全身が引き寄せられる。鎖鎌と死合った時と同じだ、まるで底へ落ちていくような感覚。そのまま意識ごと奪われてしまいそうな錯覚が、妙に馴染みがあった。
乱暴、その言葉と共に放たれる掌底の一撃。受け切れるとばかり思っていたが、
「ぉ───ッ〜〜〜〜〜〜」
悶絶、地獄の苦しみの渦中へ放り込まれる。
掌底が命中したのはいつぞやか、範馬刃牙から受け取った段打ち、急所を穿るあの拳が捉えた二打目、水月である。
アレより遅い。アレより鈍い。アレより見える。
だが──アレより、更に重い。
「効くでしょ。加減はしないけどっ!」
「がっ…」
上段回し蹴り、長く伸びた足が十分に加速し頬を打つ。蹴り飛ばされ、商店街のシャッターへ宮本武蔵の魚拓を残す。
コレも特別早い訳じゃない、見えぬ程でも無い──が。
重い、ひたすらに重い。意識を飛ばさないでいるのが精一杯、そんな想いを抱くとは思ってもいなかった。腕を掴まれた時、金的に打たれていればそこで
唯の掌底でもなく、唯の蹴りでも無い。百度に一度、動く体に寸分の狂いなく拳を打ち込まれた時のような、鋭い痛み。
腹の底では斬るより先に一発受けてみたいと願っていたが、
「──────」
「あれ、もう終わり?」
──これは到底、受け止め切れん。
手の内を見る前に、そして見せる前に今宵を終わらせたくはない。タネは少し暴いた、引き離す力と、引き寄せる力。
「斬り結ぶ……太刀の……下こそ、地獄なれ…」
「踏み込みゆけば、後は極楽也。いざ死合わん」
「──。本当に宮本武蔵が宮本武蔵のセリフ吐いてるよ、オモシロ〜」
死中に活、死して尚活。この身に満ちる恐怖と苦痛が、斬り開く道を示すというのなら、今この瞬間こそ大舞台。
未だ遊びに過ぎず、
──呪術を纏う我が
呪術を斬って往くというなら、俺の形は定まった。頭に響く怨念が、腹を渦巻く呪力が、絶対的強者を前に叫んでいる。
斬ってみせろ、と。
「────」
「………!」
見つめ合う両者。片や狂人、闇と混ざる暗き剣豪。地獄の鬼を思わせる双眸は、たった一箇所を見つめている。身体はごく自然な脱力、剣の道と拳士の道、重ねた技が姿に映る。その姿形からは、届く筈の無い刃が鮮血を咲かせると想起させる。
片や変人、任された仕事の終わり際に、後輩から頼まれた巡回をしに来ただけの暇人で、特徴的な目隠しは外さないまま狂人をその瞳で捉えていた。全てを見通す眼が、濁りを見せるのは何時ぶりか。
──殺し合う寸前、剣豪の頭に思い浮かんだのは、拳士達への感謝である。彼奴等には困らせられたが、同時に知ってみたくなっていた。手段ではない闘争の味を、強さへの憧れの味を──ああ。こんな
「いざッ──!」
「術式反転──」
目に止まらぬ速さ、その言葉は五条悟の前では成り立たない代物であった。がしかし、事実として赤い光を灯らせ指を構えた五条悟の視界から、剣豪の姿は既に無かった。
自身を超える脱力の極み、初速で全速を幾度も見た。見たからといって出来る訳でも無かったが──呪霊、宮本武蔵の肉体にて拳士の技が花開く。
一瞬の戸惑い、一瞬の見失い。さりとて致命の一時。
「ここ」
人斬り武蔵、その体は既に尋常ではなく。
人斬り武蔵、その魂は幾世を紡ぎ。
人斬り武蔵、その真髄は、既に変わってしまっている。
今刃を振るう宮本武蔵は、人を斬る為だけの修羅なれば、天上といえど人は人。二刀合わせて斬れない訳もなし。
「っ!?」
五条悟の伸びた腕、それを上下で挟み斬る。
無論刃は止まっていた。無論、天上の呪術をこの世界に降り立ったばかりの剣豪が斬れる筈も無かった。
だが──抗おうにも抗えない絶対の『斬られた!』感が、自己が否定しても肉体が認めてしまう『斬られた!』が、五条悟の腕を自ら屈させた。
衣服はそのまま、肘から先が落ち、
「は──。ははっ!愉快な──」
「──『赫』」
──同時に。
落とされた腕は瞬時に再生し、人斬り武蔵は赤い光に包まれる。